「断る」
その日、謁見の間の空気は、普段より一段重かったと後世の歴史書には記されている。
冬支度のために絨毯が厚く敷かれ、窓は風除けの布で覆われているはずなのに――冷えは、足元ではなく胸のあたりにまとわりついてくる。
列柱の間に並ぶ廷臣たちも、今日は口数が少ない。
ざわめきの代わりにあるのは、鎧の擦れる細い音と、衣擦れの微かな気配だけ。
誰もが知っていた。
神聖黄金国から「使者」が来るとき、そこに祝意や友誼が入っていた例は、歴史上一度もない。
玉座の前で、使者が跪いた。
痩せた男だった。白い法衣に金の刺繍。うなじまできっちり撫でつけた髪。
皇帝ディートリヒは、視線を下げも上げもしなかった。
正面から、その男を見据える。
「アウルム・サンクタ神聖黄金国、枢機卿団の名代として参じました」
使者が恭しく頭を垂れる。
声は丁寧で、抑揚は穏やかだ。
だが、その穏やかさの下に硬い刃のようなものが隠れているのが、この場にいる誰の耳にも分かった。
「皇帝陛下に、聖なる書簡をお届けいたします」
両手で捧げ上げられた封筒を近衛が受け取り、さらにそれを宰相リヒャルトの手へ、そして皇帝のもとへと運ぶ。
ディートリヒは、一度封蝋に目を落とした。
五本指の紋章。
そのうち親指だけが濃く刻まれている。神聖国の印。
封を切る。
羊皮紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
視線を左に向ければ、玉座の段の下で控える侍従長が、唇を結んでいる。
右手側、リヒャルトは相変わらず無表情だが、その手は議事録用のペンを既に構えている。
ディートリヒは、書簡を目で追いながら、ゆっくりと内容を読んだ。
行は短い。言葉は整然としている。意味は、あまりにも単純だった。
読み終え、紙をたたむ。
一拍おいて、視線を使者へ戻す。
「口頭でも、伝えるがよい」
静かな声でそう告げる。帝国の廷臣にも、はっきり届くように。
「はっ」
使者は一段、声を張った。
「ひとつ」
親指が、ゆっくりと立てられる。
「帝国領内に収容されている日鴉族の者どもを、すべて神聖黄金国へ引き渡すこと」
謁見の間の空気が、わずかに揺れた。
「ひとつ」
使者は、同じ指を下ろさずに言葉を継ぐ。
「イースタシア月王国、およびノースタン連邦へ、浄化師団を進軍させるための通行権を認めること。
帝国領内の街道・補給を含め、妨げない旨をここに求める」
イースタシアとノースタン。東と北の友好国二つの名が、平然と並べられた。
「これら二つを承認しない場合――」
使者は、そこで一瞬だけ目を伏せ、改めて顔を上げた。
その瞳には、慈悲の形をした冷たさが宿っている。
「アーネンエルベ帝国が、一指の正教に背く異端国家とみなされることになります」
謁見の間の空気が、そこで変わった。
重さから、緊張へ。緊張から、静かな怒りへ。
誰も声は出さない。
だが、居並ぶ貴族も官僚も兵も、各々の手の中で何かを強く握りしめていた。
「なお――」
使者は続けた。
「返答の期限は、十日以内といたします。
それまでにご回答がない場合は、拒否と見なし、
相応の“一指の裁き”を下さざるを得ません」
十日。
短いようで、長いようで、戦支度には微妙な猶予。
(戦の準備をする時間は、与えるということか)
ディートリヒは、静かに考える。
神聖国は、逃げ道を与えているのではない。選び取る“戦場”だけを与えている。
帝国が屈して日鴉を売り渡すか。
あるいは、友邦を踏みにじる通行を認めるか。
それとも――両方を拒んで、刃を交えるか。
