狩りの始まり
「――神聖国軍、五万。山岳地帯へ侵入を開始」
斥候の日鴉が、翼に霜を残したまま報告を終えた。
グライフェンタールは地図の上に指を置き、数呼吸ぶん沈黙する。
「猟兵隊の方針は」
「フレイヤ隊長は、荷駄列への遅滞攻撃を開始すると。
山道五本に展開し――兵を削るより、補給を裂く、と」
報告役の声には、わずかな誇りが混じっていた。
グライフェンタールは鼻を鳴らす。
「理にかなっている」
五万の軍勢は、五万の口だ。
山で腹を空にすれば、祈りで胃袋は満たせない。
「よろしいのですか、閣下」
傍らの副官が慎重に言う。
「日鴉たちを、前に出しすぎれば――」
「前に出さねば、山で五万と正面から噛み合う」
短く切り捨てる。
「奴らは“狩る”と言った。なら、狩りの道具を貸す」
彼は机の端の束に目を向けた。矢尻に火薬と油布を括った火箭だ。
「工部から預かった分があったな」
「はい。山用に軽くしたものが三百」
「全数、山頂陣地へ送れ。荷馬車を焼くにはこれで十分だ」
副官が伝令へ指示を飛ばす。その背を見送り、グライフェンタールは筆と紙を引き寄せた。
「書簡を一本。宛先はフレイヤ・シルヴァレイト」
分厚い指に似合わず、字は整っていた。
言葉は少ない。だが、命綱になる種類の文面だけを残す。
――捕まればどうなるか分からない。撤収判断は早めに。
――アギール平野側に降りれば回収部隊が待機している。
――敵の死人より、歩けぬ怪我人を増やせ。
書き終えると、紙を封じて渡した。
「隊長へ届けろ。読んだら、好きにやれ――そう伝えろ」
「はっ!」
伝令は翼をひと振りし、火箭を積んだ荷馬車を連れて山へ向かった。
グライフェンタールは遠ざかる影を見送り、低く呟く。
「……死なせていいのは、山を越えてきた不法侵入者だけだ」
日鴉には、戦いの先に“平野”がある。
それを見せる――それが彼の不器用な理だった。
◆◆◆
山中、日鴉猟兵隊前線陣地。
岩棚に設けた小さな休憩地。火の落ちた焚き跡と、粗末な荷が積まれている。
風よけの岩陰で、フレイヤは膝を抱えて座っていた。
息を切らせた若い日鴉が、封書と布包みを差し出す。
「隊長! グライフェンタールからだ!」
「へえ。偉いさんが律儀だね」
封蝋を親指で割り、ざっと目を走らせる。
眉が、ほんの少しだけ上がった。
「……いい文だ」
彼女は立ち上がり、周囲へ視線を投げる。
岩陰や木の影から、散開していた猟兵たちが無言で集まった。黒い羽が、風の中に点々と浮かぶ。
「聞け。帝国から火箭が来た。荷馬車と糧食を焼け。――腹を裂けって話だ」
どこかで、くく、と短い笑いが漏れる。
「次。捕まるような真似はするな。退くと決めたら即座に飛べ。アギール側に降りれば回収がいる」
フレイヤは紙を折り、懐へしまう。
そして、声を少しだけ低くした。
「最後が肝だ。――敵の死人より、歩けない怪我人を増やせ」
空気が締まる。
彼女の目が、獲物を測る猛禽のそれになる。
「足を止めろ。薬を使わせろ。眠りを奪え。
殺し合いじゃない。重たい肉の塊にして、山の下へ転がせ」
一拍置いて、言い切る。
「命は、好きに使うな。理屈で使え」
誰かが頷いた。誰かが弓の弦を確かめた。
「やることは簡単だ。
荷馬車を焼け。車輪を潰せ。馬を逃がせ。狙えるなら足を撃て」
フレイヤは羽根を一度だけ大きく広げ、風を切って畳む。
「で、もう一つだけ。――ヤバくなったら」
彼女は翼を打つ仕草をしてみせる。
「飛んで逃げろ」
岩棚に短い笑いが弾けた。
それが、恐怖を押し潰すための笑いだと、皆が知っている。
「アジール平野側に降りれば帝国軍の回収部隊が待ってるそうだ。
いいか、アタシらは死ぬために山にいるんじゃない。
奴らを飢えさせるためにいる。
だから、命は好きに使うな。計算して使え」
日鴉たちの羽根が、一斉に揺れた。
火のついていない焚き火の跡から、
風が灰をひとつまみ攫っていく。
「よし、じゃあ仕事を始めな。
庭を荒らしに来たやつらに、マナーを叩き込め」
黒い影たちが静かに散る。尾根から尾根へ、崖から崖へ。
五本の山道――それぞれの喉元へ、日鴉の爪と弓が潜り込んでいった。
良いお年を




