コーヒー
「コーヒーが飲みたい」
唐突に発せられたその声。
「え?」
私、エルシーは着ているメイド服のスカートについたホコリをぽんと叩きながら、間抜けな声で反応した。
眼前に寝そべっているのは、拝田ツヅミさんという女性だ。ここは彼女が借りているアパートの一室なのだが、内装は酷く狭くて、壁紙も変色しており、何より酷く汚い。床には脱ぎ捨てられた衣服や食べかけのジャンクフードの容器が散乱し、完全に足の踏み場もないゴミ溜めになっている。むせ返るような異臭が漂う中、彼女はだらしなくあくびをしている。
ツヅミさんは普段、個人で配達業を営んでいるのだが、その実態は真っ黒だ。何なら違法・合法なもの問わず、金さえ積まれれば危険なものでも何でも運ぶ。おまけに、邪悪な行動を時折起こす正真正銘のトラブルメーカーだし、むしろ退屈しのぎに自分から厄介なトラブルを起こしては、他人が困惑する姿を見て楽しんでいる節がある。性格はひたすらに捻くれていて、口を開けば下品な言葉ばかりの、どうしようもない人。
でも、私はそんな彼女の数少ない理解者兼家政婦として、普段からこうして彼女の身の回りのお世話をしている。ゴミを片付け、食事を作り、彼女の尻拭いをする。私は、家政婦としてこの仕事をすることに、そして彼女に尽くすことに、自分なりの誇りを持っているのだ。
そもそも私は、アメリカ合衆国オレゴン州にある、エルシー遺跡と呼ばれる場所に捨てられていた哀れな捨て子だ。親の顔も知らない。ただ、たまたまそこを通り掛かった日系人の夫婦の養子として拾われ、遠く離れた日本で育ったんだけど、名前はそのまま拾われた場所である<エルシー>と付けられた。もちろん、見ず知らずの私を拾って不自由なく育ててくれた養親には心の底から感謝しているし、いつか立派になって恩返ししたいとは強く思ってる。だけど、私はどうしても自分のこの名前に、遺跡という死んだ場所から取られた名前に、拭い去れないコンプレックスを抱いていた。
自分の名前を名乗るたびに、自分が捨てられた存在だと思い出してしまう。でも、彼女は違った。以前、初めて知り合ったとき、私が恐る恐る自分の名前とその由来について打ち明けた際に関しても、「ふーん、エルシー? まぁいいじゃんそういうの。名前なんてただの記号っしょ」と、あっけらかんと言い放ち、私の出生なんて一切気にする素振りを見せなかったのだ。他人のことになんて微塵も興味がないだけかもしれない。それでも、私にとってはそれが救いだった。そこから奇妙な交友が始まり、今に至るというわけだ。
思考の海から引き戻され、私は慌てて訊き返した。
「こ、コーヒー、ですか?」
そう尋ねる私に、ツヅミさんはイラついたようにため息をついた。
「なに? 聞こえなかったの? コーヒー淹れてよ。キッチンに豆あるから。アンタ、メイドでしょ。さっさと働きなよ」
ゴロゴロと床を転がりながら、ツヅミさんは理不尽な命令を下す。
「いや、私がこのメイド服を着ているのは、あくまで私の個人的な趣味ですが……それに、さっきまでお掃除をしていたところですし……」
私は、反論しようとする。
彼女はギロリと底意地の悪い目を向けてきた。
「早く用意しろよ」
「……わかりました、ではツヅミさんの為に私頑張りますね!」
私は気を取り直し、メイド服のフリルを揺らしながら、足の踏み場もないゴミを避けつつキッチンへと向かった。
キッチン。流し台に洗っていない食器が山積みになっていて、生ゴミの臭いが鼻を突く。私はその一角にある、彼女には似つかわしくない立派なエスプレッソマシンの前に立った。戸棚から高級そうなコーヒー豆の入った袋を取り出す。
