祈りは山を知らない
【国境山岳地帯・神聖国側斜面】
夜の山は、人間の領分じゃない。
細い月が、岩の輪郭だけをかろうじて浮かび上がらせていた。
風は冷たく、木々は黒い柱になって沈黙している。
その闇の中を、日鴉たちは音もなく移動していた。
岩から岩へ。
尾根から尾根へ。
羽根はたたみ、爪先だけで岩肌を掴む。
滑れば死ぬ。
だからこそ、身体は勝手に正しい力の入れ方を選ぶ。
谷を挟んだ向こう側――
山道を、かすかな灯りの列が進んでいた。
松明の光が、霧を橙に汚している。
その中に、影が揺れていた。
人影。
荷馬車。
荷を積んだ、軋む車輪。
「……あれが、三番道の輜重隊」
岩陰から覗き込んだ若い猟兵が、囁くように言う。
「情報通りだ。本隊のあとに続いてるな」
「数は?」
「荷馬車三十前後。人足は……百ちょいか」
「――よし」
フレイヤは、低く息を吐いた。
「手順通りだ。準備」
決めてあった“時刻”――グライフェンタールから渡された砂時計を執拗に確認し続け、
全員が脳裏に刻み込んだ、作戦開始の「今」。
それに合わせて、別の尾根に散った仲間たちも動き出しているはずだ。
五本ある山道のそれぞれで、音のない戦いが始まる。
フレイヤは、身をさらに岩に押し付けた。
谷底は、ここからだと真っ暗だ。
音だけが、深さを教えてくれる。
風が、そこから吹き上がってくる冷たさで、
どれだけ落ちたら戻れないかが分かる。
「……行くぞ」
彼女は、岩に括り付けておいた太い縄をつかんだ。
縄の先には、丸太が横一列に組んである。
岩と土でできた“簡易の柵”の根元に、
それが噛ませてあった。
――事前に仕込んだ楔。
支えの力がそこ一点に寄るように、昼のうちから打ち込んでおいた。
あとは、外すだけ。
フレイヤは指で三つ数え、
爪で楔を弾いた。
ごり、と鈍い音がして、
丸太一列が土ごと動き出す。
山道の外側を支えていた土と石が、
まとめて暗闇に落ちていった。
少し遅れて、悲鳴と車輪のきしみが上がった。
山道の端にいた荷馬車数台が、支えを失って傾く。
馬がいななく。
人が荷にしがみつく。
だが、斜面の角度は容赦がない。
荷と人ごと、谷へ引きずり込まれていく。
火のついた松明が幾つか、
落ちながら尾を引いて消えていった。
「よし、一丁」
フレイヤは、短く呟いた。
「こっちは成功。――次、射手班」
背後から、弓を構えた猟兵たちが前に出る。
夜目が利く日鴉でも、
暗闇の中の急所を正確に射抜くのは容易じゃない。
だから狙いは単純に決めてある。
足首の少し上。
地面に踏ん張る力が伝わる場所。
そこを抜けば、人間は歩けなくなる。
「合図と同時に撃て。狙いは足首のちょい上。
死なせる必要はない。立てなくすりゃいい」
フレイヤが言うと、
猟兵たちは無言で頷いた。
弓弦の張り具合を確かめ、
矢羽根に指を添える。
山道から、怒鳴り声が聞こえてきた。
谷に落ちた車列の後ろにいた人間たちが、
ようやく状況を理解し始めたらしい。
松明の灯りが揺れ、
影が行ったり来たりする。
「――今」
フレイヤの声とほぼ同時に、矢が放たれた。
ヒュン、と空気を裂く音が重なる。
谷をはさみ、左右の尾根から、
細い雨のように矢が降りかかった。
狙いは胸でも頭でもない。足だ。
裸足で荷を押していた男の踵に、鋭い痛みが走る。
筋が切れるいやな音は、山にいる者にだけ聞こえる。
次の瞬間、悲鳴があちこちで上がった。
足を撃ち抜かれた者たちが、
荷馬車にもたれかかるように倒れていく。
誰かを支えようとした別の者が、
引きずられるように転ぶ。
倒れた人の上に、次の荷がのしかかる。
フレイヤは、そこで初めて矢の雨の“的”を、
ちゃんと見る余裕ができた。
松明の光に照らされた彼らは――惨めなほど、みすぼらしかった。
鎧も槍も持たず、粗末な麻布を纏っただけの男たち。
中には幼い少年や、腰の曲がった老人も混じっている。
彼らは裸足で、泥と石の坂を、鞭打たれながら這うようにして荷を押していた。
――その脇に、妙に目立つ影がある。
鎧じゃない。
白い法衣だ。
松明の橙を受けて、縁取りの金糸だけがいやに浮く。
裾は長く、山道の泥と石を避けるように持ち上げられている。
まるで――この山が、跪いて道を譲るとでも思っているみたいに。
法衣の影は、二十歩、三十歩おきにいる。
そのたびに、槍と盾の兵が二十人ほど、輪を作って取り巻いていた。
神官が短い鞭を振る。
鎖が鳴る。
怒鳴り声じゃない。祈りの言葉だ。
贖うために歩け、と。
倒れるな、と。
その祈りの間に、贖罪兵の背中が、もう一度だけ起こされた。
「……なんだ、あいつら」
思わず、声が漏れた。
斥候の一人が、息を飲む。
「フレイヤ、あれ――」
「分かってる」
フレイヤは、唇を歪めた。
「贖罪兵団、ってやつだろうさ」
噂だけは、耳にしていた。
罪人。
異端審問で“有罪”になった者。
負債を返せない者。
そういう人間を鎖でつないで、
贖罪として戦に連れ出す。
最前線の肉壁にすることもあれば、
こうして荷を押させることもある。
獲物が「理のある強敵」ではなく
一方的に搾取される「壊れかけの人間」であると知るのは
狩人の矜持に泥を塗られたような不快感があった。
「隊長、どうする?これ……」
「やることは変わらない」
彼女は迷いなく言った。
「荷馬車を落とす。
足を撃つ。
――ただ、あれは“兵士”じゃないってことだけは、頭に入れとけ」
仲間たちが、複雑そうな顔で頷く。
「殺さなくていい。
荷を押せなくして、歩けなくすりゃいい。
あとは神聖国の連中が、自分たちでどう扱うかだ」
谷底から、また荷馬車が崩れ落ちる音がした。
別の道でも、同じように遅滞戦闘が始まっているのだろう。
フレイヤは、弓を握り直した。
矢筒には、まだ十分に矢が残っている。
火のついた矢――火箭は、
別の斜面で仲間が使うことになっていた。
荷馬車に火をつける役目の者たちがいる。
「アタシらの仕事は、腹と足だ」
フレイヤは、闇に向かって笑った。
「祈りとやらは、勝手にやってろ。
腹が減れば、信仰なんて、いくらでも薄くなる」
再び、弓弦の音が夜に溶けていった。




