女神の盾
少年、花村彼方は冷たい水の中をどこまでも沈んでいった。
不思議と恐怖はなかった。
母の腕に抱かれているような安心感の中で、少年は眠るようにして目を閉じた。
底に近付いて行くにつれて、環境に変化が生じて行った。
水底には不釣り合いな書架がいくつも沈んでおり、中には分厚い背表紙の書物がいくつも収められているものさえあった。ここは、墓場。かつて広大な書庫が築かれようとしていた、知識の墓場だ。
少年の体が湖底に落ちる。
それと同時に、彼の小さな指に嵌められた宝石が光り輝いた。
これは単なる宝石ではない、神の子たる証明、『神印』。
少年はただの子供ではない。
神の血を引き、この世界の住人でありながら神の力を振るうことの出来るものなのだ。
ぼんやりとした光が彼の体を包みこむ。
燃えるような熱さを味わい、少年は目を開いた。
その指先が湖底をひっかくと、何か金属を触るような手応えがあった。
少年は無意識のうちにそれを手に取った。
指輪の宝石が、一段と強く光り輝いた。
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獣めいた咆哮を上げながら真一郎は黒星に殴りかかった。暗黒の装甲から火花が上がるが、黒星の方は意にも介していない様子でカウンターパンチを繰り出す。真一郎はスウェーでそれを避け、再び何の策もない一撃を繰り出す。火花が散る。
「怒っているのは分かりますがね、園崎くん。それでは面白くないんですよ!」
「黙れ! 貴様に何が分かる!? 俺の何が分かるというのだ、黒星! ふざけるな!」
右の拳で黒星の顎を打つ。カウンターで繰り出された左を避け、逆に自身の左で黒星の腹を打つ。振り下ろされた断頭チョップを受け止め、黒星の腹に槍めいたサイドキックを繰り出す。さすがに蹴りを受ければダークマターといえどただでは済まない、ゴロゴロと地面を転がって、黒星は真一郎と距離を取った。真一郎はトリガーを引いた。
「はっ! ハハハハハ! 狼狽えていますね、キミらしくない!」
狼狽えている? 確かにその通りだ。周囲には多数の《ナイトメアの軍勢》が展開し、騎士たちを蹂躙しようとしている。それらに対抗できるだけの力を持った自分は、いま黒星に釘付けにされその力を発揮できないでいる。己の無力さに真一郎は歯噛みする。
「諦めてしまいなさい、園崎くん! キミの力はしょせんその程度なんですよ!」
「黙れと言っているぞ、黒星! 俺は貴様を殺し、みんなを守って見せる! 絶対に!」
真一郎は咆哮を上げ黒星に突撃を繰り出そうとした。その時だ!
湖底から水柱が上がった。
戦場の誰もが、《ナイトメアの軍勢》でさえもそちらを仰いだ。
水柱が晴れると、そこから光が漏れ出した。そして、少年が現れた。
体格に似合わない重厚な両刃剣。
そして皇帝家の、『光』の紋章を刻んだカイトシールドを手に持っていた。
光を放つ少年は悠然と構え、赤い瞳は戦場を睥睨した。その目に見られたものは、味方であれば勇気と畏敬を。敵であれば恐怖と絶望を植え付けられた。彼は、その場から飛んだ。空を蹴り、地上へと帰還したのである。
来た道へと降り立った少年は右手に持った神剣、アポロの剣を敵に向ける。《ナイトメアの軍勢》は一瞬たじろいだような仕草をするが、すぐにおぞましい咆哮を上げ、彼方に向かって行った。
彼は走り出し、剣を振るった。脆弱な怪物では、彼の歩みを止めることさえ出来なかった。彼の道にはしたいだけが残った。異形の死体だけが。
「『アテナの盾』。なるほど、こういうことですか。こういうことになるんですか」
誰もが状況を把握しかねていた。その中で、黒星だけがそれを知っていた。
「何だと……どういうことだ! 貴様は、いったい何を知っている!」
「だから言ったでしょう、園崎くん。質問に答えてもらえると思わないことです」
少年は止まらず、緩やかな坂道を駆け抜けた。迫り来る異形の怪物をなぎ払い、盾で打ち倒し、戦いで傷ついた騎士たちに勇気を与えた。
彼の力に、彼の行動に再び奮い立った騎士たちは獅子奮迅の活躍を見せる。《ナイトメアの軍勢》の数が一気に減少した。
彼の進路を阻むように、六本腕の怪物が立ち塞がる。騎士数名を相手取って優位に立てるほどの相手、しかしそれでも彼方少年の、皇の歩みを止めることは出来なかった。彼は剣を掲げて突撃、するとアポロの剣が光を帯びる。
彼は走りながら剣を振り下ろした。十メートルほどの距離があったが、しかし刀身が伸びた。正確には、刀身の軌跡に光の刃が現れ、距離さえも無視して六本腕の怪物を袈裟切りに両断したのだ!
