彼とその行動について
小説を書いたのは小学生の頃以来です。
おかしな表現や誤字脱字等があるかもしれませんが、気軽に読んでいただけると幸いです。
「現実だか非現実だか、分からなくなることがあるんだ」
ふいにぼそりと、夕暮れ間際の図書室で先輩は言った。
頬にはうっすらと押しつけられたような跡があり、今まで机に突っ伏して寝ていたのがありありと見て取れる。目は焦点の定まらない体でぼんやりと虚空を見つめ、口元はだらしなく弛緩している。涎の跡まである。
もっとも、図書委員長のこの先輩は私が図書室に訪ねる度にこの有様である。
「寝惚けてるんですよ、先輩は。」
私がそう言うと先輩は虚ろな目のまま、そうなのかなあうんそうかも、とぼんやりと言いいながらボサボサの頭を掻いた。
せっかくの精悍な顔付きが、この間の抜けた諸動作のせいで台無しである。
「もしくはゲームのやりすぎです。現実と非現実の違いが分からないってまさか、自分が現実世界の中でもモンスターを倒す騎士にになったとかそういう話ですか。」
そう言うと、今度は少しむくれた。
「僕はそこまでトチ狂ってないよ。第一、現実と非現実なんてそんなに変わらんだろ。小学生の頃の僕にとってみたら高校二年生の今の僕の存在なんて非現実だったわけなんだから。」
やはり寝惚けている。朦朧とした意識の中で喋ろうとするから何が言いたいのかよく分からない。
「寝惚けているのかもなあ。今みたいにこう、ふっと目が覚めたときに、今が夢の延長なのか現実なのかよく分からなくなるときがある。非現実というより仮想現実と言った方が正しいかなあ。夢と現実の境界が分からなくなって、今でも夢の中にいるような気持ちになる。」
「ああ、そういうことですか。それなら私にも経験があります。」
ちなみに先輩は今ちゃんと起きてますよ、と言って私は笑った。それにつられるようにして先輩の頬も緩む。
「特に昼間は危ない。夜は暗闇が広がっているから、ああ目が覚めたんだと理解できる。夢の中は常になんらかの映像があるから夢と呼ぶからね。でも昼間は違う。寝惚けて意識が混濁しているときに目の前に光景が広がっていると、夢と取り違えることがままある。布団の上で横になって寝ていたならまだ自分が今まで寝ていたことが理解できるが、教室で寝てたりとか、今みたいに図書室で寝てたりとか、そういう時は日常に戻ったっていう見極めが難しい。」
「言いたいことは分かりますけど、別にいいんじゃないですか。どんなに寝惚けてたって時間が経てば目が覚めるでしょう。」
そう言うと、先輩は少し困ったような照れたような、なんとも真意の読み取りにくい表情になった。
そして、現実か非現実か分からないと言った時とまったく同じように
ぽつりと、僕は怖いよと言った。
私は、この時はまだその言葉の意味が分からなかった。
先輩はよく本を読む。
だから、朦朧とした意識の中で現実と非現実が分からないというのは、夢と現実が分からないというだけでなく目覚めた時の情景が小説の中の出来事なのだと錯覚してしまうというのも含まれているらしい。
それじゃあゲームのやり過ぎで現実と非現実の区別がつかなくなったのとあまり違わないじゃないかと言うと、先輩はそれを頑なに否定した。
なんでも意識がクリアな時は、そういう状態に陥ることは無いらしい。あくまで寝起きでぼうっとしているとき、現状認識が模糊としているときだけだ。
学校からの帰り道、黄昏時の斜陽が、家々や木々や人々に落とす影は濃い。
私は図書室で先輩が話していたことを思い出していた。そして話していた内容と同時に、その時の様子や情景も思い起こしている自分に気付いた。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、そのカーテンが先輩の髪をふわりと撫でていた。目一杯太陽の光が差し込んでいたが、十月上旬の午後の日差しはそれほど熱くなく、逆に温かな陽気が心地よかった。日の光を浴びてぼんやりと輪郭のかすんでいる先輩は、まるで一つの芸術作品のようだった。
焦点の合わない瞳を縁取る長い睫毛や、くっきりとした鼻筋や………そこまで思い出したところで、そこまで熱心に先輩を凝視していた自分に苦々しい一種の不快感を抱いた。
私は先輩のことが好きなのかもしれない。よく分からない。
初めて先輩と会ったのは、図書委員になって初めて放課後の受付の当番をしたときのことだった。
学校の図書室には面白いほど人が来なかった。人がいない場合は私語禁止のルールなど在って無いようなものだから、ソファーで寝そべっていた先輩と当たり前のように談笑した。