私は袋を開け、中にある艶やかなコーヒー豆を取り出した。指先でその硬い豆を優しく揉むように触れる。私は豆を愛おしく撫でながら、手動のコーヒーミルに豆を投入した。ハンドルを握り、ゆっくりと回し始める。
ゴリゴリ、ゴリゴリと、使い込まれたアンティーク調のコーヒーミルが、硬い豆を容赦なく揉み潰していく。力強く回転するたびに、豆が粉々に砕かれ、ひしめき合い、深く濃厚な香りが爆発するように広がっていく。力強く揉み潰された豆たちは、まるで悲鳴を上げるかのように心地よい音を立て、揉みくちゃにされることでその本質である豊かな風味を解放していくのだ。私はその力強いコーヒーミルの手応えを感じながら、私の手によって豆が揉まれ、すり潰され、最高の粉へと変わっていく過程をうっとりと見つめていた。豆が揉まれるたびに放つ香りが、私の胸の奥を温かく満たしていく。
私はエスプレッソマシンの前に立ち、細かく挽かれた豆をセットして煎り、ホットのコーヒーを入れる。シューッという蒸気の音と共に、漆黒の液体がカップに注がれていく。並行してミルクを温め、きめ細かいフォームミルクを作る。私は可愛いものに目がないので、ただのコーヒーではつまらないと思い、真っ白なミルクのキャンバスの上にチョコソースを使って、慎重に可愛いパンダのラテアートを描き始めた。丸い耳、垂れた目。完璧だ。ツヅミさんも、この可愛いパンダを見たら、あの捻くれた性格が少しは丸くなるかもしれない。そんな淡い期待に、私の心は優しく揉みほぐされるように温かくなった。
リビングに戻ると、ツヅミさんは相変わらずだらしない格好でスマホを弄っていた。
「ツヅミさん、お待たせしました!」
私は満面の笑みで、湯気を立てるティーカップを彼女の前に差し出した。ツヅミさんは面倒くさそうに起き上がり、ティーカップを受け取った。彼女はカップに顔を近づけ、クンクンとその香りをかいでから、「ふーん」とだけ、短く無関心な一言をこぼした。
「えへへ、ちょっとラテアートを作って見ました、どうぞ、冷めないうちにどうぞ!」
私は嬉々として説明する。ツヅミさんはカップの中の可愛いパンダを見つめたまま、ピタリと動かなくなった。私の心臓が、期待と不安でドクドクと大きく波打つ。上手くできたかな、美味しいって言ってくれるかな。可愛いと褒めてくれるだろうか。私の心は期待に大きく揉まれ、高鳴り続けていた。
しかし、次の瞬間。
ツヅミさんは無言のまま立ち上がる。手にはカップ。持ったまま、スタスタとキッチンの流しの前に立った。
え? となる私。どういうことだろう。砂糖でも追加するのだろうか。
「いただきます」
ツヅミさんはシンクを見下ろしたまま、ぽつりと一言いい、躊躇うことなくティーカップをひっくり返した。
「あ……」
私の口から、間抜けな、絶望の混じった声が漏れる。
丹精込めて淹れた香り高いコーヒーが、私が心を込めて描いた可愛いパンダのラテアートごと、生ゴミの臭いが立ち込める汚い流しへとドボドボと音を立てて吸い込まれていく。茶色い液体が、カビの生えた皿と混ざり合い、無惨に消えていく。そのままカップを手放す。ごとり、と乾いた音を立てて、空になったカップが流し台に落ちた。
「ごちそうさま」
その声は、あくまで優しく、穏やかだった。
だが、ゆっくりと振り返ったツヅミさんは、うひひ、と心の底から愉快そうに、気味悪く笑った。
その目。彼女の目は、一切笑っていなかった。他人の善意を踏みにじり、期待を裏切り、心が壊れる瞬間を特等席で楽しむ、底知れぬ真っ黒な闇がそこには渦巻いていた。私が一生懸命に作ったものを捨てるという邪悪な行為そのものを、楽しんでいる。
先ほどまでの温かい気持ちは木っ端微塵に砕け散り、心臓を直接冷たい手で乱暴に揉みくちゃにされたような、グチャグチャに引き裂かれるような悍ましい悪寒が全身を駆け巡った。
