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県営A団地八棟三○五号。
紙切れにはそれだけが書かれていた。
僕にはその団地がどこにあるのか見当もつかない。学校を飛び出したものの、隣の中学校区の団地など全く把握できていない。交番に聞きに行こうにも、まだ平日の昼間だ。制服姿の中学生がうろついている時間ではない。変に目を付けられては厄介だ。
とりあえず、僕はいつのも公園へ行くことにした。
あの公園から東中学の校区へ向かっていけば、団地が見つかるかもしれない。「八棟」というくらいだから、それなりに高い建物が連なっているはずだ――そう考えたのだ。
いつのもの公園に着くと、幼い子供を連れた母親がレジャーシートを敷いて弁当を食べていた。何の遊具も無い味気ない公園に、僕ら以外の人がいるという光景はなんだか新鮮だった。
そんな親子を背に、僕はいつも守が帰って行く方向へ歩き出した。
自然と歩幅は狭くなり、息が切れる。連なっている住宅の屋根を眺めながら、僕は団地らしき建物を探した。
しかし目に入るのは高いマンションや雑居ビルばかりで、団地らしきものは見当たらない。
中学校の校区とはいえ、二三校の小学校の校区から成り立ち、その範囲は広大なはずだ。しかもその距離を徒歩で巡ろうなど、僕の探索はあまりにも無謀過ぎた。自分の中学校区ならまだしも、土地勘がほとんどない場所なのだ。
空腹とのどの渇きも手伝って諦めかけた僕の足は、次第に鉛のように重くなっていった。
そして見知らぬ橋のたもとにさしかかったそのとき。
川岸の奥の方にいくつかの建物が視界に入った。
あれだ。
アイボリー色の四五階建ての建物がいくつも並んでいる。確信めいたものが僕の中に湧き立ち、鉛のようだった足も心なしか軽くなった気がした。
もし違っていたなら諦めよう――。
そんなことを考えながら、僕は川沿いの土手を歩いた。
コンクリートの建物には側面に大きく数字が書いてあった。
そして駐車場に建てられた掲示板には「A団地」の文字。
見つけた。
あとは八棟を探すだけだ。
そして。
目的のものはすぐに見つかった。「8」の数字を見つけた瞬間、僕は金縛りにあったように固まってしまった。
階段への入り口付近に、見覚えのある姿を見つけてしまったのだ。
不意を突かれたせいもあるだろう。まさか来てすぐに守に会えるなんて思ってもみなかったし、突然押し掛けたところで、迷惑がられたらどうしようと不安もあったそれでも守に会いたい一心でここまでやってきた。インターホンを押すか押さないか、行ってから考えよう――そんなことを考えていた矢先、遠目に守の姿を見つけてしまった。
しかし、僕が固まったのは不意を突かれたせいだけではなく、また別の理由があった。
いつもと様子が変なのだ。
ふらふらとした足取りで団地の建物から出てきた守は、植え込みの縁に座ってぼーっと遠くを眺めている。僕と会っているときとは違って、背中を丸めて縮こまって座る姿は、まるで別人のようだった。
それにひと際目を引いたのは、守の頭に巻かれた包帯だった。
「――守君」
声を掛けずにはいられなかった。
守の姿を見た瞬間から、僕の動悸は激しくなっていた。
守に一体何があったのか。それを知りたくてたまらない。
僕には知る権利がある。
彼の友人として――。
「祐――ちゃん?」
僕の声に反応した守がこちらを向いた瞬間、僕は絶句した。
包帯は頭だけでなく、彼の左目まで覆っていたのだ。しかも、口元には知り合ってすぐに気になっていたあのときよりも、さらに大きな痣ができている。
「ど、どうしたの、それ」
「ん? ああ、これね――」
ドジっちゃった、と守は右目だけで笑って見せた。
「ドジって――。そんな酷い怪我。どうやったらそんなことになるんだよ」
