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農家の異世界奮闘記 ~理の目と鍬一本で、国を回し、神話を問い直す~  作者: 今無ヅイ
穢れ火戦争編

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西部方面軍、元帥の意味

 グライフェンタール領、同夜。


 夜の砦は、静かではなかった。


 壁の上では見張りの銀狼が雪の気配を嗅ぎ、中庭では鍛冶場の火がまだ赤く息をしている。だが、もっとも張り詰めた空気は、そのどこでもなく、砦の中心にある石造りの通信室にこもっていた。


 部屋の中央には、腰ほどの高さの石台が据えられている。その上に固定された水晶核が青白く脈打ち、床へ刻まれた理式へ淡い光を流していた。


「……帝都からですな」


 老書記官が、小さく息を呑む。


「はい。識別符は宰相府。優先級は『緊急・西方』です」


 通信技師が答える声も、普段よりわずかに硬い。


 グライフェンタールは黙って頷いた。


 広い肩に、使い込まれた毛皮の外套。


 内乱では帝国へ反旗を翻した。それでも赦免ののち、彼は再び西辺境伯として、そして西部方面軍司令官として、この地を預けられている。


 その事実は、名誉というにはあまりに重かった。


「繋げ」


「はっ」


 技師が水晶核へ手を添える。


 共鳴投影通信理式――コンコルディア・リンクが起動し、水晶核の光が一段強くなった。空気が細かく震え、石台の上へ淡い光の柱が立ち上がる。


 やがて、それは人の形を取った。


 半透明の像。


 帝都アーネンエルベの皇帝、ディートリヒ。


 その隣には、宰相リヒャルトの姿もある。


「夜分だな、グライフェンタール」


 幻像の皇帝が口を開いた。


 音にはわずかな籠もりがある。それでも言葉は明瞭だった。


「いえ。こちらは元より、眠る暇などございません、陛下」


 グライフェンタールは片膝をつき、軽く頭を垂れた。


 儀礼は最低限。


 ディートリヒも前置きを挟まなかった。


「神聖国から最後通牒が来た。日鴉の引き渡しと、イースタシア、ノースタンへの通行権を求めてきた」


 グライフェンタールの背筋が、わずかに強張る。


 予感はあった。


 だが、予感していた刃が実際に抜かれたと知るのは、また別の冷たさを伴う。


「……帝国は、どう応じられました」


「断った」


 即答だった。


「日鴉は引き渡さぬ。友邦への『浄化』のために、帝国の地を踏ませもしない」


 皇帝の声は静かだった。


 静かであるがゆえに、揺らぎがない。


 隣で、リヒャルトが口を開く。


「先ほど正式に回答した。奴らなりの作法で、十日の猶予は残されている」


 ディートリヒが続ける。


「おそらく、その十日で山岳を突破する準備を整える。問題は、それがいつ、どこから来るかだ」


「――アジール平野ですな」


 グライフェンタールは低く答えた。


「国境山岳地帯の南寄り。山が低くなり、兵を通せる場所があります」


 西の山並みがわずかに途切れ、川と土砂の運んだ扇状地が広がる。その先にはアジール平野があり、さらに帝国中枢へ向けてロジア高原へと続いていく。


 大軍が山を越えるなら、通れる場所は多くない。


 そして越えてきた敵を、まとまった軍勢で迎え撃てる場所も限られる。


「中央参謀本部も同じ判断だ」


 リヒャルトが頷いた。


「アジール平野手前の丘陵地帯を第一防衛線とする。西部方面軍は即時、戦時体制へ移行する」


 グライフェンタールは顔を上げた。


 そこでディートリヒが、まっすぐ彼を見る。


「ヴィルヘルム・フォン・グライフェンタール」


「はっ」


「そなたに、西部方面元帥号を預ける」


 一拍。


「元帥府を開け。西部戦域に属する兵団、ならびに中央より増派する兵力、工兵、魔力砲兵、輜重の運用を、そなたの指揮下に置く」


 グライフェンタールは動かなかった。


 西部方面軍は、昨日今日に生まれた軍ではない。


 神聖国と帝国が西で向かい合う限り、ずっとそこに在り続けた帝国最大の方面軍だ。


