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~甘草の場合~

一話目、書き直しをしました!


9割文章が変わってますので、よろしくお願いしますm(_ _)m

 俺自身、本当に能無しだなぁ、としみじみ思う今日この頃。

「あぁ!もう!」

 上擦った棘のある声をついつい口からぽろりと零してしまう。いらいらと腹の底に溜まる嫌悪感に引き続き、自分に対しての不甲斐なさも募り、俺はぐるぐると気分の悪さに吐き気がした。

 どうしようもない、俺にとっては避けられない事なのはずっと前から分かっていた。それが、仕事をする上で支障になるであろう事も。


 ──で?俺、なんでいらついてるんだろ?


 つい、と思い出して見ようとしても、綺麗さっぱり俺の頭からは先程まで頭に付いて離れなかった筈の記憶が消去されている。

 本当に、嫌になるよ。前々から上司、同期に注意された事を忘れるなんでしょっちゅう。

 皆俺が忘れる事を知っているので、あまり大袈裟には言わないが、社内では相当仕事が出来ない奴、と噂されているとの事をこの前同期の友人から聞いた。

 治せるものなら治したい。

 どうして注意されたものを忘れられるのか、自分自身に問い質したい。どうせ終わらない問答になるのだろうけれど。


 物覚えは元々は良い方であるのだが、この忘れやすさで全て台無し、意味のないものとなっている。お陰で毎日上司に怒られてばかり、あぁ、いらいらしてきた。

 説教されている中で、昼休みの時間が来たので、逃げる様にして会社から飛び出したのを思い出す。これはきっと帰ってからまた怒られるだろうなぁ、こんなのでよく首を刎ねられないものだ。

「そう言えば、どうしてだろう?」

 辞めろ、と言われた事が一度もない。……いや、それさえも忘れてしまって居残り続けているのだろうか?

 ふと思った疑問はすぐに消化され、不機嫌に渦巻く気分の中に埋もれていく。


 はぁ、と人気の少ない道を選んで歩きながら、長く息を吐き出す。

 どうとも出来ない消化不良の感情をどの様に扱ったら良いのか分からず、何処かで座って休もう、と最終手段の方法に出る事にする。「えっと……。」

 此処ら辺に公園があった筈だから、様々な商売店が立ち並ぶ一角から外れた場所、民家が疎らに存在し、何処か閑散としている。所々に寂しく土地の空いた場所は俺の気持ちを察しているかの様で、少し安心した。

 きょろきょろと辺りを何度も見渡したところで、公園の遊具が目の端に移った。


「あった。」

 うちの会社は朝八時から昼に一時間休みを入れて八時間の労働きっかりで、夕方五時が帰宅時間となる。残業手当もきちんと出してくれるので、残業する人も結構いたりするが、結構善良な方であろう。俺は営業の方を主に仕事としては任されている。常に怒られる理由はその後の報告書に関してであり、接客に関してはあまり言われた事はない……と思いたい。

 忘れる事が多い為絶対に無かった、とは言い難いのだからなんとも言えない。

 とぼとぼと歩き、平日であるからか人の居ない静かな公園のベンチに座り、腕時計に視線をやれば、一時半。会社を出た時は一時二十分だったので、まだ十分しか経っていない。

 この時間で昼を食べるとなると、夕食の事を考えて少なめに食べた方が良いな。間食を食べる感じで、時間も潰せる様な喫茶店辺りに行くかなぁ……。


「そういや、この近くには喫茶店とか無かったな。」

 食べに行くなら、少し歩かなければならない。

 ベンチの背に凭れ掛かり、ぐっと背を伸ばせばベンチからずり落ちそうになり、俺は慌てて座り直す。

 ……此処は静かだなぁ。

 鳥がちゅんちゅんと鳴く声に耳を傾けながら、俺は空を見上げた。雨は降らないとは言っていたが、今日は少し雲が多い。日が思いっきり入ることはなく、少し物足りない気分ではあるが、薄く張った雲の隙間隙間に見える青い部分に目をやり、口元が笑んだ。