謁見の間に、沈黙が落ちた。
ディートリヒは、紙をもう一度見下ろす。
文面は、余白まで美しく整っている。
ただ、“浄化”という優しい言葉だけが並んでいた。
彼は、ゆっくりと書簡から視線を外した。
隣のリヒャルトを見る。
宰相は、短く息を吸い、皇帝と目を合わせ、そして――静かに頷いた。
言葉は要らなかった。
これから帝国が選ぶべき道について、兄弟の間に齟齬はないことを、その一つの頷きが示していた。
(ここで迷えば、帝国の理は濁る)
ディートリヒは、腹の底でそう言い聞かせる。
日鴉の子どもたちの顔がよぎる。
イースタシアの静かな湖と、ノースタンの雪原が浮かぶ。
その上を、神聖国の「浄化師団」が行進する光景も、容易に想像がついた。
それを許した日には、“理の国”など二度と名乗れなくなる。
深く、ひとつ息を吐く。
そして、まっすぐに使者を見据えた。
「……十日は不要だ、使者殿」
その一言で、廷臣たちの背筋が一斉に伸びた。
リヒャルトも、そして西方から上がっている報告を知る文官たちも。
この次に続く言葉が帝国の命運を決めることを、全員が理解していた。
ディートリヒは、玉座の肘掛けから手を離した。
両の手を膝の上に置き、揺るぎない口調で告げる。
「帝国は、日鴉族を引き渡さぬ」
「……!」
使者の喉が、かすかに鳴った。
ディートリヒは、その反応を待たずに続ける。
「また、イースタシアおよびノースタンへの“浄化”と称する進軍のため、我が国の街道を通行させることも、断る」
静まり返った謁見の間に、その「断る」がよく通った。
「帝国は、己の理に基づき、我が国に庇護を求めた者を守る」
視線が、列の奥の将軍たちにまで届くように。
「友邦を、理なき“浄化”から守る。それを手放した時、アーネンエルベは帝国ではなくなる」
深く、短く、一息。
「ゆえに――書簡の要求は、すべてお断りする」
謁見の間の空気が、別のものに変わった。
恐怖でも、安堵でもない。
これから血が流れることを、誰もがほぼ確実に理解したうえでなお、そこに生まれる静かな覚悟。
誰かが、胸に手を当てて頭を垂れた。
それに続くように、鎧のきしむ音が連鎖する。
臣下の礼が、音のない波のように玉座へ向かって押し寄せた。
使者は、数拍遅れて口を開いた。
「……そのお言葉、確かに。
枢機卿団に、ありのままお伝えいたします」
その声にも、もはや穏やかさはなかった。
張り詰めた糸のような礼儀と、その内側に隠せなくなった敵意。
「帝国は、選ばれたのですね」
「帝国は常に、帝国であることを選び続けている」
ディートリヒは、淡々と答えた。
「それが一指にどう見えようと、我々の理までは裁けぬ」
やがて、使者は形式通りの礼を取り、引き上げていった。
重い扉が閉まる音が、謁見の間を震わせる。
沈黙。
それは、一瞬だけだった。
「リヒャルト」
ディートリヒが名を呼ぶ。
「はい」
宰相が一歩前に出る。
「十日という猶予は、相手にも我らにも等しく与えられた、と考えよう」
「承知しております」
「西方防衛線の再編を急げ。
グライフェンタール辺境伯に、“防ぐ戦”ではなく“守る戦”を命じる」
リヒャルトの筆が走る。
「イースタシア、ノースタンへは?」
「こちらから先に、知らせを送る。
我らは通行を許さぬと伝えた、と」
「理解してくれるでしょうね?」
「たとえ理解してくれなくとも、それが帝国の選んだ理だ」
そう言い切る皇帝の横顔は、かつて内乱の炎の中で剣を振るった青年ではなく、今や“帝国そのもの”の顔つきになっていた。
この瞬間、静かに――穢れ火戦争の幕が、上がった。




