善悪論――善から「悪」へ、そして行ったりきたり
私はかつて「善」を人間の最もたる思想の模範として、あちこちで検討し、主張してきた。しかし、前にも書いたが、そのことで、あるユーザーから批判を受けてしまった。そして、私はその批判を乗り越えることを決意し、新しいテーマ、新しい文学を模索し、掲げようとしたが、結局は従来の「善」の肯定という主張に再び戻ってしまうこととなってしまった。
さて、そこで私は次の思想を、次の主張を用意しなければならなくなったのだが、その理由としてはやはり「善」の肯定の主張そのものに「弱さ」を感じてならなくなったからであり、まあもう一つ断って置くと、「善」の主張はつまり「正義」の主張に他ならないものである。しかし、私はこの「正義」という言葉を汚すつもりは毛頭ない。『正義』は人間の正しい行いという意味からなるものでもあり、私はこの『正義』という概念には神からの恩恵を被っていると言っても過言ではないくらい、性懲りもなくこの発言をやめるつもりはない。
なお、私がこの作品を書くに至ったわけとしての一つ目は「私は本当に『善』にこだわる必要があるのか」ということと、もうひとつ目は「『悪』というものをうまく理解し、それを肯定することもまた可能ではないのか」ということだ。つまり、「悪」を認めることにやっとこさ辿り着いたのだ。しかし、私はそこで「善悪」論の肯定という考えに至った。この作品はとりあえずその「善悪」論の肯定ということにテーマをしぼった論考である。私の身勝手な思想の到達点を皆に拝んで頂きたいと思いましたので、どうぞご覧下さい。
さて、正直、私の「善悪」論はすでに始まっていることに気付く人はいまいだろうか。なぜならば、この「善悪」論の肯定という言葉自体で全て主張はなしたことになるからである。あえて、細かく説明していくならば、「善」はやはり美しいものだと思っている。しかし、それはもう分かっていることである。その時に、「悪」を意識し、包括できなければ、「悪」を差別していることになるのではないかと思うのだ。やはり、差別はいけない。差別は最も汚れた人間の行いである。しかし、そもそも「悪」は差別と関係がある。差別したいと思う感情、それが「悪」ではないか。そうである。ところが、「善」の肯定は「悪」を差別視することと違ってはいまいだろうか。「善」が「悪」を差別することだってある。その時は実は「善」は「善」ではなく、「悪」なのだ。「悪」になりかわっている。けれども、「善」が「悪」を差別して何がわるいのであろう。そう、その点で「悪」は肯定されねばならないものなのである。
「悪」を分かって頂いただろうか。人は時には「差別」も必要だ。なぜなら、邪悪なものに対して卑下しなければならないからであり、その時は「差別」は肯定される。ところが、ここが重要なのだが、本当の人の究極の理想は「差別なし」の世界である。このことだけは断って置かねばなりません。私はその日がいつかくることを夢見て、自分の文学を残しておきたいとそう考えているのです。
そして、もう一度言い方を変えて言います。人は「悪」という性質も内包しています。これは絶対です。そして、だからこそ人は「悪」を肯定し、主張せねばならないのです。人は「善は素晴らしい」と言う時には必ず「悪も素晴らしい」と思わなければなりません。「悪」と「善」は兄弟みたいなもので、いつも一緒にくっついて歩み、そして両者の性質は特に似ているのです。お互いの気持ちを尊重し、共存しなければ、世界の平等や平和はおとずれません。それは「差別」という問題に行き着きます。つまり、「善」から「悪」への差別、そして「悪」から「善」への差別をやめなければならないのです。同じことを二回言っていますが、私の「善悪」論をこの辺で終わりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。