 その気持ちのまま目を瞑れば、さわさわと木の葉の擦れる音。俺は感じないが、葉が揺れる程にはゆったりと風が吹いているらしい。鳥の声と葉の音が綺麗なリズムを刻み、先程まで荒れていた気分を収め、あまつさえ眠気まで運んでくるのだから、自然とは不思議なものだ。


「っと、早くしないと食べないままに戻る事になるな。」

 立ち上がり、ふと視線を彷徨わせたところで、俺はあれ?と首を傾げた。

 この公園は回数的にはあまり来た事はないものの、此処に来るとどうしても長居してしまう為に、この辺りの土地勘はある程度ある……筈なのだが、今、俺の目には見慣れない看板がそこにあった。

 オレンジ色が昼過ぎであっても、雲で陽が覆われて暗い空間の中で妙に目立ち、俺の視界の中で映える。何の店かも分からないのに、どうしてか俺はその店に足を運んでいた。

「……こんな所にあったら、前も気付いた筈なのに。」

 こんなに目立つ看板だ、どうして今まで気付かなかったのか不思議だ。何故か、最近開店した店なのかもしれない、と言う考えは浮かばなかった。その店の存在は、この空間の中で浮き立ってはいたが、違和感がそこにあるわけではない。前からそこにあった、その感覚が一番俺の中で強かったから、そう言った方が分かりやすいかも知れない。


 ざわり、不気味な感触が俺の内面に蠢き、それに合わせて俺は足を止めた。

 扉の前には何もない。何を出しているのかさえも分からない。メニューが張り出されておらず、店から漂うお腹の空く様な香りが漂ってくる。

 どうやら予想通り、喫茶店と言うか……食べ物屋さんと言う認識でオーケーらしい。

 入ってみるか?あー、でもなぁ、ちょっと怪し過ぎじゃないだろうか?ぐるぐると思考を頭の中で回しながら、俺はもう一度看板を見上げて見た。

「何て読むんだ?」

 先程は遠くて見えなかったわけだが、ここまで来ると良く看板に書かれている店の名前が良く見える……のだけれど、どうしてもその文字が英語ではない事は分かる。読み方も意味も分からなくて、俺は首を傾げた。

 黒い文字で “Lösung” とそれだけ。その前か後ろにか喫茶とか、カフェとか付けたら分かりやすいのに、と思ったのは此処だけの話だ。


「この店、逆に悪い意味で目立ちそうだよな。」

 こんな所で簡素にやっていて、収入などあるのだろうか?

 まぁ、立ち行けていなかったら、此処は店自体がオーナーの持っているもので、自己満足でやっているとしか言い様のない事である。流石にそんな事はないだろう、と頭の中で否定しながら、俺はそっと手をその店の扉に近付け、形を確かめるようにゆっくりとその手でドアノブを握りしめた。

 引いて開ければ、扉の内側に取り付けられていたのだろう、ちりんちりん、と涼やかな音が店内に響いた。ゆっくりと中に入っていけば、客が入っていない様で、空気はしんと静まり返っている。


 本当に、此処はやっているのだろうか?

 店内を見渡す。クラシックな雰囲気に合わせて、少し暗く、温かめな光に満たされている。

 丸い机数個に合わせて向かい合わせる様にイスが置かれ、左側方向には、一人席用にカウンター席がある。カウンター席に向かい会う形になる壁には、珈琲豆やサイフォン、陶器のカップなどの沢山の物が棚に並んでいる。その奥手には厨房へ繋がっているのか、扉が開け放たれ、外と同じお腹の空く香りが匂ってくる。

 少し広い感じを抱かせる店内なのに、何故か入れる人数を制限しているのか、客の座れる椅子の数は少ない気がする。


 なんでまた、この辺りにくる人なんてあまりいなさそうなのに、と少し首を傾げた。……あぁ、だからか。いないから、少なく設定しているのか。

「いらっしゃいませ。……そんな所にずっと立っている訳にもいかないでしょう?何処でも、お好きな所にお座り下さい。」

 自問自答し、一人頷いたところで、カウンターの方向から声が掛けられ、俺はびくりと身体を震わせた。その方を見ると、初老の男性が緩やかに笑みを浮かべている。俺は彼の前にあるカウンター席の一つに座り、彼を見上げる様にして顔を見た。