第一印象の時点ですでに、綺麗な顔の人だなぐらいには思っていたと思う。初対面の人間にそう思わせるぐらいには、先輩の容姿は申し分無かった。何を喋ったかは覚えていない。覚えていないということは、特に当たり障りの無いことを喋っていたのだろう。
先輩は当番じゃない日も毎日図書室にいた。大抵の図書委員は二回目の当番で図書室に誰も来訪者がいないことを学習し、三回目以降はサボタージュするようになるらしい。
そもそも立地が悪い。校舎とは別館の最上階に位置し、周りの教室は視聴覚室だったり備品倉庫だったり、ともかくまあ生徒が必要に迫られてこの空間に足を踏み入れることがめったにないのだ。
だから図書室の存在自体を知らない生徒が多いというのも、来訪者皆無な現状の要因だと思う。というかこの学校の生徒の大半は認知していないんじゃないかとすら思う。
そんな辺鄙な場所に毎日足を運ぶ先輩はちょっとした変わり者である。本も読めるしダラダラ出来るから、というのがその理由であるらしい。さっきも言ったとおり私以外の図書委員は全員図書委員としての職務を放棄しているので、私が図書室に顔を出す度に先輩は「また来たんだ」と意外そうな顔をする。
ありがたいと思われている様子は微塵も無い。ひょっとしたら、自由空間を犯されて嫌がられているかもしれない。しかしそういった様子もまた、先輩の態度からはまったく伺えなかった。他人が居よう居まいが、この飄々とした男にとってはどうでもいいことであるようだった。
そう、先輩は、そういう人なのだ。
私は先輩が苦悩したり煩悶したりしているところを想像出来ない。先輩をそうさせる事柄もまた、思い浮かばない。
全ての人間らしい感情が、彼の前にはリアリティーを失っていた。先輩には現実を現実として捉えていない節があった。
どんなことも感情を動かすには及ばないと言った風だった。まるで小説を読むかの様に、達観した目線で現実を捉えていた。
言うならば、そう、神の視点だ。
恐らく先輩には、取り立てて親しい友人も、恋しい女性もいない。実際に会話をしてみると別に普通の人なのだが、他人と積極的に関わることを完全に放棄した日頃の振る舞いや、真意の読み取れないその言動にはどうやら「奇人」のレッテルが貼られたらしい。
あるとき、先輩は体育館裏でリンチの現場にばったり遭遇したらしい。
三年のバスケットボール部の男子が、二年の後輩に彼女を寝取られたのが原因で、怒り心頭に発していた先輩の男子生徒は、他の部員と束になってそれはもう殴るは蹴るは、暴力の限りを尽くしていたのだそうだ。その現場に、先輩はばったりと出くわしてしまった。
先輩はその場を目撃してどうしたかというと、何もしなかった。
ただぼうっとその現場を見つめていた。
興奮状態にあったリンチをしている集団は、先輩がその場にいたことにもはじめ気付かなかったらしい。
そのうち一人がやっと先輩の存在に気付いて、何か文句があるかよと言った。先輩は、別に何もと言って、またその様子を観察していた…のだそうだ。
イジメの現場を目撃した恐怖で逃げられない様子でもなく、正義感に駆られている様子でもなく、サディスティックな恍惚に酔っているわけではもちろんなく……いたいやめて助けてと泣き叫ぶ男子生徒と、血走った目で暴行を続ける男子生徒の集団を、先輩はひたすら無表情に、ぼんやりと見つめていたそうだ。まるで映画のワンシーンを見るように。小説を読むように。
加害者達は最終的に先輩の様子を気味悪がって血気がすっかり引いてしまったらしい。
この話を私はバスケ部の友人から聞いたのだが、リンチの対象になっていた男子生徒がその後病院送りになり、加害者である男子生徒が退学処分にまでなったので、この話はバスケ部員や同学年の先輩達の間ではかなり有名な話らしい。お節介な友人は、私が先輩と同じ図書委員だと知っただけで本気で心配をしてきたほどである。
恐らく、先輩が煙たがられるのはこの話が広まったことが原因だろう。
しかし本人がそのことを気にしている様子は無いし、煙たがられていることを自覚しているかどうかさえ判断が難しい。当然だ。他の者が陰口を叩こうが気味悪がろうが、多分先輩に取っては何の興味も持てないのだろう。私はここ数ヶ月間の付き合いで、先輩がそういう人間であるという確信を得た。
そして私は、この捉え所のない瓢箪鯰のような先輩を嫌いになれなかった。むしろ、人と接していると気疲れするタイプの私は、気を張るということを生涯一度としてしたことが無いのではないかとも思える先輩と一緒にいることに居心地の良さを感じた。
だから私は、毎週水曜に図書室に通うことをやめない。
これが恋愛感情と呼べるものなのかどうかは自分でも分からない。
