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【溺愛プラン】オプションどうします?  作者: 田中葵
第4部 一歩踏み込む
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その後の花子の生活から

――静かな後日。


 花子は、提出済みの文書をもう一度だけ開いた。


 画面の中には、整った文章がある。

 誤字もなく、論理の飛躍もない。

 誰かに否定される要素は、ほとんど見当たらなかった。


 それでも、彼女はそれを「使わない」と決めていた。


 理由は単純だった。

 もう、自分の中にその言葉がない。


 提出したとき、確かに彼女は言語を持っていた。

 違和感を、形にしようとした。

 曖昧な感覚を、他人にも共有できるように整えた。


 けれどそれは、「使うための言葉」ではなかった。


 花子はデスクから立ち上がり、キッチンに向かった。

 コーヒーを淹れる。

 豆の袋を開け、計量スプーンですくう。

 お湯を注ぐ、その一連の動作が、妙に現実感を伴っていた。


 この時間には、意味がない。

 効率も、最適解も存在しない。


 だからこそ、呼吸が戻ってくる。


 彼女は、かつて元・利用者の彼女と名前を交わした日のことを思い出していた。

 あのときも、特別な会話はなかった。

 ただ、生活の中の話を少しだけした。


 洗濯が乾かないこと。

 電車の遅延。

 スーパーで特売だった野菜。


 その中に、違和感は混ざっていた。

 だが、誰もそれを指ささなかった。


 花子はマグカップを持って、窓辺に立つ。


 街は変わらない。

 人の流れも、看板の色も、いつも通りだ。


 提出した言葉は、きっとどこかで処理される。

 分類され、評価され、必要なら修正される。

 もしかしたら、参考資料として引用されるかもしれない。


 でも、それはもう自分のものではない。


 花子は、ふと笑ってしまった。


 言葉を持ったのに、行動を変えなかった自分。


 それは、弱さでも、逃げでもなかった。

 むしろ、彼女にとっては誠実な選択だった。


 行動を変えない、という行動。


 誰かと闘うわけでもない。

 声を上げ続けるわけでもない。

 ただ、これ以上その言葉を振りかざさない。


 彼女は、文書を閉じ、端末の電源を落とした。


 もう、その文章を推敲することはない。

 説明を加えることも、補足を書くこともない。


 それでいい、と心から思えた。


 花子は、次にもし違和感を覚えたら――

 それをすぐに言葉にしないだろう。


 まず、生活の中に置く。

 洗い物をしながら、電車に揺られながら、眠る前の静けさの中で。


 言葉にしないまま、消えるものもある。

 だが、消えずに残るものだけが、次の選択を生む。


 彼女は、その順番を信じることにした。


 マグカップの底に、少しだけ冷めたコーヒーが残っている。

 花子はそれを飲み干し、カップを流しに置いた。


 今日も、特別な予定はない。


 何も起きない一日が、また一つ、静かに積み重なっていく。


 そして彼女は知っていた。


 もう使わないと決めた言葉が、

 それでも、どこかで誰かの判断を揺らす可能性だけは、消えていないことを。


 それで十分だった。

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