山脈の影、鉄の列
風は、まだ冷たいだけだった。
鉄と血の匂いは、まだ混じっていない。
アジール平野の北端、小高い丘陵に設けられた西部方面軍本陣は、
しんとした張りつめた静けさに包まれていた。
あれから三日――
斥候隊長の報告書を受け取りながら、
グライフェンタールは小さく呟いた。
「グラウ峠方面、山道、国境線、
いずれも神聖国軍の明確な動きは確認できず」
地図の上に、駒がぽつぽつと並んでいる。
山脈の向こう側に、神聖国の軍勢がいることは確かだ。
ただ、それがどれだけの規模で、どの程度の速度で動いているか――
まだ霧の向こう、といったところだった。
「初動は遅い。あるいは十日というのは、向こうの都合だったか」
グライフェンタールは鼻を鳴らした。
神聖国は、決めてから動くまでが遅い。
その代わり、一度動き始めれば止まらない。
祈りと儀式と“聖断”という名の会議に時間をかけ、
それらをすべて済ませてから、ようやく剣を抜く。
つまり――
今の沈黙は、嵐の前の“聖歌”の時間ということだ。
そのとき、幕舎の外から喚声が上がった。
「伝令っ!東街道より――!」
兵の声に、室内の空気がわずかに揺れる。
グライフェンタールは、地図から目を離した。
「入れ」
幕舎の入口がはね上がり、
砂埃をまとった若い騎兵が飛び込んできた。
「報告します!帝都方面より援軍!
旗印――オイゲン子爵!」
その名を聞いた瞬間、
グライフェンタールは片眉を上げた。
「……オイゲン?」
かつて、内乱の丘陵戦で刃を交えた男だ。
若いが、退かない。
兵を盾ではなく“仲間”として扱う将だった。
あのときは敵同士。
今は、同じ旗のもとに立つことになる。
「出る」
グライフェンタールは立ち上がり、
外套をひっつかむと、幕舎の外へ出た。
丘を下った平地に、
新しい埃の帯が近づいてきているのが見えた。
列の先頭には騎兵。
その後ろを、重盾と槍を持った歩兵の列が、
整然と続いている。
鎧は帝都式の重装。
肩と胸に厚い鉄板。
列の動きは重いが、乱れはない。
やがて先頭の旗が、
風に翻りながら丘の手前で止まった。
青と銀の帝国旗。
その下に、黒と白で描かれた“山上の狼”の紋章――
オイゲン子爵家の印。
騎兵の列から、一騎が進み出る。
まだ三十代半ば。短く刈り込んだ黒髪。
オイゲン子爵は馬を降りると、グライフェンタールの前で背筋を伸ばし、大声で名乗った。
「皇帝陛下の勅命により、中央軍予備より抽出した重装歩兵一万、騎兵二千――グライフェンタール辺境伯指揮下、帝国西部方面軍に合流いたします!」
声が、丘に反響する。
後方の列から、金属がぶつかる微かな音と、
それを抑え込むような緊張が伝わってきた。
丘陵戦の記憶がよぎる。
泥だらけの斜面。
血と汗にまみれた兵たち。
自分の策に乗らず、怯えながらも、守ると決めた線を守り通した男。
「勅命、確かに」
彼は短く言った。
「遠路、ご苦労だったな、オイゲン」
「いいえ、帝国の危機なれば、慌てて馳せ参じようというもの」
オイゲンは、わずかに笑みを浮かべた。
「伯の丘の上に、
少々鉄を積みに参りました」
「気骨だけは、内乱の頃と変わらんようだ」
「それはお互い様で」
そんな軽いやり取りを交わしながらも、
二人の視線の奥には同じものがあった。
◇
グライフェンタールはオイゲンを連れて、丘の上から周囲を示した。
「ここが西部方面軍の本陣だ。
そなたの兵を合わせて、歩兵一万五千、騎兵三千
それが当面の西部方面軍となる」
西部の土を踏む鉄の数が、
倍以上になった計算になる。
「心強い」
グライフェンタールは、それだけを言った。
その一言に、
オイゲンの肩の力が少し抜けたように見えた。
「さて。オイゲン子爵。そなたには、私の右腕になってもらう」
「……参謀、ということで?」
「そうだ」
即答だった。
「内乱で見た。
そなたは前線に立ちながら、全体も見ていた。
そういう目が、ここには必要だ」
オイゲンは一瞬、驚いたように目を瞬いた。
すぐに表情を引き締め、拳を胸に当てて深く頭を垂れる。
「拝命いたします」
「よろしく頼む。馬を出せ、地形を見てもらおう」
グライフェンタールが促し、二人は共に馬上の人となった。
丘の上に並ぶ旗が、風に大きくはためいた。
帝都からの援軍が加わり、
アジール平野の丘陵に陣取る軍は、
名実ともに「方面軍」と呼ぶに足る規模となった。
「斥候線は、峠手前二十キロまで伸ばす」
道すがら、グライフェンタールはオイゲンに告げた。
「重装歩兵を主力とし、丘の正面斜面に。
軽歩兵と猟兵隊は左右の谷へ散らす。
山から何が降りてきても、まずはここで形を崩す」
オイゲンが頷く。
「この地形であれば防衛向きですな。
迎え撃つによく、見張るにもよく、伏兵にも向く」
……敵が普通の軍なら、ですが」
グライフェンタールは、山のほうを一瞥した。
「普通でないものを連れてくる可能性も、十分にある。
奴ら、日鴉を焼くのに“人間ではないもの”を使ったらしい。
帝国に向ける刃も、同じか、それ以上だろう」
「浄化だかなんだか、ですか」
「ああ。だが名はどうでもいい」
グライフェンタールは短く切った。
「山から出てくるものは、全部“敵”だ。
それで足りる」
オイゲンは、それ以上余計なことは言わなかった。
ただ、丘の上から広がる平野を見渡し、
静かに息を吸った。
この土地は、まだ血を知らない。
それをできる限り守るのが、
自分たちの役目だと理解している者の顔だった。
旗も、命も、責任も、重くなった。
風はまだ冷たいだけで、
鉄と血の匂いは混じっていない。
だが、誰もが知っていた。
山の向こうで、神聖国は“聖戦”を整えつつある。
こちらは、守るべきものを揃えつつある。
アジール平野の戦いは、
静かに、その幕を開ける準備をしていた。