守は応えなかった。視線を落とし、どこか思い詰めたような横顔を見ていると、それ以上問い詰めることはできなかった。加えて、僕は彼の家まで勝手に押し掛けているのだ。本来なら約束を破ったことになる。守の痛々しい様子を見て、僕の負い目は肥大していた。
「――ちょっと歩こうか」
守に促され、僕は背中を追うように、後ろをついていった。
しばらく僕たちは黙って歩き続けた。
守がどこへ向かっているのかは分からない。親鳥の後をついて回る子鴨のように、僕は守について行くだけだった。歩幅も小さく、歩き方のぎこちなさを見るに、守は顔や手だけではなく、足のどこかを痛めているようだ。
やがて守は僕が通ってきた土手へ向かい、それを越えて河川敷の方へ降りていった。角の取れた丸い石が無数に広がった河原に着くと、守は目ぼしい大きな石を見つけ、そこに腰を下ろした。
「びっくりしたよ。よくここが分かったね」
隣に座った僕に、守は微笑んだ。いつも公園で見ている笑顔だが、片目を覆った包帯と口元の痣が僕の胸を締め付けた。
「植山――あいつらのうちのひとりが東中の子と塾が一緒なんだって。その子から守君のこと聞いたらしい」
ふうんと守は川の方へ目をやった。
「――が足りなかったかな」
守が呟くようになにかを囁いたが、よく聞こえない。
「え?」
「いや、なんでもないよ。よその学校の生徒に平気で家のこと教えたりできるんだな。俺のことなんか知りもしないくせに」
口調は柔らかいが、明らかに怒気を含んでいる。僕はごめんと、謝るしかなかった。
「ああ、祐ちゃんに怒ってるんじゃないよ。人のいないところでこそこそ噂話してる連中が嫌いなんだ。多分、俺の家を教えた奴は同じ団地の奴さ。そうでなければ、僕の怪我のことなんて、知りようもないしね。今頃クラスの中で長谷川が大怪我して休んでるって笑ってるんだよ、きっと」
「それだけの怪我してるならしょうがないよ。誰でも気になるって」
気になったから僕もこうして迷子覚悟でやって来たのだ。
「お見舞いに来てくれたのは祐ちゃんだけだよ。担任なんて電話口でそうですか、って言っただけ――」
どうでもいいんだよ、と守は吐き捨てるように言った。
いつもの守らしくない。怪我をしているのだから無理もないが、いつもの明るさと爽やかさを感じない。守は学校に友達がいないと言っていたが、僕とは違って物憂げさがなかった。友達などいなくても、ひとりで生きていけそうな快活さがあった。そんな僕とは正反対な性格の守に、僕は惹かれたのかもしれない。
しかし、今日は違った。捨て鉢な態度がいつもの守らしくない。
「なにがあったのか――聞いちゃだめかな」
断られたなら帰ろう。
話すのが嫌だといわれれば、諦めよう。
僕は訊いた。
「――転校してきたって言っただろ?」
確か、夏休み明けに東中学に転校してきたと言っていたから、ひと月ほど前になる。
「それまでおばあちゃんと一緒に住んでたんだ。おばあちゃんとふたりで」
引き取られたんだ、と守は言う。
「小学校四年のときに。両親が離婚して一年も経ってなかった。お母さんの仕事が忙しくて、僕はほとんどほったらかしだった。それを見かねたおばあちゃんが、しばらく一緒に暮らそうって言ってくれたんだ」
僕は川の流れを眺めながらだまって聞いていた。
「おばあちゃんとの暮らしも満足してた。友達もできたし、毎日楽しかった。お母さんが会いに来ることはほとんどなかったけど、ほとんど気にならなかった。三年もすれば、両親よりもおばあちゃんと一緒の方が幸せな気がしてたんだ。それが――」
おばあちゃんが死んで、守の生活は一変したらしい。
「僕はお母さんに引き取られて、こっちへ引っ越すことになった。不安しかなかったよ。せっかくできた友達とも離れなければならないし、なにより優しかったおばあちゃんがいなくなってしまったからね。迎えに来たお母さんがなんだか他人のように感じたよ。どうにか元の場所で今までのように暮らせないかって、頼んだけど仕事があるからそれは無理だって。僕は、半ば無理やりこっちに連れて来られたんだ」
