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【溺愛プラン】オプションどうします?  作者: 田中葵
第4部 一歩踏み込む
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理念文案・第一次草稿

 本部は、「理念」を書こうとしていた。


 正確には、書こうとしているという事実だけが先にあり、

 何を書くのかは、誰も知らなかった。


 会議室のホワイトボードには、すでに消された跡が幾重にも重なっている。

 マーカーのかすれた線が、言葉にならなかった言葉の残骸のようだった。


 「理念というのは……」


 誰かが口を開き、すぐに言葉を止める。


 「理念は、方向性を示すものですよね」  「ただし、判断基準にはならない形で」  「しかし、象徴性は必要です」


 全員がうなずく。

 だが、誰も書き始めない。


 意味、という語は使えない。

 意図、も避けたほうがいい。

 理由は論外だ。


 結果として残るのは、

 「望ましい」「適切な」「健全な」といった、輪郭のない形容詞だけだった。


 「健全性……は、どうします?」


 一人が恐る恐る尋ねる。


 「うーん」  「誤解を招きやすいですね」  「数値化できない概念ですし」


 健全、という言葉は、空中で宙づりになる。

 誰も否定しないが、誰も掴まない。


 結局、第一次草稿にはこう書かれた。


 > 本制度は、利用者および関係者にとって

 > 望ましい状態の維持を目的とし、

 > 社会的要請との整合性を重視する。


 それを読んだ瞬間、沈黙が落ちた。


 「……何も言っていませんね」


 誰かが言い、誰も反論しなかった。


 「目的、って書いてますけど」  「その中身が空です」  「でも、空でないと通らない」


 全員が理解していた。

 中身を書いた瞬間、それは「意味」になる。


 だから書けない。

 だが書かなければ、理念にならない。


 「では、もう少し抽象度を上げましょうか」  「上げる、というより……逃がす感じで」


 第二稿は、さらに軽くなった。


 > 本制度は、多様な状況に対応可能な柔軟性を持ち、

 > 関係各所との円滑な運用を目指す。


 会議室の空気が、ゆっくりと冷える。


 「これは……」  「何にでも当てはまりますね」  「そして、何も守らない」


 だが、その「何も守らない」感じが、

 今の本部にとっては、もっとも安全だった。


 誰かが、ふと気づいたように言う。


 「これ、現場はどう受け取るんでしょう」


 その問いに、即答は返らない。

 現場、という言葉もまた、曖昧だった。


 花子は、その頃、同じ文書を端末で眺めていた。


 理念文案。

 第一次草稿。

 コメント欄には、「ご意見があれば記入してください」とある。


 花子は、何も書かない。


 書ける言葉がないわけではない。

 ただ、書いたところで、それが使われないことを知っている。


 彼女は、ふと、自分が提出した以前の文書を思い出す。

 意味を削り、理由を消し、

 それでも通過した、あの感触。


 ――あれは、正しかったのか。


 問いは浮かぶ。

 だが、答えを探さない。


 探した瞬間、彼女もまた「意味」に触れてしまうからだ。


 一方、本部では、第三稿の検討に入っていた。


 「理念、という言葉自体を使わないのはどうでしょう」  「運用方針、とか」  「指針、とか」


 言い換えは進む。

 中身は、ますます薄くなる。


 最終的に決定した文書は、

 理念でも、方針でも、指針でもない、

 ただの「説明文」だった。


 拍手は起きない。

 達成感もない。


 だが、誰も反対しなかった。

 反対理由を言語化できないからだ。


 会議の終わり、議長がまとめる。


 「これでいきましょう。

  特に問題は、起きていませんから」


 その一言で、すべてが片づく。


 問題が起きていない。

 それが、最大の理由だった。


 その夜、月影は、提出済みの案件一覧を眺めていた。


 自分が「選ばなかった」案件。

 説明の空白。

 理由の欠如。


 それらが、何事もなかったかのように処理されていく。


 月影は、静かに理解する。


 ――もう、意味を渡す必要はない。

 ――選ばないこと自体が、十分に伝わっている。


 彼女は端末を閉じる。

 次に動くのは、本部ではない。

 現場でもない。


 「利用者」だ。

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