 だが、西部方面元帥は違う。


 平時の守りを預かる将ではない。


 西方で起きる戦争そのものを、一つの意思で動かすための権限だった。


「元帥府には、西部戦域における将官人事についても裁量を認める」


 リヒャルトが淡々と付け加える。


「指揮系統を一本にする。異議のある諸侯には、帝都へ申し立てさせる。戦場であなたの命令と議論を始めさせるつもりはない」


「……そこまで、お任せ下さると」


「任せる」


 ディートリヒは短く答えた。


「そなたは西を知っている。神聖国を知っている。そして何より、兵を死なせぬための戦を知っている」


 内乱で敵として向かい合った男に、帝国の西を預ける。


 それがどれほど重い決断か、グライフェンタールにも分かっていた。


「グライフェンタール」


 ディートリヒの声音が、わずかに低くなる。


「帝国は、人として守る道を選んだ。日鴉の者たちも、イースタシアも、ノースタンも、その決断に巻き込まれる」


「承知しております」


「ならば、その最前線を預ける」


 皇帝の瞳が、幻像越しにまっすぐ彼を射抜いた。


「神聖国が何を以て攻めてこようとも――そこで止めろ」


 命令だった。


 同時に、願いでもあった。


 グライフェンタールはゆっくりと立ち上がった。


 再び顔を上げたとき、そこにいたのは贖罪を求める元反逆者ではない。


 帝国西部を預かる、一人の軍人だった。


「西部方面元帥の任、謹んで拝命いたします」


 胸へ手を当てる。


「アジール平野を、帝国の盾といたしましょう。山を越えてきたものは、そこで止める」


 一度、息を置いた。


「それがたとえ、黄金の神であろうとも」


 短い沈黙。


 やがてディートリヒの口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。


「頼む」


「ツチダとイースタシアの医療団も、いずれあなたの後方で動くことになる」


 リヒャルトが続ける。


「前だけを見ていられるよう、後ろはこちらで整える」


「それならば助かりますな」


 グライフェンタールも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「こちらは、前だけを見ていればよいようにしてください、宰相殿」


「そのために帝都で胃を痛めている」


「ご自愛を」


「善処する」


 そこで通信は切れた。


 光の像が霧のようにほどけ、水晶核には再び青白い光だけが残る。


 部屋の空気が、現実へ戻った。


「……閣下」


 老書記官が声を落とす。


 グライフェンタールは振り返った。


「聞いたな」


「はっ」


「帝都は断った。ならば、我々は守る」


 窓の外にはまだ夜の色が残っている。


 その向こう。


 山の稜線のさらに先から、いずれ神聖国の軍勢がやってくる。


「参謀を集めろ」


 グライフェンタールは命じた。


「西部方面軍参謀本部へ通達。アジール平野手前に第一防衛線を構築する。主力は明朝より段階的に展開。工兵は先行し、堀と土塁の構築を始めろ」


「はっ!」


「魔力砲兵の射界も先に測らせろ。輜重は街道を一本に寄せるな。日鴉の猟兵が戻り次第、山岳偵察へ組み込む」


 書記官と参謀が、一斉に動き出す。


 グライフェンタールは最後に一度だけ、水晶核を振り返った。


 そこにはもう皇帝の姿はない。


 内乱では、帝国に反旗を翻した。


 今は、その帝国から西を預けられている。


「――アジール平野、か」


 低く呟いた。


 そこは元々、山の麓に広がる穀倉地帯だ。


 農民が土を耕し、麦と豆を育てる。ただそれだけの場所だった。


 だが今日から、その土は帝国西部の第一防衛線になる。


「よろしい」


 窓の向こう、まだ見えぬ山の先を睨む。


「来るがいい、神の軍勢よ。ここから先へは、一歩も通さん」


 夜は、白み始めていた。

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