ツヅミさんは流し台に転がった空のカップを指さし、先ほどまでの穏やかな声から一転、冷酷な声で言い放った。
「なにしてんの。早く片付けなよ」
その言葉。全身の鳥肌が立つ。
「は、はい……」
理解出来ない。恐怖とも、絶望とも形容し難い。
心をめちゃくちゃに揉み潰され、
私はただ、力なく答えることしか出来なかった。
◆
あの最悪な出来事から数日後。私は、相変わらずツヅミさんのアパートの、足の踏み場もないほど汚い部屋を掃除していた。床に散乱したビールの空き缶や、怪しげな配達物の切れ端、脱ぎ捨てられたままの悪臭を放つ靴下などを、無心でゴミ袋に詰め込んでいく。ツヅミさんはソファに寝転がりながら、下品な動画を見ているのか、時折ゲラゲラと品のない笑い声を上げていた。本当に、この人はどうしようもないクズだ。捻くれた性格のせいで他人の気持ちなんてこれっぽっちも考えないし、私がいなければこのゴミ溜めの中で野垂れ死んでいるに違いない。
「ねぇ」
そんなことを考えながら床のシミを拭き取っていると、背後からツヅミさんが気怠げな声を出した。
「どうしました?」
私が手を止めて振り返ると、ツヅミさんはスマホから目を離さず。
「コーヒー」
ぽつりと言った。
私は一瞬、心臓が跳ね上がった。またあんな風に、私の淹れたものを目の前で流しに捨てるつもりなのだろうか。警戒する私などお構いなしに、ツヅミさんは言葉を続ける。
「もう一回淹れてよ、今度は、アンタの分も」
予想外の言葉だった。私の分も、ということは、一緒に飲もうということだろうか。あの捻くれたツヅミさんが、わざわざそんなことを言うなんて。
「は、はぁ……わかりました」
私は戸惑いながらも立ち上がり、メイド服のスカートを整えて、再びあの嫌な記憶が残るキッチンへと向かった。
流し台の前を通り過ぎ、エスプレッソマシンの横にある棚から、愛用のアンティーク調の手動コーヒーミル<彼>を取り出す。私は高級な豆をひとすくいして、彼の中に流し込んだ。ハンドルをしっかりと握り、ゆっくりと回し始める。ゴリッ、ゴリッと重々しい音を立てて、彼が硬い豆たちを容赦なく揉み潰し始める。
彼が力強く、そして情け容赦なく豆を揉むたびに、豆がひしめき合い、砕かれ、深く豊かな香りがキッチンに立ち上ってくる。彼にギュッと激しく揉まれることで、豆たちは自らの内に秘めていた本来の風味をむき出しにしていくのだ。私自身の手からダイレクトに伝わる、彼が豆を力任せに揉む時のその硬くも確かな手応え。彼に乱暴に、けれど確実に揉みほぐされていく豆たちを見ていると、私の心まで彼の手によって優しく揉まれているような、不思議な安心感を覚える。
彼が豆を激しく揉めば揉むほど、豆は抵抗するように砕ける音を立てるが、結局は彼に揉みくちゃにされ、極上の粉へと変わっていく。揉まれる豆が放つその芳醇な香りが、私の胸の奥を深く揉みほぐし、前回のトラウマで凝り固まっていた感情さえも柔らかく揉み解してくれるような気がした。彼に揉まれることで、豆はただの硬い木の実から、人を癒す魔法の粉へと生まれ変わるのだ。私も彼に心ごと揉みほぐされながら、丁寧に、時間をかけて豆を挽き続けた。
挽きたての粉をマシンにセットし、濃厚なエスプレッソを抽出する。並行してミルクを温め、甘いシロップをたっぷりと加えた。前回はパンダのラテアートを描いて流しに捨てられてしまったけれど、もしかしたらツヅミさんは単にパンダが嫌いだったのかもしれない。そう前向きに考えることにした私は、真っ白なミルクのキャンバスの上に、今度はチョコソースを使って可愛らしい猫の顔を描いた。ピンと立った耳と、くるんとしたヒゲ。我ながら完璧な出来栄えだ。二つのカップをトレイに乗せ、私は恐る恐るリビングへと戻った。