 何処にでもある様な、喫茶店のマスターの様な服装で、髪には白髪が混じっている。未だ髪の色は黒く、目元や口元に皺がある事で、穏やかな優しい雰囲気があった。


「こんな昼の過ぎた時間にまた、珍しいですね。」

「まぁ、仕事の休み時間中ですから、こんな時間になるのも仕方ないです。」

「そうですか。」

 では、軽い昼食ですかね、とメニュー表を取り出しながら、開きこちらから選んで下さい、と人差し指で示してくれる。軽食にしては結構凝ったものが多いなぁ、と視線をやりながら、俺はどれが良いかと思案する。

 サンドイッチに量少なめのビーフシチューなど、何を選んでも美味しく食べられる気がする。


「珈琲は飲みますか?」

「あぁ、はい。お願いします。」

 メニュー表をそのまま眺めていれば、彼から声が掛かった。返事を返せば、見えていた影が途端に消える。ちょっと驚いて顔を上げれば、彼は俺に背を向けてサイフォンを付けていた。今から珈琲を作るらしい。

「今から作れば、丁度昼食を出す時と一緒に出来ますからね。」

 俺がまじまじと見ているのに気付いた彼は、ふふ、と笑いながらそう言った。

 きっとよくこうやって来る人来る人が、俺の様な反応をしているのだろう。彼は手慣れた風に俺の疑問に答えながら、手を動かしていく。棚から取り出した陶器の白いカップが同じく白いソーサーとぶつかり、かちゃりと音を立てる。俺の方を向いた。

「……決まりましたか?」

「あぁ……じゃあ、フレンチトーストを。」

 承りました、そう言い、彼は俺の前に氷の浮いた水を俺の前にコースターと共に置いて、奥に入っていった。

「不思議な人だ。」

 つい、そんな言葉が溢れでていた。手を伸ばして水を一口含み、元の場所に置く、氷とグラスが擦れ合い心地よい音を鳴らす。つん、と冷たい水が俺の緊張を程よく解してくれた。


 ふぃ、と座った状態から俺以外客がいない事を良い事に、周囲の状態を先程よりも詳しく見ていく。カウンターの反対側にある壁の入り口側には、空を描いた絵画が小さな額縁に入り可愛らしく飾られている。その隣には光を多く入れる為に設計されたのか、普通よりも少し大きめの窓。きっと綺麗に晴れていれば、そこからは暖かい光が入り、もっとこの部屋の雰囲気が出るであろう。

 外側から見ると二階分の高さがあったが、この店自体は一階分の広さしか取っていないらしい。きっと厨房の方に階段があるのだろう、と予想を付ける。じゃあ、あの人は此処で暮らしているのだろうか?

 ……そう言えば、他のスタッフさんを見ないな。雇っていないのだろうか?

 見ているだけなのに、どうしてか疑問が沢山浮かんでくる。


 あまり無粋に聞いて回るのも悪いだろう、そう思い、その考えを頭を軽く左右に振り、端に追いやる。

「……ん?」

 今気付いたのだが、机の上にはドーナツを何個か重ねた様な外見をしたグラスに花が生けられている。淡い、ピンクの花。他の机にも視線を回せば青や白の花弁が目に入る。よく見てみれば、全て花の種類が違う様だ。全て同じものにした方が面倒じゃないのに、そう思ったが、そこが彼のこだわりなのかも知れない。

 じゃあ、このカウンターにもあるのかな?その考えに至り、体勢を元に戻しカウンターの上に視線を戻せば、花の入ったグラスがあった。鮮やかなオレンジ。菊の部分から切り取られ本体から離れた今でも儚げに咲いているそれに、俺は目を奪われ、そっと指でその花弁を撫でてやる。

