8
守の団地手前の端まで来ると、僕は走るスピードを落とし、金鎚をズボンのポケットに忍ばせた。全部は入りきらず、木柄が少しはみ出してはいるが、そのまま手に持ってウロウロしているよりも、いくぶんマシだ。息を切らした中学生が金鎚を持って走っているなんて、通行人の目に異常に映ってしまうだろう。警官にでも咎められたら厄介だ。
ここからは慎重に――。
僕は橋を渡り、土手をゆっくり進んだ。
汗を拭い呼吸を整える。
太陽が西に傾きかけている。犬の散歩をする人、ランニングをする人、買い物袋を提げ家路を急ぐ人――。様々な人たちとすれ違った。団地周りは次第に慌ただしくなってくるだろう。急がなければ、守も帰ってくるはずだ。
それまでに。
冷静に――とはいえ速やかに。
僕は行き交う人たちの中に紛れるように歩いた。目立たないように。
県営団地の群れが次第に大きくなってくる。規則正しく直立したコンクリートの塊たちが僕を見下ろしている。
県営A団地八号棟三○五号室。
数時間前に来た場所だ。忘れようもない。
あの痛々しい守を目撃した場所。
あの場所を上ったところに守を苦しめる者がいる。
守には二つの借りがある。
ひとつはあの日、植山たち三人から解放されたこと。
あの日の守は僕にとってヒーローだった。学校の教師にもクラスメイトにも相談できない苦痛。両親に告げ口すれば、それはさらにひどくなったであろう苦痛。
誰かに相談すれば、彼らの仕打ちはこれまで以上に地下に潜り、さらにひどくなっただろう。
守は解放と同時に、地下に潜ることさえも防いでくれた。しかも、それは僕の知らない所で行われていた。
それがふたつめの借りだ。
借りを返す――。
八号棟の前。
集合ポストが目に入った。それぞれに部屋番号が打ってあり、『長谷川』の文字が確認できた。ポスト口にはチラシの山が溢れて、入りきらなかった郵便物が足元に散乱していた。まるで守を取り巻く環境を体現するかのように、無秩序だ。
僕は散らばったチラシを踏みにじった。僕には見せなかった守の一面を――どす黒く澱みきった守の負の部分を揉み消すように、憎しみをこめて。
目の前の階段を昇れば、後戻りはできない。
いや、後戻りなどする気は無い。僕は守を救うのだ。たったひとりの友達を。
一段、一段、ゆっくりと踏みしめるように階段を昇る。団地内の階段はひんやりとしていて、湿っていた。二階の踊り場で一度足を止め、階下を覗く。駐車場に停まっている車はまだまばらで、僕よりも年下の子どもたちが楽しそうにどこかへ向かっていた。
落ち着け――。
自分に言い聞かせるように呟いた。別に気持ちが逸っているわけではないが、冷静にならなければならない。気だけが急いては、手元が狂い、正確な動きができない。冷静でありながら、少しの興奮状態を保つ――それがベストなのだ。
植山のときは、我を失っていた。あれではいけない。
正確に。
一撃で――。
再び階段を昇る。僕は膝が少し震えているのに気付いた。ズボンの上から太ももを軽く叩いてみた。頭では冷静を装っていても、体は怖気づいているのか。
ゆっくりと階段を上がる。
処刑台に昇るように。
生を噛み締めるように。
僕は鉄の扉の前に立った。ピンクにも見えるし、ベージュのようにも見える、冷たい鉄の扉だ。扉の上には『三○五 長谷川』の文字。
着いた。
いよいよだ。
目を閉じ、鼻から大きく息を吸う。肺が大きく膨らみ、空気が満たされた。ゆっくり息を吐き、目を開けた。
視線の先にはインターホンがあった。
僕はポケットから金槌を取り出した。右手で細い木柄を握り締めた。
そして。
左手でインターホンを押す。少しは躊躇うかと思っていたが、自分でも驚くほど落ちついていた。インターホンを押した指先には、微塵の迷いも無かった。
室内からピンポンという甲高い音が微かに聞こえた。なにかが動く音がした。人の気配が確実にする。
守はまだ帰っていないはずだ。ここへ来てまだ姿を見ていない。
母親は?
いない――はずだ。
少し迷いが生まれたが、きっといないはずだ。もし母親が出てきたなら、笑顔で挨拶すればいい。守の友達なのだから。武器は背中に隠し、守に会いに来たと中学生らしく振る舞えばいいだけだ。
「――どちらさん?」
中から聞こえてきたのは、ガマガエルの鳴き声のような汚らしい濁声だった。僕はにわかに殺気立った。
いる――。
日中にあの土手で見たあの男が。
守の表情を一瞬にして曇らせるあの男が。
あんなに美しかった守の顔を傷つけたあの男が。
金槌を握る右手に汗が滲む。自分のこんな力があったのかというほど、力を込めているせいだ。
カチャッ。
中から鍵を開ける音。
僕はもう一度、呼吸を整えるために目をつぶった。
まぶたの裏に守の顔が浮かんだ。頭の包帯も口元の痣も無い、いつも見せてくれたあの爽やかな笑顔の守の顔だ。僕に向かって白い歯を見せてくれている。
たったひとりの僕の友達。
僕を苦境から救ってくれたヒーロー。
今もあの公園で僕を待ってくれている。
もうすぐ行くから、もう少しだけ待ってて。
今度は。
今度は僕が――。
鉄の扉が金切り声を上げて、ゆっくりと開いた。その音に釣られるように、僕も目を開けた。
開いた玄関には男が怪訝そうな目で顔を覗かせた。
寝癖のひどい長い髪に不潔な無精髭。ヨレヨレのTシャツに色褪せたスエットパンツ。守とは似ても似つかない。いや、全くの対極の存在のように汚らしい。血の繋がりがないのが唯一の救いだ。こんな汚らわしい男が、守とひとつ屋根の下で暮らすなどふさわしくない。
お前が――。
「こんにちは」
僕はにっこり笑って挨拶した。
そして。
僕はあらん限りの力を込め、男のこめかみ目掛けて金槌を振り抜いた。
心地よい血飛沫が、僕の顔を覆った。