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【溺愛プラン】オプションどうします?  作者: 田中葵
第4部 一歩踏み込む
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「提出した言葉を、もう使わないと決めたあと」

 花子は、その言葉を二度と口にしなかった。


 提出したのは確かに自分だった。

 求められた形式に沿い、角の立たない言い回しを選び、

 誰も否定しないであろう温度に整えた。


 だが、それは使うための言葉ではなかった。


 彼女はそのことを、提出した瞬間よりも、

 数日経ってからのほうが、はっきり理解していた。





 朝は変わらず起きる。

 決まった時間にシャワーを浴び、

 洗濯物を干し、

 ベランダの隅に置いた鉢植えの土が乾いているかだけを確かめる。


【下僕プラン】の利用画面は、

 スマートフォンの奥のほうに押しやられたままだ。


 通知は来る。

 だが、以前ほど目を滑らせなくなった。


「読める」と「使う」は違う、

 その区別が、いつの間にか身体に染み込んでいた。





 一方で、

 マルトクテックカンパニー本部では、

 言葉が、増え続けていた。


「何も起きていない」という事実が、

 日に日に報告書の行数を増やしていく。


 数値は安定している。

 解約率は低下傾向。

 クレームは想定範囲内。


 それでも、会議室の空気は落ち着かなかった。


 誰かが「健全すぎる」と言い、

 誰かが「それは問題ではない」と返し、

 別の誰かが「だが、想定外ではある」と付け加える。


 意味が、回覧される。

 だが、どこにも着地しない。





 佐伯は、発言を控えていた。


 彼は数字を出せなかったわけではない。

 ただ、数字の前に置く言葉が、

 どうしても定まらなかった。


 かつて「丸徳技術研究所」と呼ばれていた頃から、

 この会社は管理を求められてきた。


 曖昧なものを排し、

 揺らぎを減らし、

 説明できない余白を嫌う。


 それは生き残るための癖だった。


 だからこそ今、

 説明できない不安が、

 社内を静かに侵食していた。





「“意味”という語の使用頻度が、

 利用者側で増えている可能性があります」


 誰かがそう言った。


 それは事実確認でも、結論でもなかった。

 ただの観測だった。


 だが、その瞬間、

 会議室の空気がわずかに硬くなる。


 意味。

 数字に落ちないもの。

 管理しきれないもの。


 それが、

 利用者の側から生まれているという仮説。





 花子は、その頃、

 スーパーのレジに並んでいた。


 特売の卵が安く、

 列がいつもより長い。


 前の人が小銭を落とし、

 後ろの子どもが退屈そうに母親の袖を引っ張る。


 それだけの時間。


 彼女は、

 自分が提出した言葉が、

 どこでどう扱われているのかを考えなかった。


 考えない、というより、

 考える必要を感じなかった。


 使う気のない言葉は、

 自分の中では、もう役目を終えていた。





 本部では、

 その言葉が、再解釈され始めていた。


 善意として。

 予兆として。

 あるいは、

 排除すべき芽として。


 だが誰も、

 その言葉を発した本人が、

 すでに手放していることを知らない。


 知らなくていい、とも思っていない。


 ただ、

 知らされていない。





 花子は家に帰り、

 買った卵を冷蔵庫に入れる。


 一つ、ひびが入っているものがあったが、

 そのまま使うことにした。


 問題はない。

 今日中に使えばいい。


 そういう判断が、

 最近、増えていた。





 会議の終わりに、

 誰かがぽつりと言った。


「何も起きていないのに、

 どうして、こんなに落ち着かないんでしょうね」


 誰も答えなかった。


 答えられなかった、のではない。

 答えが、

 どの書式にも当てはまらなかった。





 その夜、

 花子は、提出した言葉を

 もう一度だけ思い出した。


 そして、

 二度と使わないと、

 あらためて決めた。


 それで何かが変わるとは、

 思っていない。


 ただ、

 自分の生活に戻るために、

 必要な区切りだった。

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