弱者の守護者
どんな場所にでも、貧民窟はある。
地獄から逃れてきた先にあるのは、また地獄だ。
地獄から逃げて来た女、フィネ=ラフィアはそんなことを呆然と考えた。
ラフィア、というのは彼女が考えた名字だ。
この場所には名字を持たないものが多くおり、名前を持たないものさえ
多くいる。彼らの多くは奴隷制を公認する『帝国』から逃れて来た者だ。
もともと私有財産を持たず、満足な教育を受けて来なかった彼らは、
『帝国』の奴隷から逃れてもそれほど劇的に生活が改善することはない。
むしろ、雨風を凌ぐ場所がある分奴隷時代の方がマシだったという
老人たちは多い。
それでも、とフィネは思う。
自分の意思で逃れて来たのだから、彼らはまだマシな方だ。
彼女のような人間は、自分の生き方を自由に決定する権利さえ
存在しない。道端で貧民同士寄り添い、弱々しい火に当たり暖を
取るたび、どうしようもなく惨めな気分になる。
こんな生活をいつまでも続けるくらいなら、死んだ方がマシだと思うほどに。
だから、オークが攻めてきた時。人々が寄り添い、自分たちで作った
粗末な門を必死で守っている時、彼女はそれに参加しなかった。
木製の門に火の手が上がり、貧民窟の顔役であった男が火に巻かれながらも
逃げろと叫んだ時、彼女は逃げなかった。
門を乗り越えオークたちが街に侵入し、目の前で剣を振り上げてもなお、
彼女は逃げなかった。
(きっとこれからいいことなんて一つもない。ならここで終わっても同じじゃない)
ぼんやりと、まるで夢を見るようにしてオークの剣を見た。
地方の人間がまことしやかに語るように、オークは人間を凌辱しない。
ただ、貪り、食らう。彼らにとって、人間は単なる食料に過ぎない。
あるいは冬を越すための保存食になるだけのことだ。
それならば簡単じゃないか。
ゆっくりと振り下ろされる剣を見てフィネは思った。
突然、彼女の視界に変化が生じた。目の前で剣を振り上げていた
オークの首がなくなったのだ。幻か、とも思ったが、首を失った
オークが倒れるのを見て現実だと理解した。
「立てるなら、立って逃げろ。俺は一人一人助けてやれるほど暇じゃないんだ」
ハスキーな男の声を、フィネは聞いた。グラリと倒れたオークの向こう側に、
人らしきものがいた。銀色の全身鎧を纏った戦士。都の兵士かと思ったが、
彼らがこんなところまで来るはずがない、とフィネはその考えを振り捨てた。
ならばいったい、何者?
銀色の戦士が舌打ちするのを、フィネは聞いた。舌打ちしながら戦士は
オークたちの軍団へと向かって行った。フィネはよろよろと立ち上がり、
その光景を見た。自分の何倍もの数がいる、屈強なオークの集団。
そんなものを相手にして、無事で済むわけがない。それが常識だ。
強いものに、弱いものは傅く。どんな場所でも変わらない真理。
そのはずだった。だが、銀色の戦士は剣でオークの頭を切り飛ばし、
拳でオークの巨体を殴り飛ばし、蹴りでそれを叩き伏せ、光を放つ
不可思議な武器で貫いた。フィネはぼんやりと、その光景を見続けていた。
彼女の世界が、音を立てて崩れていくのを感じた。
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迫り来るオークを切り捨て、打ち据え、撃ち殺し。
いい加減飽き飽きするくらい何度も打ち倒した。
だが、眼前のオークが減る気配は残念ながらなかった。
「囲め、囲めぇ! みんなでやりゃあ、こんな奴なんか!」
「やれやれ、みんなでやってこの結果だということをいい加減受け止めてもらいたいな」
シルバーウルフを順手に持ち替え、トリガーを引いた。
弾は発射されないが、エネルギーが刀身に収束し、光の刃を形作った。