 それに合わせて、水面が揺れた。それを許してやる、そう言いたいかの様に寛大な様子で。

 からん、氷が鳴った。


「どうぞ、フレンチトーストです。」

 ぼぅ、とその花を見つめている内に、彼が出来上がったそれを先程の水と同じ様にそっと俺の目の前に置いた。

 ふわり、蜂蜜であろうか?爽やかな甘さを含んだ香りが俺の鼻を掠め、美味しそうだ、と呟いた。俺の場合、普段フレンチトーストは食パンで作っているので、この様にフランスパンで作った物を食べるのは初めてだった。薄い黄色の生地に、狐色の……いや、それよりも少し濃いぐらいの綺麗な焦げ目が出来ており、その上から黄金色の蜜が掛けられている。先程の蜂蜜の香りはきっとこれだろう。

 その右隣に珈琲がソーサーと共に置かれた。甘い匂いに合わせて、珈琲独特の苦味のある匂いが合わさって、俺は受け取ったナイフとフォークを使って慌てない様にゆっくり切り取り口に含む。


 卵の風味とシナモンの独特の香りが鼻を抜ける。舌の上で転がるのは溶けたパンの生地に吸わせた優しい甘さ。甘ったるい……訳ではなく、甘さは相当抑えられている。誰にでも食べやすいフレンチトーストになっていると思う。

 何口か口の中に放り込み咀嚼し、嚥下した後に口の中に残るある風味に、あるものの味を感じ、はてと首を傾げた。

「蜜柑の蜂蜜ですか?」

「よく分かりましたね。」

 口の中にどうしても残ってしまう甘さが、蜜柑の蜂蜜の柑橘系のすっきりした後味で消えている。これはいくらなんでも分かるだろう、と苦笑して見せれば、彼はくすくすと笑った。


 本当に不思議な人だ、と改めて思った。まるで、人の気持ちを見透かしている様で。

 フレンチトーストを食べ切った所で、俺はふと視線を花にやった。

「そう言えば……えっと。」

「あぁ、私は薬事と言います。」

「薬事さん、この花って何と言う名前なんですか?」

 そう尋ねると、彼は少し目を細めた。思案している様に見えて、俺はどうしたのだろうか、と彼の目をじっと見つめた。……何を考えているのですか?そう聞きたい気持ちを抑えながら、俺は珈琲に口を付けた。

 甘さの次に襲ってくるのは、珈琲の苦味。……いや、通常よりも酸味が強く、独特ではあるが苦味が強いよりかはずっと飲みやすい。


「……甘草(かんぞう)、という名前です。」

「あ、聞いた事ある気がします。えっと……漢方薬とかに使われたりするやつですよね?」

「えぇ、そうです。」

 よかった当たってる、とその花の存在を知っていた事に笑みを浮かべると、俺はまだ飲みかけの珈琲を戻し、腕時計を見た。一時四十八分。店を出るのは二時十分ぐらいで、十分だろう。会社からここに来るまで十分。軽く走って帰るつもりだから、大丈夫だろう。

 どうしてもマイペースに考えてしまうのが、俺の悪い癖だよなぁ、なんて思ってみても、本音は出来るだけ長く此処にいたいからである。


「お客様、甘草の花言葉は知っていますか?」

「え?……あ、いえ、聞いた事あるだけなので、詳しくは知らないです。」

「なるほど。花言葉は、人に花を贈る時、知っていて損はないんですよ。花言葉を知らずに贈って、後で後悔したなんて笑えないですからね。」

「あぁ、なんかバラエティー番組でも、そう言ったものをやっていたりしますよね。」

 紫陽花とかあんなに綺麗なのに、結構な花言葉だった気がする。

 その人が好きな花だったから、そう言った理由で送る事は許されるかもしれないが、知らず知らずの内に贈っていたら、薬事さんの言う通り、本当に笑えない。まぁ、花言葉を真面目に調べて贈る人なんて少ないと思うけれど。

 くすくすと笑いながら、薬事さんとの会話に従事する。


「あ、そう言えば、甘草の花言葉って?」

「そうでした。甘草の花言葉は、物忘れ(、、、)なんですよ。」

「ぇ?」

 掠れた声が出た。ジェットコースターに乗った時みたいに、腹が気持ち悪く浮いた感じがする。気持ち悪い。吐き気がする。……何故か、責められている気がして、俺は何度も深呼吸を繰り返す。どうしてか、口の中が酸っぱく感じた。

 薬事さんは相も変わらず、にこにこと表情を変えない。それがまた気味の悪さを一段と感じさせ、無理矢理気分を変える為に、俺は珈琲を喉に流し込んだ。

 一体何なんだよ!くそっ!