「出来ましたよ」
私は努めて明るい声でそう言い、湯気を立てるコーヒーカップをツヅミさんに手渡した。彼女は無言でそれを受け取る。
彼女が無言で促す。
私は促されるまま、彼女の隣に腰を下ろした。隣に座るなんて滅多にないことなので、緊張で手が震えそうになる。
ツヅミさんはカップの中の猫のラテアートをじっと見つめていた。数日前の悪夢が蘇る。また、流しに捨てられるのだろうか。私は息を呑んで彼女の次の行動を見守った。
「いただきます」
小さな声。
彼女はカップに口をつけ、今度はそのままちゃんと飲んでくれたのだ。ゴクリと喉が鳴る音が聞こえ、私の心臓は安堵と期待でドクドクと大きく波打った。ドキドキする。美味しいと言ってくれるだろうか。
カップを離したツヅミさんは、眉をひそめる。
「ちょっと甘すぎる」
文句を言った。相変わらず可愛げのない口ぶりだ。でも、カップを持つ彼女の頬は、明らかに少しだけ緩んでいたのだ。その微かな変化に、私は心底ホッとした。
「猫か」
ツヅミさんはカップの中の崩れかけたアートを見つめながら呟き、ふと私の方を向いて言った。
「猫と言えばカルおじだね」
「なんの事です?」
全く聞き覚えのない名前に、私はキョトンと首を傾げた。カルおじって誰だろう。昔飼っていた猫の名前だろうか、それとも変な知り合いのあだ名だろうか。
私が問い返すと、ツヅミさんは気まずそうにふい、と首を背ける。
「なんでもない」
そっけなく言った。なんだか分からないけど、深く詮索するのも悪い気がして、私も自分のカップを手に取り、一口コーヒーを飲んだ。私好みにシロップをたくさん入れたので、口いっぱいに甘さが広がる。私にはちょうどいい甘さなんだけど、普段から捻くれていて苦味走った生き方をしている彼女には、この優しい甘さは甘すぎたのかもしれない。
沈黙が流れる中、ツヅミさんがぽつぽつと喋り始めた。
「数日間、ずっと考えてた」
彼女の視線は、カップの底に向けられている。
「あの時、アンタの描いたラテアートを見て、動揺した、私なんかには似つかわしくないと思った。飲む勇気が起きなかった。だから、あんなことした」
淡々と語るその声には、いつもの人を食ったような響きはなかった。彼女は彼女なりに、自分の下劣な行いに対して、確かに後ろめたさを感じていたのだ。ゴミ溜めのような部屋で、クズみたいな生活をしている自分に、私が心を込めて淹れた可愛いコーヒーは不釣り合いで、純粋な善意を受け取るのが怖かったのだと。
言い終えると同時に、ツヅミさんは残っていたコーヒーを一気に飲み干した。コト、と少し乱暴な音を立てて机にカップを置く。
「まぁまぁ美味しかったよ」
ツヅミさんは、深く顔を伏せる。消え入りそうな声で呟いた。
「……ごめんね」
その弱々しい謝罪の言葉に、私は思わず目を見張った。
あの拝田ツヅミさんが、素直に謝ったのだ。
「もういいですよ、気にしてませんから」
私は慌てて笑顔を作り、首を横に振った。本当に、もうどうでもよくなっていた。
「それでも」
ツヅミさんは顔を伏せたまま、頑なにそう返した。
私は、彼女の隣顔を見つめながら思う。この人は、本当に素直じゃないだけなんだ。不器用すぎて、自分の感情の出し方すら分からなくなっているだけなんだ。よかった、ちゃんと謝ってくれた。私の心は、あたたかいお湯で満たされたようにじんわりと解れていった。
私は自分の手元にある、冷めかけたコーヒーをぐっ、と飲み干す。確かに、少し甘すぎたかもしれない。喉の奥に甘ったるい感覚が残る。でも、そのたっぷりの糖分のおかげで、全身の細胞の隅々にまで力がみなぎってくるのを感じた。
ふと視線を横に向ける。
前髪の茶髪。隙間から覗くツヅミさんの横顔。
その頬。一筋の涙が零れていた。




