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恋に恋して

11時を回ったところ。


子供の頃、夜は大人のものだった。俺はよく言えば聞き分けのよい、わるく言えば消極的な子供だったから夜になり母親が「早く寝なさい」と言えばおやすみを言ってベッドに入っていた。そんな俺に夜の世界を――とはいえ子供らしい可愛い夜の楽しみ方だったけれども――教えてくれたのが彼女だった。布団に潜り込み、色々なお話をしてくれた。彼女は俺のシェヘラザードで、身の毛もよだつ怪人の話、何もかもが白に包まれた世界の話をしてくれた。俺は彼女の言葉を飲み込もうと一生懸命耳をすませた。彼女の細く暖かい息が俺の頬をさすり、それはどうにも恥ずかしく、どうにも気持ちのよいものだった。


三日月が空に浮かんでいる。


大学時代、久しぶりに二人で歩いた夜道にて。彼女はステップを踏みながら語りだした、なにかのミュージカルのように、微笑みをたたえながら。


「いったい、人間ってのはどうして人を愛するのかね。月が綺麗だ。夜は過ぎ行く。楽しみは苦痛を伴う! それでもお前と一緒にいれば、その苦痛は愉快なものになるだろうね」


俺は語り得ず、煙草の煙を吐き出すばかりで。彼女は、火を点けたばかりの煙草を私から奪い取り、それをくわえ、くしゃりと笑いながら煙を浮かばせる。その笑顔が痛いくらいに胸を打ち、俺はどうしようもなく狂っていくのに気がついた。


もはや飲む気もしない酒に蠅が酔いどれる。

夜風がいやに目に染みるのだ。

夜の街はいつもと変わらぬ役回りを演じる。

それなのに君は舞台から降りた。


恋の味がこれほどまでに苦いとは誰も教えてくれなかった。彼女は蜜を与えてくれたが、それは愛だった。恋じゃない。彼女は何も苦労を負わなかった。ただ自由気儘に振る舞っていただけだ。

彼女からは色んなことを教わった。

恋の苦しみも、嫉妬の辛さも。彼女の横に立ちたくて。彼女に褒めてもらいたくて。俺はずっと彼女の後をついていった。彼女はそんな俺に笑いかけながら、俺の首に鎖をつけていたのだ。

俺が、少しでも彼女の横に立てるよう身なりに気を付けたら、彼女は不機嫌そうに俺に毒づいた。


「お前は何があろうと私のものだからな。他の女に取られたとしても、奪い返してやる」


けど、それは半分正解で半分間違えだった。私は彼女の奴隷だったけど、それ以上に彼女のモノだったから。彼女は彼女らしくない考え違いをしていた。


声は出ただろうか。俺は彼女を呼んだ。何度も繰り返し、何度も悶えて。けど、彼女は何も答えてくれやしない。そっと手を伸ばして彼女に触れる。陶器に爪が当たり、高い音が寂しく響いた。彼女は、その身体をこんなにも小さな壺に入れてしまった。他人の人生をこんなにも狂わせた挙げ句の果てがこれだ。馬鹿らしくて、本当に馬鹿らしくて涙が出てきた。


彼女は死んだ。本当に、あっさりと。人生というものには小説のような目を引かせる仕立てはないようだ。朝、挨拶をして、それぞれの職場でそれぞれの仕事を果たし、昼休み、飲み物を買いに行くと言って、近所のコンビニに足を運んだ際、車に轢かれた。一日に何十件も起こる交通事故のその一つ。彼女の死は地方紙にも載らなかった。彼女はよくある悲劇にしかならなかった。

彼女のいない世界で彼女のいない世界は回り続けていくだろう。永遠に。止まることなく。それでも俺は彼女を想い続ける。永遠に。飽きることなく。俺は彼女を想う気持ちを想っている。


死んだ人間を愛することは何も生み出さないかもしれない。

それでも俺は、恋に恋するのだ。それこそが彼女の教えてくれたことだから。


月は雲に隠れる。

星の無い澱んだ空が押しつぶれていく。

全てが消えてしまえばいいし、全てが止まってしまえばいいと感じた。


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