 気分の悪さと共に上がってくるのはどうしようもない、苛立ち。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫なように、見えます?」

「見えませんね。」

 掴み所のない彼の言葉に、俺はむ、と眉間にしわを寄せて唸れば、彼はくすりと笑い厨房に入って行ってしまう。

 なぁ、お前、一体何でこんな所に生けられてるんだよ。

 ついぼそりと呟いて甘草の生けられているグラスを爪で叩いて音を鳴らす。

 まるで、俺が此処に来るのを詠んでいたかのようじゃないか。その考えにまで至ったところで、俺はぞくりと背中に何かが走った様な気がして、身体を震わせた。

 此処にもう少し居よう、なんて思った俺が馬鹿だった。さっさと会社に戻ってしまおう、そう思って彼が厨房から戻ってくるのをポケットから財布を出しながら、待つ。

 音楽も流れていない店内は、薬事さんがいなくなるだけで音が何も聞こえなくなる。先程まで感じていた温もりは、唯の勘違い、そう言われたら信じてしまいそうなほどに、遠去かってしまったかのようだ。


「おや、もうお帰りですか?」

「え、えぇ。」

「……まだ、時間がおありなのであれば、これを。」

 彼がお盆にカップを載せ、何かを持ってきたのを見た瞬間に、俺は立ち上がった。もう帰ります、という意思を出せば、彼は少し目を見開いてからふわりと笑みを浮かべ、俺の目の前に持ってきたカップとその横にスプーンをことり、と置いた。

 一体何事か、と思ったが湯気が俺の顔の方まで浮かんで来たところで、俺は彼の顔をまじまじと見返す。

「スープ?」

「はい。……当店は此処に来るお客様に、スープを無料で頂いてもらっているのですよ。」

「どうしてまた、スープなんて。」

「落ち着くでしょう?」

 優しいコンソメの香り、それがこの湯気の正体なのだろう。どこか懐かしい様な、嗅ぎ慣れた香りに、俺はこくりと首を縦に動かして椅子に座り直した。


 先程までの気持ちが溶かされた様に消えて行くのが、俺にでも分かる。

「野菜をたっぷりと入れてあるので、ゆっくりと食べて下さい。……野菜にはストレス解消にいい成分が含まれている様ですしね。」

「そう、なんですか。」

 スプーンを緩く握り、俺は野菜と共に掬って口に入れる。熱い……少し、舌を火傷してしまったけれど、ほろほろと溶けてなくなってしまう野菜に俺は驚いた。どれだけ煮込んだらこれほど柔らかくなるのだろうか?

 短冊切りにされている人参やキャベツ、千切りにされているのは多分玉ねぎだろう。どれも野菜の甘みがきちんとスープに溶け込んでいて、胡椒のアクセントが良く効いている。

 ほぅ、とつい息をはけば、ちょいと尖っている敏感な精神が丸まって行く感じがする。自分自身でも知らない内に自分を締めていた枷が、緩まった、そんな感じ。


「俺、会社で失敗ばっかりするんですよ。」

「……そうなんですか?」

 そんな風には見えないです、と薬事さんはそう言ってくれるが、俺は否定する様に首を左右にゆっくりと、何度も振る。違う。俺はそんな出来た人間じゃない、そう伝わるように。

「本当に失敗ばかりで。」

 ほぼ毎日……いや、一日に一回は言われてるかもしれません、と苦笑しながら告げれば、彼は不思議そうに首を傾げた。俺の言った言葉が少し引っかかったらしい。

「かも?」

「覚えてないんです。甘草の花言葉、それと同じですよ。」

「……。」

「怒られたその内容、全部忘れちゃってるんです。本当に、馬鹿ですよね。」

 彼は初めて困った様な表情になり、俺の言葉を静かに聞いてくれる。暖まった身体に対して、どんどん冷えて冷静になっていく思考。その矛盾性に、少し可笑しいなと笑ってしまう。