守の言葉の端々に憎しみが籠っている。それは次第に大きくなっているような気がした。
「今思えば、例えひとりでも向こうに残っていればよかったよ。毎日毎日、こっちへ来たことを後悔してる。母親なんて名前ばかりの女の人の言うことなんて聞かなきゃよかったってね。そうやってひねくれちゃったから、こっちの学校で友達なんてできない。つまらないから、放課後に近所をうろついてたら――」
――祐ちゃんに会った。
不意に顔を上げた守と目が合った。淋しげな目にうっすらと涙が浮かんでいる。
「こっちで出来た初めての友達に会うのが、俺の唯一の楽しみになった」
「僕も楽しかったよ。まさかあの公園に行くのが楽しくなるなんて思ってもみなかった」
守は表情を緩めると、ポケットからあのナイフを取り出した。
「この前、祐ちゃんが言ったよね。これをいつか使うのか、って」
僕は息を呑んだ。
「こっちに連れて来られると、男がいたんだ」
「男――?」
「彼氏――っていうのかな。お母さんに男がいた。そいつが部屋に住みついてたんだ」
「まさかその人にそれを?」
「あいつは最低の糞野郎さ。夜遅く帰ってきて、昼過ぎまで寝てる。お母さんは毎日必死に働いているのに、あいつは働いているかどうかも分からない。酒を飲んでるか煙草を吸ってるか。まともじゃないんだ。それに――」
これだよ、と守は口元の痣を指差した。
僕は戦慄した。
以前見たあの痣も今回のこの怪我も、つまりはその母親の彼氏が原因だというのか。子どもを虐待して殺してしまったというニュースは見たことがあるけれど、守は中学生だ。体もそれなりに大きいし、力だって幼い子どもとは違ってそれなりにあるはずだ。
「その――男の人が全部?」
守は頷いた。
「俺が邪魔なんだよ。突然家に僕みたいなのが転がり込んできたんだからね。殴る蹴るなんて日常茶飯事さ。俺はなるべく顔を合わせないように部屋に閉じこもってるんだけどね。一緒の家に住んでるんだから、どうしても会っちゃうんだ。知らん顔してても向こうから手を出してくるんだから、嫌になるよ」
「お母さんは? お母さんはなにも言わないの? 守君がそんなことされて」
「最初のうちは止めてくれてたよ。だけどそれも表面だけさ。なにしろあの人だって、俺が邪魔でおばあちゃんに押し付けたんだから。俺を引き取ったのも、他に貰い手がいなくて仕方なくだったんだよ」
ひどい話だ。
守が隣の校区をうろついていたのは、こんな家庭環境のせいだったのだ。連絡先を教えないのも、もしその男が電話に出たときのことを考えてのことなのだろう。学校にも居場所がないうえに、一番の拠り所でもある自宅までもが彼を拒絶している。いつもの爽やかな笑顔の下に、こんなにも暗い事情があったとは。僕はなんと声をかけていいのか分からなかった。
「学校で友達ができないのは俺の責任でもあるんだよね。心を開かないから誰も話しかけて来ない。顔や体に痣作ってくる転校生に声を掛けにくいなんて当然さ。だけど、ひとつだけ言い訳するなら、家のあんな事情もあって、どんどん俺の心は塞いでいった。塞げば塞ぐほど、学校の居場所もなくなって、家に帰ってもそんな気持ちが表情に出る。そんな俺の顔を気にくわないあいつが腹を立てて殴ってくる――」
悪循環さと、守は諦めたように息を吐いた。
「――祐ちゃんにはこんな話したくなかったんだけどね」
「どうして? 話してくれればよかったのに。僕が力になれることが――」
あるはずがない。
たった十三歳の子どもがしゃしゃり出てきたところでどうなるものではない。力になるどころか、かえって火に油を注ぐことになるだろう。下手をすれば僕にだって暴力をふるってくる可能性だってあるのだ。あくまでも、これは守の家庭内の問題であり、最近知り合ったばかりの、友達と呼べるのかも怪しい僕なんかが、踏み込める領域ではないのかもしれない。
だけれど。
「恥ずかしいじゃん――」
肩をすくめて苦笑する守の横顔を見て、僕はなにも言えなかった。
