編成と前進
国境山岳地帯――南端。
切り立った稜線が一度だけ低く緩み、
岩と土の“傷口”のように山道が口を開ける。
そこを抜ければ、アジール平野。
神聖国から見ても、帝国から見ても、
もっとも越えやすく、もっとも攻めやすい喉元だった。
ここ十年ほど神聖国との小競り合いが絶えなかったのも、この地域だ。
その日のうちに、帝都から届いた二通の書簡には、昨夜の魔導通信で交わした言葉が、より冷徹な公文書として記されていた。
「西部方面軍総指揮官」――その肩書きを裏打ちする軍務卿の黒い印璽は、今やグライフェンタールの右手に、数千の命の重みを突きつけている。
「グライフェンタール辺境伯の麾下の軍勢を、
本日付けで帝国西部方面軍と称す」
「西部方面軍総指揮官は辺境伯とする。
中央軍はそなたの戦略判断を前提に動く」
「当面、歩兵五千、騎兵一千を基幹戦力とす。
帝都より増援を派遣する」
読み終えたグライフェンタールは、書簡を静かにたたんだ。
「これで言い訳はできんな」
ぼそりと呟く。
命令は明快だ。
国境山岳地帯を抜けた先――
アジール平野に、敵は出てくる。
ならば、待ち構えるしかない。
「本陣を移す。
主力はアジール平野の手前にある、なだらかな丘陵地帯だ」
地図の上に置いた指が、
自領の城から南西へ、大きく弧を描く。
「神聖国が降りてくる出口、グラウ峠からおよそ百キロ手前。
山から吹き下ろす風がまだ届き、
かつ、一望できる高みがある」
「防衛には、よい地形ですな」
副官が地図を覗き込み、頷いた。
グライフェンタールは短く言った。
「敵が峠を抜けて平野に溢れる前に、
地の利を得る。あの丘を押さえておかねばならん」
命令はすぐに走った。
城下の広場に集合したのは、
常備の歩兵五千、騎兵一千。
旗は一本にまとめられ、
その先端には、グライフェンタールの紋章と並んで
青と銀の帝国旗が掲げられた。
これで名実ともに、彼らはただの兵士ではなく、神聖国との最前線に立つ帝国西部方面軍となった。
出立の号令とともに、
鉄と革の列が城門を抜けていく。
騎兵が先行し、歩兵が続き、
その後ろを工兵と荷車隊が守るように進む。
馬蹄が凍った地面を打ち、
車輪がわずかな泥を跳ね上げる。
冬の入口の空は低く、
山脈は黒い歯列のように沈んでいた。
丸一日の行軍ののち、
目的の丘陵地帯が見えてきた。
山から流れ出る小川が蛇行し、
その左右に、緩やかに盛り上がる丘がいくつも連なっている。
森は少ない。
視界は広い。
ここならば、どこから敵が現れても、必ず“見える”。
そして、“登らせる”ことができる。
「ここだ」
グライフェンタールは馬上から丘を見上げた。
風は強いが、嫌な風ではなかった。
アジール平野から吹き上がる湿り気と、
山から降りてくる冷気が、ここでぶつかっている。
「本陣は、アジール平野を一望するあの丘に置く」
地図上の指が示すのは、山から吹き下ろす冷気と、平野の湿った風がぶつかり合う丘陵地帯だ。
昨夜、幻像越しに語った戦略が、今、土と泥の現実へと形を変えようとしていた。
「工兵は今からでも土塁と堀を刻み始めろ」
「はっ!」
「騎兵は周辺の高みを押さえろ。
物見台をいくつか作る。
峠のほうで何かあれば、すぐに分かるようにな」
命令が飛び交い、
兵たちが動き出す。
杭が打ち込まれ、
土嚢が積み上がり、
草地があっという間に“軍隊の色”に変わっていく。
鍋の煙が上がる代わりに、
測量用の旗がいくつも小さく揺れていた。
グライフェンタールは、丘の頂に馬を進めた。
そこからは、
山へ続く細い筋が一本、
アジール平野のほうへと伸びているのが見えた。
まだ静かだ。
だが、その静けさこそが、
嵐の前の“理にそぐわぬ空白”のようにも思えた。
「四日後には、帝都から援軍が来る」
独り言のように呟く。
アジール平野は、帝都へ続く広い喉元だ。
ここから帝都まで、防衛に適した地形は少ない。
神聖国は大軍だ。何もない平野で数で圧倒されれば保たないだろう。
風が、外套の裾をはためかせた。
グライフェンタールは馬上で背筋を伸ばし、
まだ見えぬ山の向こうを睨む。
だが、胸の奥では、同じことを理解していた。