「あの力、シルバーウルフのフルブラストに……いや、それすらも超える!」
「なるほど、神の肉ですか。言い得て妙ですね、『王』よ。あれは確かに……」
何かに納得するように、黒星は一人で頷いた。
まるで、目の前にいる自分さえも見えていないようだった。
見せてやる、真一郎はそう思い、攻撃の速度を加速させた。
真一郎の攻撃を紙一重で捌く黒星の後方から、盾を掲げた彼方が突撃して来た。無防備な背中にアテナの盾が当たり、黒星の体がワイヤーに引かれたように吹っ飛んで行った。
「っつつつつ……さすがは聖遺物、思っていたよりもずっと痛いな、これ」
埃を払いながら黒星は立ち上がったが、彼方はその声を聞いていないようだった。盾を掲げ、その上に剣を重ねた。胸の上でクロスさせるような形だ。すると、彼の持った二つの武具が光り輝いた。先ほど六本腕への攻撃で見せたものよりも、遥かに強烈な光だ。
裂帛の気合を込めて叫びをあげ、少年は駆け出した。立ち上がった黒星は、真一郎の目には何の抵抗もせずそこに立っているように見えた。まだ余裕はあるはずだ、反撃をする程度の余裕が。どういうことだ、真一郎は最悪の瞬間に備えて身構えた。
だが、彼の予想に反して最悪の瞬間は訪れなかった。彼方はアポロの剣を振り上げる。それに合わせて、黒星は防御姿勢を取った。金属同士がぶつかり合う音がしたが、どちらが勝ったかは明白だった。光が暗黒を押し潰したのだ。黒星は吹き飛ばされて行った。重い水没音がしたかと思うと、辺りに展開していた《ナイトメアの軍勢》が消失した。
「あいつが、あの化け物どもを生み出していたのか……?」
真一郎は訝しんだような視線を湖底に向けるが、しかしその問いに答えてくれるものは一人としていなかった。いつまで経っても黒星は浮かび上がってこない。あれほどのエネルギーに晒され、生きているとは思えなかった。
だが、何となく死んでいないと思えた。
彼方少年の手から、アポロの剣とアテナの盾が消滅した。代わりに、彼の人差し指には二色の宝石があった。左右綺麗に分かれた宝石であり、二つの宝石を組み合わせたようなものでありながら、どこにも繋ぎ目や、混ざり合った部分は存在しなかった。
彼方はアリカに歩み寄り、その体を助け起こした。助けられたアリカはぎこちなく微笑み、謝意を述べた。続けて彼は傷ついた御者を助け起こし、医者を呼び寄せた。
「皆さん! 《ナイトメアの軍勢》の脅威は去りました! 『真天十字会』の脅威も!」
そして、少年は高らかに宣誓した。その声には大きな力があるように思えた。
「すべては、『光』の加護の下に! 我々の力は世界を覆う闇を払うでしょう!」
少年の言葉に呼応するように、騎士たちは叫びを上げた。真一郎も叫び出したいような気分になった。なぜか知らないが、彼の言葉にはそんな力があるように思えたのだ。
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深夜の川下。
星灯りに照らされ、一人の男が水の中から這い出して来た。
天十字黒星。
色濃い疲労を見て取ることは出来るが、外傷は驚くほど少ない。せいぜい頬が擦り切れ、少々の打撲痕が見て取れる程度だ。個人用防御兵装に搭載された装着者防御システムの賜物だ。一定以上のダメージが鎧に蓄積された場合、リアクティブアーマーのように爆散しその衝撃によってダメージを軽減することが出来るのだ。
「ふ、ふふふ。ムキになって打ち合っていたらどうなっていたか分かりませんね」
後期型システムは絶大な出力を誇り、それによって身体能力と防御性能を大幅に引き上げているが、一つだけ欠点がある。死に、引きずられてしまうのだ。
《ダークドライバー》は死した神の力を利用し自身を強化する。だが力を引き出すということは、死した神と霊的なラインを繋ぐということだ。その状態で大きなダメージを受ければ、死に近付けばどうなるか? 神の死に引きずられ、自分自身も死ぬ。リミッターが作動していなければ、自分とてどうなっていたか分からない。
「なるほどね、あれが……選別された英雄の力、ということですか」
黒星は低く笑いながら、歩き出した。川べりに近付き、這い上がり、立ち上がり。そして手近にあった樹木に寄り添い、その拳を打ちつけた。その表情を見たものは驚くだろう。特に、真一郎などは。彼の顔は憎悪に染まっていた。
「次に会うようなことがあれば……絶対に負けません。花村彼方、覚えましたよ……!」
黒星が誰かを憎悪することなど、そうはないことだ。彼にとってすべての人間は自分よりも格下の存在であり、意志を向けることがあるとすれば隷属するものとしてか、あるいはいずれ滅ぼされる愚か者として見下すだけだ。
彼には対等な人間というものが存在していない。圧倒的な力をもって生まれ持ったが故の、精神の歪みだ。
ゆえに……彼の心には、敗北の感情が深く刻み込まれている。かつてこの世界に来る前、世界を支配する寸前で高崎天星、エンブリオに敗北し、死の寸前まで追い詰められた。この世界であれば、ダークマターの力を使って世界を支配できると思った。『王』やほかの《エクスグラスパー》をも圧倒し、世界を手に取れると思っていた。
だが、今度はただの子供にその野望を阻まれた。彼の手に与えられた、分不相応な力。聖遺物の力を与えられた子供の力が、これほどだとは思ってもみなかったのだ!
