黄金のうねり
最後通牒を断ってから、きっちり10日経過した。
夜の黒が、ようやく薄墨に変わり始めた時間帯。
帝国と神聖国を隔てる山脈の稜線に、日鴉族の影が低く連なっていた。
岩の上、崖の縁、細い尾根。
羽根を畳んだ黒い影が、風と一緒にそこにいる。
フレイヤは、その先頭で膝をついていた。
冷えた岩が、太腿をじわじわ奪っていく。
だが、気になるほどではない。
息は整っている。
瞳だけが、まだ沈みきらない夜を切り裂いていた。
神聖国側の斜面は、濃い霧に覆われていた。
谷を満たす白い海。
その向こう側は、目で見ても分からない。
だが、狩人の目は、霧だけを見ているわけではない。
朝日が、山の端から顔を出した。
一筋の光が、霧の海の上に伸びる。
―その瞬間。
霧の底で、細かい光が一斉に瞬いた。
フレイヤの瞳孔が、わずかに狭まる。
「……見えたか、お前ら」
囁くように言う。
横の岩陰から、別の日鴉の狩人が顔を出した。
「ああ。光ってやがる」
「悪趣味な光り方だ」
霧の切れ目から、朝日を跳ね返すものが見えた。
黄金。
槍の穂先。
甲冑の肩。
列をなすヘルムの縁。
太陽が昇るにつれ、その数は増えていく。
白金の外套が、うねるように動いた。
霧の中で、黄金と白金が波打っている。
フレイヤは、崖際に腹這いになった。
羽根を岩に押し付け、身をさらに低くする。
霧の上を、慎重に視線だけ滑らせた。
列。
列。
列。
槍。
盾。
旗。
――そして、その後ろに続く、荷馬車の列。
彼女は、唇を歪めた。
「……前衛・本隊・後衛、ざっと三つの塊。
全部で五万はくだらないか」
人間の斥候なら、見えない数字だろう。
だが日鴉は、山岳の獣群を数えるように兵を数える。
足の運び。
列の幅。
荷馬車と荷馬車の間隔。
全部、獣を狩るときと同じだ。
「連中、お行儀よく並んで入ってきたな」
「祈ってたんだろ」
フレイヤは肩をすくめる。
「山に入る前に、“神の御加護”とやらを。
祈り終えたから、今度は“浄化”の番ってわけさ」
霧の中の列が、山肌に喰い込んでくる。
山道を登り始めた部隊の動きは、
平野を進むときの半分以下に落ちていた。
重い鎧。
長い槍。
そして、何より――
「フレイヤ、どうする?」
仲間の声が、岩陰から飛んでくる。
彼ら五百の日鴉猟兵は、
国境から内側へ少し入った山頂線に散開していた。
「どうするも何も」
フレイヤは、にやりと笑った。
「あの山道、荷馬車が通れる幅があるのは五本だ」
彼女は、指を一本ずつ折っていく。
「北から一番道、二番道、三番道、四番道、南の五番道。
全部、アタシらの“庭”を通って帝国側に出る」
日鴉族は、生まれたときからこの山を飛び回っている。
風の癖も、岩の割れ目も、
雪崩れる斜面も、古い獣道も。
地図より先に、身体が覚えている。
「伝令を飛ばす。
グライフェンタールに、“獲物”が山に入ったってな」
フレイヤは立ち上がらず、羽根だけをわずかに広げた。
「それから――」
鳥が一羽、静かに飛び立つ。
伝令用の小柄な日鴉だ。
「全員山に展開。
隊長はカイラ、ヴェルト、イレーネ、ロガン、そしてアタシ。部隊を分ける」
「合図は?」
「荷馬車が山に入ったら、だ」
フレイヤは、霧の向こうで軋む木の音を聞いた。
石を踏む蹄の音。
重い車輪のきしみ。
それを獣の腹の音のように聞き分ける。
「兵はどうでもいい。
狙うのは飯だ」
彼女は、山の下の光景を想像した。
いくら信仰を積み上げても、
腹の中までは満たせない。
どれだけ「神の御心」を唱えても、
空腹は消えない。
「信仰で腹は膨れんよ」
フレイヤは、冷ややかに言った。
「五万の胃袋を、山の中で引き裂いてやろうじゃないか」
日鴉たちが、静かに動き出した。
岩から岩へ。
尾根から尾根へ。
翼を広げれば目立ちすぎる。
だから、風を読む。
斜面を滑るように駆け、
必要なときだけ、影のように短く跳ぶ。
荷馬車が通れる五本の山道――
そのすべてに、日鴉の狩人が待ち伏せるように散らばっていった。
あの山は、アタシらの庭だ。
昔、フレイヤがグライフェンタールに言った言葉が、
今はそのまま“作戦名”のように思えた。
庭に入った獲物は、
庭の主が狩る。
神聖国が、何万の兵を揃えようと関係ない。
まずは、その五万を――飢えさせてやる。




