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今度は僕が  作者: 益次郎
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 守の団地手前の端まで来ると、僕は走るスピードを落とし、金鎚をズボンのポケットに忍ばせた。全部は入りきらず、木柄が少しはみ出してはいるが、そのまま手に持ってウロウロしているよりも、いくぶんマシだ。息を切らした中学生が金鎚を持って走っているなんて、通行人の目に異常に映ってしまうだろう。警官にでも咎められたら厄介だ。

 ここからは慎重に――。

 僕は橋を渡り、土手をゆっくり進んだ。

 汗を拭い呼吸を整える。

 太陽が西に傾きかけている。犬の散歩をする人、ランニングをする人、買い物袋を提げ家路を急ぐ人――。様々な人たちとすれ違った。団地周りは次第に慌ただしくなってくるだろう。急がなければ、守も帰ってくるはずだ。

 それまでに。

 冷静に――とはいえ速やかに。

 僕は行き交う人たちの中に紛れるように歩いた。目立たないように。

 県営団地の群れが次第に大きくなってくる。規則正しく直立したコンクリートの塊たちが僕を見下ろしている。

 県営A団地八号棟三○五号室。

 数時間前に来た場所だ。忘れようもない。

 あの痛々しい守を目撃した場所。

 あの場所を上ったところに守を苦しめる者がいる。

 守には二つの借りがある。

 ひとつはあの日、植山たち三人から解放されたこと。

 あの日の守は僕にとってヒーローだった。学校の教師にもクラスメイトにも相談できない苦痛。両親に告げ口すれば、それはさらにひどくなったであろう苦痛。

 誰かに相談すれば、彼らの仕打ちはこれまで以上に地下に潜り、さらにひどくなっただろう。

 守は解放と同時に、地下に潜ることさえも防いでくれた。しかも、それは僕の知らない所で行われていた。

 それがふたつめの借りだ。

 借りを返す――。

 八号棟の前。

 集合ポストが目に入った。それぞれに部屋番号が打ってあり、『長谷川』の文字が確認できた。ポスト口にはチラシの山が溢れて、入りきらなかった郵便物が足元に散乱していた。まるで守を取り巻く環境を体現するかのように、無秩序だ。

 僕は散らばったチラシを踏みにじった。僕には見せなかった守の一面を――どす黒く澱みきった守の負の部分を揉み消すように、憎しみをこめて。

 目の前の階段を昇れば、後戻りはできない。

 いや、後戻りなどする気は無い。僕は守を救うのだ。たったひとりの友達を。

 一段、一段、ゆっくりと踏みしめるように階段を昇る。団地内の階段はひんやりとしていて、湿っていた。二階の踊り場で一度足を止め、階下を覗く。駐車場に停まっている車はまだまばらで、僕よりも年下の子どもたちが楽しそうにどこかへ向かっていた。

 落ち着け――。

 自分に言い聞かせるように呟いた。別に気持ちが逸っているわけではないが、冷静にならなければならない。気だけが急いては、手元が狂い、正確な動きができない。冷静でありながら、少しの興奮状態を保つ――それがベストなのだ。

 植山のときは、我を失っていた。あれではいけない。

 正確に。

 一撃で――。

 再び階段を昇る。僕は膝が少し震えているのに気付いた。ズボンの上から太ももを軽く叩いてみた。頭では冷静を装っていても、体は怖気づいているのか。

 ゆっくりと階段を上がる。

処刑台に昇るように。

 生を噛み締めるように。

 僕は鉄の扉の前に立った。ピンクにも見えるし、ベージュのようにも見える、冷たい鉄の扉だ。扉の上には『三○五 長谷川』の文字。

 着いた。

 いよいよだ。

 目を閉じ、鼻から大きく息を吸う。肺が大きく膨らみ、空気が満たされた。ゆっくり息を吐き、目を開けた。

 視線の先にはインターホンがあった。

 僕はポケットから金槌を取り出した。右手で細い木柄を握り締めた。

 そして。

 左手でインターホンを押す。少しは躊躇うかと思っていたが、自分でも驚くほど落ちついていた。インターホンを押した指先には、微塵の迷いも無かった。

 室内からピンポンという甲高い音が微かに聞こえた。なにかが動く音がした。人の気配が確実にする。

 守はまだ帰っていないはずだ。ここへ来てまだ姿を見ていない。

 母親は? 

 いない――はずだ。

 少し迷いが生まれたが、きっといないはずだ。もし母親が出てきたなら、笑顔で挨拶すればいい。守の友達なのだから。武器は背中に隠し、守に会いに来たと中学生らしく振る舞えばいいだけだ。

「――どちらさん?」

 中から聞こえてきたのは、ガマガエルの鳴き声のような汚らしい濁声だった。僕はにわかに殺気立った。

 いる――。

 日中にあの土手で見たあの男が。

 守の表情を一瞬にして曇らせるあの男が。

 あんなに美しかった守の顔を傷つけたあの男が。

 金槌を握る右手に汗が滲む。自分のこんな力があったのかというほど、力を込めているせいだ。

 カチャッ。

 中から鍵を開ける音。

 僕はもう一度、呼吸を整えるために目をつぶった。

 まぶたの裏に守の顔が浮かんだ。頭の包帯も口元の痣も無い、いつも見せてくれたあの爽やかな笑顔の守の顔だ。僕に向かって白い歯を見せてくれている。

 たったひとりの僕の友達。

 僕を苦境から救ってくれたヒーロー。

 今もあの公園で僕を待ってくれている。

 もうすぐ行くから、もう少しだけ待ってて。

今度は。

 

今度は僕が――。

 

鉄の扉が金切り声を上げて、ゆっくりと開いた。その音に釣られるように、僕も目を開けた。

 開いた玄関には男が怪訝そうな目で顔を覗かせた。

 寝癖のひどい長い髪に不潔な無精髭。ヨレヨレのTシャツに色褪せたスエットパンツ。守とは似ても似つかない。いや、全くの対極の存在のように汚らしい。血の繋がりがないのが唯一の救いだ。こんな汚らわしい男が、守とひとつ屋根の下で暮らすなどふさわしくない。

 お前が――。

「こんにちは」

 僕はにっこり笑って挨拶した。

 そして。

 僕はあらん限りの力を込め、男のこめかみ目掛けて金槌を振り抜いた。

 心地よい血飛沫が、僕の顔を覆った。


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