「君をおもちゃにしてる連中を殴り倒した俺が、実は家で同じような目に合っているなんてさ。あの日の祐ちゃんの俺を見つめる目――憧れのヒーローにでも会ったような目が忘れられないんだ。ああ、こいつは俺のことこんな目で見てくれてる。別に感謝されたくて、あいつを殴ったんじゃない。いつもやられてることを誰かにしてやりたい――そんな衝動から取った行動だったのに、こんなに感謝されるとは思ってもみなかった。だから、祐ちゃんの前では強い男でいたい、失望させたくないって思ったんだよ」
でもバレちゃったと、守は笑いながらも、寂しげな目で僕を見た。
「守君の家の事情がどうあれ、僕を助けてくれたのは事実だよ。どんなことがあっても、がっかりすることはないし、友達をやめたりなんてしない」
君を助けたいと、喉まで出かかった言葉を僕は飲み込んだ。今の僕にできることは、彼を家から連れ出したりすることじゃなく、友達として支えてやることだ、と思った。力のない僕にはそれくらいしかできない。
守はありがとう、といつもの笑顔を見せてくれた。
だが、次の瞬間、守の視線は僕のはるか後ろにそれ、みるみるうちに表情が曇っていった。
「どうしたの?」
守の視線を追うように振り向くと、土手のはるか向こう、僕が渡ってきたあの橋の方から男が歩いてくるのが見えた。
まさか、あいつが――。
僕は汗ばんだ拳を無意識のうちに握り締めていた。
「こっちへ」
守は僕の肩を叩き、顎で逆の方を差した。
ポケットに手を突っ込み、肩をいからせて歩いてくる男の視界に入らないように、ふたりで体を屈め、川沿いを早足で歩いた。
「先週――」
歩きながら、守が口を開いた。
「あいつ、やけに機嫌が悪かったんだ。機嫌が悪いのはしょっちゅうあるんだけど、あの日は特別。酒も入って、家でぶつぶつ文句ばっかり言ってた。俺は自分の部屋に籠って本を読んでたんだけど、いきなりガシャンってガラスが割れる音がした」
男が見えない場所まで来ると、守は立ち止まった。見えないけれど、警戒は解かず、男のいた方角へ視線を向けていた。
「また物に八つ当たりでもしたんだろうって、知らん顔してたんだけど。そしたらなにかを殴る音がした。小さくだけど、お母さんの悲鳴が聞こえたんだ」
お母さんを殴りやがったんだ、と守は唇を噛んだ。男のいた方へ向けた目は鋭く、怒りに満ちていた。
「僕は部屋を飛び出した。頭に血が上ってたんだろうね。なにしたんだ、って怒鳴ったよ。これまで僕に手を出しても、お母さんに手を出したことなかったから。優しくされた記憶なんてないけど、やっぱり母親なんだろうね。俺にとっては」
その結果がこれさ、と守はおどけた。
「なんの抵抗も出来なかった。大人の力ってすごいよ。一発一発が石で殴られたかのように、体に響くんだ。何度息が止まったかわからない」
「使わなかったんだ――お守り」
僕の言葉に、守はまた笑って見せた。こんなに怪我しているのに、どうしてそんな笑顔になれるのだろう。やっぱり守は強いのだ。
「よっぽど、使ってやろうと思ったさ。殴られてる間も、本気で殺してやろうって思った。お母さんをこれで守れって言われたナイフを、あいつの体に突き刺してやったらどれだけ気持ちいいだろう、って。でも――」
守は小石を蹴った。川面に落ちた石が小さな波紋を作った。
「お母さんが泣いてたんだ。泣いてあいつを止めてるんだ。あんなに必死に止めるお母さんを見たのは初めてだった。そのとき思ったんだ――」
――殺そうって。
でも、できなかったと、守は言った。
「気を失ったんだ。頭を壁に打ちつけて」
守は恥ずかしそうに舌を出した。
「目が覚めたら病院のベッドの上だった。だからナイフを使う暇なんてなかったんだ」
守は本気であのナイフを使おうと思ったのだろう。彼の目の中に、憎悪という炎が燃え盛っているようだった。僕は悔しげに歯を食いしばる守の横顔を見つめることしかできなかった。