しかし、先輩が私のことを好きでも嫌いでもないことは確かめるまでもなく明白な事実である。
その証拠に先輩は私の名前を呼んだことが無い。否、呼べない。
先輩は未だに私の名前を覚えていないのだ。
先輩は人間らしい感情が欠落しているわけじゃない。
ただ、他の人間に比べて、圧倒的に周囲への興味関心が低いのだ。少なくとも私はそう解釈している。
どうでもいい冗談を言って笑うことはあっても、怒ったりイラついたりしたことは今までただの一度もない。
それは、先輩の感情を昂ぶらせたり荒ぶらせたり出来るだけのものが無いのだと思う。
だから今日、先輩が「怖い」と口にしたのは意外だった。
「眠い」以外に感情を表現する言葉を先輩が使ったのは今日が初めてである。夢と現実の区別がつかないことの何が怖いのだろう。
「だって×××じゃないか。」
先輩が何かを言っていた。なんだったっけ。
先輩は何を怖がっていたのだっけ。
ぼんやりとそんなことを考えながら、私は家路についたのだった。
彼の頭の中は、酷くぼんやりとしていた。
よくあることである。寝起きなのだ。脳が目覚めていない。
しかし、自分がそういう状態であるということも判断出来ない程に、彼の脳内はぼんやりしていた。
脳みそが覚醒していないのに、視覚情報は目を開ければ飛び込んでくる。
処理が出来ない彼の脳はその情報に戸惑う。
無造作に置かれた種々雑多な本の山。
風によってぱらぱらとめくれる読みかけの本のページ。
柔らかく差し込む秋の午後の陽気。
そして目の前には、一人の少女が立っていた。
ああ、これは
これはまるで
あの時読んだ小説のようじゃないか
彼の脳は早合点を始めた。
図書室に着いたとき、先輩はいつものように机に突っ伏して眠っていた。
先輩は、私が二日連続で図書室に来たことを驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。
先輩の寝顔を見つめながら、そんなことを考えた。そして、随分見当外れなことを考えるものだと、私は自虐的な嘲笑を浮かべた。驚きも喜びもするはずがない。いつものように、「また来たんだ」と意外そうな目をこちらに向けるだけだろう。私の名前も認識しないままに。
手持ちぶさたな私は、先輩が読んでいた小説をおもむろに手に取った。開かれているページには渇いてしわになった涎の跡があり、苦笑した。まあ私と先輩以外に読む者もいないだろうから構わないのだろうが。
その小説はミステリー小説のようだった。裏表紙のあらすじにだけざっと目を通すと、県立図書館に勤務する司書が殺害された、という内容だった。かなり分厚い本だ。たしか先輩は以前太宰治全集を読んでいた。映画化なりドラマ化なりしている名の売れた作家のヒューマンものしか読まない私は、先輩は色んな本を読むのだなと感心した。推理小説には興味が無かったから、その程度の感慨しか持つことが出来なかった。
ふと、小さく唸り声が聞こえて、私はびくりとした。先輩がゆっくりと起き上がっている。目が覚めたのだろうか。声をかけようと口を開けたところで私は
瞳孔がきゅっと縮まった。全身の神経が強ばった。
戦慄した。
そこにいたのは、先輩ではなかった。
先輩は私の見たことの無い表情を浮かべていた。
相変わらず視点は定まってなかった。しかし黒々とした瞳には、憎悪が、決意が、殺気が見て取れた。
確信はない。理屈じゃない。私にあったのは本能的な恐怖だ。
目の前の男は先輩なんかじゃない。
先輩はそんな表情をしない。
先輩はいつだって余裕のある人だ。私ごときにそんな切羽詰まった顔を向ける人じゃない。
この男は、そんな余裕も、神の視点も、持ってはいなかった。
だって、
だって何だ。一体どうしたというのだ。
だってその男は今
「だって非現実の世界だと、なんでも出来るじゃないか」
これは
これは先輩の言葉だ。先輩が昨日私に言った言葉だ。今漸く思い出した。
それの何が怖いのか私には理解出来なかった。今漸く理解出来た。
今目の前にいるこの男は、なんだって出来るのだ。だって彼は非現実にいるから。
現実世界では出来ないことも出来てしまうから。
夢とはそういうものだ。
意図しないままに脳に翻弄されて
だってその男は今
物語の読者でも、神でもないから
ただの一人の、登場人物なのだから
脳が紡ぐ、夢という名の物語の、一登場人物に過ぎないのだから
先輩の手が、本を、分厚い本を持ち上げる。
「せんぱ」
その次の瞬間、本は私めがけて振り下ろされた。
勢いよく振り下ろされた。
ごつり。二人きりの図書室に、鈍い音が響いた。
私の意識は、そこで途切れた。