「大丈夫ですよ。」

「ぇ?」

「お客様は、きっと自分自身を無意識の内に、自分で陥れていってしまっているだけだと思います。」

 彼はフレンチトーストを載せていた皿や珈琲カップをサイフォンの横に移動させながら、それにそう言ってきた。それがどうしてか確信に満ちていて、素っ頓狂な声が出た。

 俺の事、彼は何も知らない筈なのに、どうしてだろう、それが本当の事に思えてくるんだから不思議なものだ。俺は野菜を食べ終え、スプーンをナプキンの上に置いた。

「どうして、そう思うのですか?」

「甘草。」

「甘草がどうしたんですか?」

「甘草の花言葉には、もう一つあるのですよ。」

 それがどうかしたのか?

 その言葉が出かけたのを、俺は咄嗟に口の中で嚙み砕き、スープと一緒に呑み下す。


「お客様は、会社を辞めようと思った事はありますか?」

「きついですけど、それ程思った事はないですね。」

 営業は結構俺の好きな仕事ですし、と返せば彼はつまりはそう言う事なのですよ、と笑った。

 どう言う事か、よく分からない。

「好きでやっている、これは会社員としては一番大切な事なのです。」

「はぃ?」

「唯、職にありつけた、給料を貰う為に、ではなく好きだからこそ、その職を続けられる。そんな社員は結構少ないんですよ。」

 まぁ、そうだな。そう言うのって会社内でもよく聞くし。自分が好きでやれる職につけた時、それは自分にとっては運命なのだ、とそう誰かが言っていた気がする。

 俺は頷いた。


「そして、それは会社員の士気にも関わってくる訳です。……一人、やる気のある社員がいるだけで、相当その周りにいる人が感化されたりするんですよ。悪い意味ではなく、良い意味で、です。」

「それぐらいは分かります。」

 でも……あぁ、そうか。だからこそ、俺は辞めろと言われた事がなかったのかも知れない。

 俺は彼の顔を見れば、彼は楽しそうに笑って頷いた。それを見て俺も笑う。

 腕時計を見れば、二時五分。やっとやる気が出てきたのだ、そろそろ会社に戻ろう。いやに思いながら会社に戻る事になるのだろう、と暗い気持ちだったのが、今では嘘の様だ。


「薬事さん。」

「要らないですよ。」

「え?」

「こんなにも話していて楽しいのは久し振りです。楽しませてもらったお礼、と取って下さい。」

「でも……。」

 お代は?と聞こうと口を開けたところで、彼は優しく笑って俺よりも先にそう言った。最初からそれを言うつもりであったのかも知れない。

 彼の真意は読めないが、それでも不思議と此処にもう一度来たい、と思える店だと思う。

 少し質素で、もう少し装飾しても華美にはならないであろう店内は、どうしてか懐かしく感じてしまうのは、薬事さんが親しみやすかったからか、はたまたそう感じさせる様に設計されているのか。


「なら──下さい。」

「今、なんと?」

「いえ、なんでもありません。……さぁ、もう時間が迫っているのでしょう?」

「じゃあ、また来ます。」

 今回払えなかった分、今度来た時に沢山頼んで食べますよ、そう言えば彼は瞠目した後、ふふ、と笑った。

「楽しみにしています。」

「えぇ、楽しみにしていて下さいね。」

 扉を開けたところで、後ろからご来店ありがとうございました、と声が聞こえたと共に、ドアベルの音が耳を打つ。


 外に出た瞬間思った事は、不思議な店だった、その一言に限る。

 気味の悪い部分も結構あったけど、それとは逆に良い部分も沢山あった。自然と笑みが浮かんでくる。

 今度はいつ来ようかな、そう思いながら、場所を把握しようと店の方に振り向いたところで、俺は小さく、ぇ?と呟いた。

 可笑しい、そんなのあり得ない。

「おかしいだろ⁉︎」

 つい、そう叫んでしまった。

 何があったのだろうか?店の姿が見えなくなる(、、、、、、)なんてこと、あっていいのだろうか?慌ててあの目立つオレンジの看板を探す。入る前と変わらない暗さの中、俺は彼方此方に視線を動かし、焦りで手のひらが冷や汗に濡れる。


 ある程度くまなく探したところで腕時計の長針が既に十分を指している事に気付き、俺はやべ、と顔を引き攣らせた。仕方ない、一旦会社に戻ろう。幾ら何でも遅刻は阻止しなければ。

 後ろ髪を引かれる思いではあったが、俺は店のあった方に背を向けて歩く。

 一体何なのだろう?