刃渡り二メートルほどの刃を寝かせ、振り払った。
剣を掲げて突撃して来たオークが五体ほどまとめて切断された。
切断面から文字通り爆発的な熱量が発生し、膨張。
オークの体は爆発四散した。
この段になってくると、ようやくオークは後ずさりを始めた。
不利を悟ったのだろう。こちらはまだ余裕はあるが、退いてくれるに
越したことはない。幸いなことに、人語を介すオークを殺しても
罪悪感は少しも湧いてこないが、この徒労を繰り返すにはいい加減
飽きていた。そんな時、オークの背後から一際巨大な足音がした。
通常のオークはだいたい一メートル半程度の、人間と比べて若干小さな
体格だが、その個体はゆうに二メートルを超える巨体をしていた。
磨き抜かれた高価そうな武具を身に着け、更に首には何かを繋げて
作ったネックレスをつけている。よく見て見ると、それは人間の指の骨に
穴をあけ糸で通しているのだと分かった。戦士の証なのかもしれない。
「こいつの相手はァ、俺がするゥ。お前らは周りを片付けて来いィ」
左目を潰したオークは、威圧感に溢れる声で言った。
周りのオークは震えながらその場から離れようとした。
それを真一郎は冷静に狙撃した。動くものは一瞬で二つになった。
「貴様ァ、やってくれたようだなァ。いったい何者だァ」
問答には応じず、真一郎はトリガーを引いた。大柄なオークは半身に
なり銃撃を回避した。この世界に来てから、避けられたのは初めてだ。
真一郎は気を引き締めた。
「俺はオーク族一の戦士! 負けて帰ったんじゃあ、俺の名に傷がつくゥッ!」
「なるほど、ただでは帰れんと言うわけか。ならば、骨くらいは送り返してやろう」
オーク最強戦士は全身に力を漲らせた。バンプアップされた筋肉により、
彼の体躯は倍ほどの大きさに膨れ上がったように見えた。
そして、力任せにショルダータックルを繰り出してくる。
真一郎はそれを、避けない!
オークヒーローの重厚な肉体が、シルバスタと激突する。
受け止めたシルバスタの体が、後方に流れていく。
轍めいた足跡が、大地に深々と刻まれた。
だが、それだけだ。それ以上、シルバスタに何かが起こることはなかった。
真一郎は狼狽するオークヒーローの両肘を持ち、力任せに持ち上げた。
体格差は歴然、持ち上がるとはオーク自身思っていなかった。
だが、その体は簡単に宙に浮いた。真一郎は肘を掴んだまま、
後ろに放り投げた。オークヒーローは受け身を取ろうとしたが、
出来なかった。両肘を完全にロックされていたのだから。
頭からオークヒーローは地面に激突する。自信の全体重が、
脆弱な頭蓋骨と頸椎にかかる。常人であったならば即死しても
おかしくはない。だが、鍛え上げられ、天賦の才にも恵まれた
オークヒーローの強靭な生命力が、彼に死を許してくれなかった。
重力に従い足が落ち、オークヒーローは仰向けに転がった。
だから彼は、自分の命を奪う鋼鉄の足裏を、その命が失われるまで
見る羽目になった。命が奪われる音を、聞く羽目になった。
オークヒーローの首をへし折った真一郎は、そのままの姿で周りを見た。
真一郎の視線を向けられたオークは、ビクリと震えあがった。
周りの仲間と目を見合わせ、やがて一目散に逃げて行った。
そのうち何人かは、貧民窟の自警団に捕まり殺された。
真一郎は《スタードライバー》に挿入された鍵を捻った。
装甲への生命エネルギーの供給が途切れ、装甲は瞬時に劣化し、
真っ黒になり砕け、風化していった。
あとに残ったのは、漆黒のコートを纏った一人の男だけだった。
彼はベルトを元の位置に戻した。
そして、周囲を見渡した。畏怖の目で見られているのは彼も同じだった。