「次は全力で当たってやる。私に歯向かったことを、後悔するがいい……!」
血が流れるほど強く手を握り締め、決意を新たにした黒星。そこに声がかけられる。
「いまはまだ、その時ではありませんよ。天十字さん」
だが、彼の決意は横合いから投げつけられた言葉によって遮られることになる。振り向くと、そこには学ラン姿の男がいた。
黒星はこの男のことを知っている、《エクスグラスパー》三石明良、彼と同じく『真天十字会』に所属する人間の一人だ。
「三石くん、キミですか。私を助けてくれたことには、感謝していますがね」
黒星は立ち上がり、髪をかき上げながら言った。三石はどこから見つけて来たのか、新たな聖遺物が花村彼方の手に渡ることを彼に伝えて来た。真正面からやり合えば、相応の被害を受けることになるとも。その時は一笑に付したが、心の準備が出来ていたおかげで彼方の攻撃から生き残ることが出来た。彼にとってみれば命の恩人ということになる。
「私に指図を出来るとは思わないことです。私の行き先は、私だけが決められるのです」
「もちろん。天十字さんを操れるなんて思っていないです。ただ、時期が悪いと」
「時期? 私の力は私が願った時に振るう。それだけですよ」
三石の存在など、黒星は歯牙にもかけない。そのまま歩き出そうとする。
「もうしばらくすれば、大きな戦いがあります。
そこにはきっと、あなたのライバルも出てくるでしょう。
その時を狙うのがいいのではないでしょうか?」
黒星の足がピタリと止まり、振り返った。話を聞く姿勢になったようだ。
「どういうことだ? なぜそんなことが分かる。お前は何を知っている?」
「あなたの言葉じゃありませんが、すべて教えてくれるわけじゃありませんよ」
三石は薄く笑い、彼と同じ言葉を返した。
「一つ言っておくことがあるとするなら、そうしたいと願う人がいるからですよ」
「ガイウスが、『真天十字会』がそれを狙っているということか?」
「そう理解していただいて結構。いずれにしろ、あなたは『ここで死んだもの』ということになっています。死人の歩みを阻むものは、この世界には存在しませんよ」
いまいち要領を得ない回答だったが、とりあえず黒星は納得することにした。しばらくすれば大戦が起こる。そうなれば、あの男も出てくる。その時こそ、本当の全力であの男を仕留めることが出来る。それだけ分かっていれば、彼には十分だった。
「ありがとう、三石くん。死神なんて呼ばれているから、もっと好戦的かと思ったよ」
「そんなことはありませんよ。僕はただ、人が好きなだけの……ただの化け物ですから」
三石は曖昧に笑い、意味深な言葉を放った。もちろん、黒星にとってみればそんなことはどうでもいい。彼の役目は終わったのだから。彼は歩き出した。どちらに行けばこの森から出られるのかはまだ分からないが、いずれにしろどうとでもなると思っていた。
「今回はやられ役になってしまったが……今度こそ、私の力を思い知らせてやろう」
黒星は悪辣に笑った。
「どいつもこいつも分かっていない。
世界は私に支配されてこそ価値があるということに。
この世界の在り方そのものを、分かっていない奴が多すぎる」
天十字黒星はコンプレックスと支配欲の塊のような男だ。
ゆえに、そこから外れるものを許さない。
望んだものを得るために、手段を選ぶことさえない。
「園崎くん。キミの存在は邪魔なんだよ……そろそろ、決着をつけてやろう」
世界を滅ぼす魔獣は一人、森の中を歩いた。その瞬間まで、あと僅か。