 さっきまであった事は夢であったとでも言いたいのだろうか?……いや、あそこから普通に出て来たんだ、俺は。夢を見ていた、そう言うのなら、俺は立ったまま寝ていたとでも言いたいのか?

 実際お腹も膨れているし、服自体にもコンソメスープの香りが仄かに付いている。

 意味が分からない。こんな現象、起きていい訳がないだろう。俺は頬を右手で抓ってみる。

「いっつ!」

 大人しく、忘れろと言外に、そう言われているかの様な気がして、俺は大通りに戻り喧騒に巻き込まれている中で、こっそりと舌打ちをした。


「……落ち着け。」

 会社の前に来たところで、俺は混乱している頭に言い聞かせる様にして数回深呼吸を繰り返す。俺は今、この会社に必要とされているのだ。

 奢りではなくそう思え。自分に自信を持て。そう言い聞かせて、俺は自分の持ち場に入った。


「明次君、午前中の報告書今から書き直して出してくれ!」

 俺の姿を見つけて早々にそう声を掛けてくる上司の言葉に、俺は慌てて返事をして自身の机と向かい合う。えっと朝の内に打ち出していた報告書はっと……。

 キーボードを半ばヤケに叩きながら、俺はふとズボンのポケットに手を入れた。財布を入れっぱなしにしていたのだ。座っていると、どうも気持ち悪くて邪魔になるので、ポケットに入れる時は昼の食事の時のみ。

 今回も同じで、鞄に入れ直そうと思い、ポケットに手を突っ込んだ。

「ん?」

 財布とはまた違った、くしゃり、と何かを握り潰したような音が俺の耳に届いた。周りで何かを丸めたのかと思ったが、そうではないらしい。ふと思えば、手に触っている物の感触が、財布の感触とは全然違う。


 財布と共に取り出せば、目に入るのは白い三つ折りにされた便箋。握り締めたせいか酷く折り目がついてしまっている。

 何故こんなものが?あの店から出た時はそんな物ポケットに入ってはいなかった。……なら、いつ?

 答えは分からないが、きっとこれは薬事さんからなのだろう、と予想が出来た。俺は息を吐き出しながら、朝方注意された部分(、、、、、、、)に気を付けながら修正を加え、確認し直してから、上司に口からの報告交えて提出する。

 こう言った定型の報告の形は本当に面倒だと思うのだ。

 別に報告書に内容全部纏めて書いてあるわけだし、個人からの感想やら何やら全て口で伝えるなんて時間の無駄でしかない。どうにかならないものか。……いや、個人の意見も場合によっては必要な場合もあるのか?


 ぶつくさと内心で愚痴を呟きながらも、表面では出来るだけにこやかに説明をしていく。

 早く終わらせてあの便箋の中身を確認したいのは山々だが、それもこれも全てやる事やってからの話だ。

「……そうか。分かった。」

「では、私はこれで。」

「あぁ、待ってくれ。」

 なんでしょう、とちょいちよいと俺を引き止める上司に、俺は首を傾げて返答する。

 俺の手渡した報告書を机の上に置き、引き出しから紙の束を出して俺の差し出してくる上司に、俺は素直に受け取って中身をぱらぱらと捲る。

「次の案件だ。明日の朝に営業の方で回ってもらわねばならんからな、今日の内に読んでおいてくれ。」

「分かりました。」


 あまり遠くもない自身の席までゆっくりと戻りながら、手の中にある紙の束をまじまじと見る。

 あれ?これ結構重要な案件じゃないか?

