「提出した言葉を、もう使わないと決めたあと」
花子は、その言葉を二度と口にしなかった。
提出したのは確かに自分だった。
求められた形式に沿い、角の立たない言い回しを選び、
誰も否定しないであろう温度に整えた。
だが、それは使うための言葉ではなかった。
彼女はそのことを、提出した瞬間よりも、
数日経ってからのほうが、はっきり理解していた。
朝は変わらず起きる。
決まった時間にシャワーを浴び、
洗濯物を干し、
ベランダの隅に置いた鉢植えの土が乾いているかだけを確かめる。
【下僕プラン】の利用画面は、
スマートフォンの奥のほうに押しやられたままだ。
通知は来る。
だが、以前ほど目を滑らせなくなった。
「読める」と「使う」は違う、
その区別が、いつの間にか身体に染み込んでいた。
一方で、
マルトクテックカンパニー本部では、
言葉が、増え続けていた。
「何も起きていない」という事実が、
日に日に報告書の行数を増やしていく。
数値は安定している。
解約率は低下傾向。
クレームは想定範囲内。
それでも、会議室の空気は落ち着かなかった。
誰かが「健全すぎる」と言い、
誰かが「それは問題ではない」と返し、
別の誰かが「だが、想定外ではある」と付け加える。
意味が、回覧される。
だが、どこにも着地しない。
佐伯は、発言を控えていた。
彼は数字を出せなかったわけではない。
ただ、数字の前に置く言葉が、
どうしても定まらなかった。
かつて「丸徳技術研究所」と呼ばれていた頃から、
この会社は管理を求められてきた。
曖昧なものを排し、
揺らぎを減らし、
説明できない余白を嫌う。
それは生き残るための癖だった。
だからこそ今、
説明できない不安が、
社内を静かに侵食していた。
「“意味”という語の使用頻度が、
利用者側で増えている可能性があります」
誰かがそう言った。
それは事実確認でも、結論でもなかった。
ただの観測だった。
だが、その瞬間、
会議室の空気がわずかに硬くなる。
意味。
数字に落ちないもの。
管理しきれないもの。
それが、
利用者の側から生まれているという仮説。
花子は、その頃、
スーパーのレジに並んでいた。
特売の卵が安く、
列がいつもより長い。
前の人が小銭を落とし、
後ろの子どもが退屈そうに母親の袖を引っ張る。
それだけの時間。
彼女は、
自分が提出した言葉が、
どこでどう扱われているのかを考えなかった。
考えない、というより、
考える必要を感じなかった。
使う気のない言葉は、
自分の中では、もう役目を終えていた。
本部では、
その言葉が、再解釈され始めていた。
善意として。
予兆として。
あるいは、
排除すべき芽として。
だが誰も、
その言葉を発した本人が、
すでに手放していることを知らない。
知らなくていい、とも思っていない。
ただ、
知らされていない。
花子は家に帰り、
買った卵を冷蔵庫に入れる。
一つ、ひびが入っているものがあったが、
そのまま使うことにした。
問題はない。
今日中に使えばいい。
そういう判断が、
最近、増えていた。
会議の終わりに、
誰かがぽつりと言った。
「何も起きていないのに、
どうして、こんなに落ち着かないんでしょうね」
誰も答えなかった。
答えられなかった、のではない。
答えが、
どの書式にも当てはまらなかった。
その夜、
花子は、提出した言葉を
もう一度だけ思い出した。
そして、
二度と使わないと、
あらためて決めた。
それで何かが変わるとは、
思っていない。
ただ、
自分の生活に戻るために、
必要な区切りだった。