 軽い口で言われたので、さらっと受け取ってしまったが、今更気付いた事実に俺は上司の方に視線をやった。にやりと笑いながらに、頷く上司。頬が引き攣る。

 してやられた!

「まぁ、頑張れよ。手伝いぐらいはしてやるから。」

「……言ったな?」

「……あ、やっぱいい。」

「そうかそうか手伝ってくれるか、ありがとう。」

 席に戻ったところで、同期でよく一緒に飲みに行く友人が声を掛けてくれるので、鬱憤晴らしに彼にそう言えば、額に手をやって深々とため息をついた。

 お前には冗談が通じないんだった、そう呟く彼に俺は笑って肩を叩く。


「そんなに言いなさんな。俺の頼みの綱はいつもお前だよ。」

「そう言われたら、俺が断れないの知ってて言ってるだろ……。」

 しょぼくれた表情で、言い返してくる彼に俺は頼むよ、と拝む様に両手を合わせる。

「はいはい、分かりましたよ。」

 仕方がない、そう言った風を装いながら頷いた彼に、俺は頷き返して、パソコンと向き合って机の上に案件の用紙を広げていく中に、

 どさくさに紛れて広げた便箋をその中に混ぜた。

 きょろきょろと視線を動かして、誰も後ろに立っていない事を確認した後、便箋に書かれている文章に目を向ける。



 * * *



 当店にご来店下さり、ありがとうございました。


 お客様に伝え忘れた事、用事が出来た事がありましたので、言葉少なに手紙に書かせていただきます。


 今回、お客様の気にしていらっしゃいました甘草の花言葉には、物忘れ、それ以外にもう一つ、順応性(、、、)と言う意味も持ちます。きっと、お客様自身の性格に合っている事でしょう。

 忘れてしまうのであったのだとしても、お客様は覚えているのだと思いますよ。


 本来はこの様な手紙など、書くつもりはなかったのですが、本来忘れる筈であったこの店の事を、お客様は覚えていた様でしたので、驚きました。

 この店 “Lösung” は、ドイツ語で解決策(、、、)という意味を持っております。


 つまり、この店は悩みを抱えた人物のみが見ることが出来、加えて、悩みを解決した人物が店を出た時、その存在自体が見えなくなった事を隠蔽する為、記憶を忘れる、又は夢を見たと言う暗示が掛けられるのです。

 しかし、お客様の様に暗示が効かない人物が時たまに出でくる為、毎度この様にして手紙をしたため、お配りしている次第です。


 不思議な出来事の説明は以上です。

 この話に関してはどうぞ御内密にお願いしますね。そもそも、この様な話、体験しない限りは信じる人なんてそうそういないと思いますが……。


 言葉少なに、とは申しましたが、長々と書いてしまいましたね。


 今回は本当にありがとうございました。



  “Lösung” 店長 薬事直正



 * * *



 一枚目はこの様な感じの内容、二枚目にはこの関係を続けたいとの旨と、住所が記されていた。

 俺は、ふむ、と声を出して気付かれない内に、自身の鞄に便箋をさっさと片付けて、案件に視線を戻した。成る程、と内心で呟いてから頷く。

 つまりはそう言う事だったのか。俺が探している間に、相当焦っていたのだろう。文章の端々に目に見えて、文字が乱れていた。俺は一度深く息を吐いた。

 色々な事が一度に起こり過ぎて、どういった反応をすればいいのか分からなくなってきた。それでも、唯一つだけ言える事があった。

「薬事さん、ありがとうございました。」

「ん?絢斗、なんか言ったか?」

「いや、何でも。唯の独り言だよ。」

「そうか。」

 危ない、仕事してない事がばれるとこだった。ぞくり、と背中に寒気が走り、俺は冷や汗をかいた。本当にこういう事は何回やっても慣れない。……いや、慣れない方が身の為だよな。


 ……さて、頑張りますか。

 薬事さんに、また明日にでも手紙を出そう、そう決めて、俺は真面目に仕事に取り掛かる事にしたのだった。

誤字、脱字、感想などあれば、コメントよろしくお願いします。

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