夜明け前――焼け残った色
夜と朝の境目は、いつも少し気味が悪い。
光でも闇でもない色が、谷底にうすく溜まる。
その色と、今ここに漂っている“黄色”は、似ても似つかなかった。
ツチダとクローディアが日鴉孤児区画に着いたとき、焚き火はほとんど燃え尽きていた。
灰の中に赤い点がいくつか残っているだけだ。
周囲には徹夜明けの兵と、瞼の腫れた孤児たちが固まっている。
ロザリーが立ち上がろうとして、よろけた。
「ツチダさん……」
声は掠れていた。
そのすぐ横で、ミドラーシュが毛布にくるまれたまま横たえられている。
顔色は悪くない。呼吸も整っている。
ただ、目を閉じたまま、何の反応も返さない。
「――ここです」
工部の若い技術官の一人が、震える指で地面を指さした。
焚き火から少し離れた、硬い土の上。ミドラーシュが座っていた場所だ。
「落ちた……じゃない。
“立ち上がった”のは、この位置からです。魔力計が、ここを中心に振り切れました」
ツチダは、その地点に一歩踏み込んだ。
足裏から、何かが逆流してくるような感覚があった。
冷えた土なのに、冷たさとは別のものが、じわりと這い上がってくる。
「……なんだか、良くない場所ですわね」
クローディアが眉をしかめた。
青い瞳が、ゆっくりとあたりをなぞる。
魔素を直接受容できる者だけが拾う“ざらつき”が、空気に混じっているのだろう。
ツチダも目を細めた。
彼の「農の理」の視界は、土と水と魔素の流れを、色と線で捉える。
ここ数日、避難所の衛生と水路の整備で、その目はずっと“生きる準備”のために働いていた。
今、視えているのは――その延長ではない。
この世界の魔素は、本来なら三つの色で語れる。
赤――ルブラ。
緑――ヴィルデ。
青――アズール。
炎と生命。
成長と風。
冷静と水。
土の中を走る線も、焚き火の周りで揺れる粒も、基本はそのどれか、あるいは混じり合った色として視える。
だが、今この地点にだけ――
そこにあってはならない色が、残っていた。
土の中に、薄く滲んだ“黄”。
線ではない。粒でもない。
あったものが、そこだけ塗り替えられたような残滓。
赤でもない。緑でもない。青でもない。
混ざらない。混ざろうともしない。
ただ、“理の外側”に貼り付いた色。
(色元素の枠から、外れてる)
ツチダは喉の奥で唾を飲み込んだ。
魔素の乱れには、乱れ方の筋がある。
洪水には洪水の形があり、嵐には嵐の筋がある。
だが、この黄色には「筋」がない。
ただ、痕だけがある。
他の色が近づくと、触れもしないのに避けて流れていく。
焼け焦げた土に染みついた油のように、水と混じらず、浮き上がってくる。
「――どう、ツチダ?」
クローディアの声が、かすかに震えていた。
「何か、分かります?」
「分かりません」
即答だった。
「ただ一つだけ。これは、“三色のどれでもない”」
「三色のどれでも……ない」
クローディアが言葉を反芻する。
彼女は色で視ない。代わりに、体を通して流れを感じる。
本来なら補い合える感覚のはずが、ここではどちらも説明に届かない。
「魔導装置のログを見せてください」
ツチダは技術官に手を伸ばした。
差し出された板状の魔導器には、夜半に跳ね上がった魔力振の記録が刻まれている。
波形は常識的な値からいきなり跳ね上がり、一本の針みたいに垂直に伸びて、急激にゼロへ落ちていた。
「魔導砲の試験どころじゃないね」
呟くと、技術官は青ざめた顔で頷いた。
「はい……。出力だけ見れば、帝都の魔導炉が一瞬だけここに出現したような数値です。
ただ、“方向”がなさすぎて……」
「方向が、ない?」
「通常の魔力振は“どこかへ向かう波”として記録されます。
でもこれは……上下も左右もよく分からない、“一点から一点”の……」
技術官は、言葉を探しあぐねて黙り込んだ。
ツチダも同じだった。波形は「起きた」ことしか言わない。「何か」は教えてくれない。
「ミドラーシュの様子は?」
クローディアがロザリーに問いかける。
「ずっと眠ったままです。呼吸も脈も普通ですけど……」
ロザリーの声も震えていた。
「さっき一度だけ、うなされるみたいに身体がぴくってなって――でも、目は開かなくて」
「見ますわ」
クローディアは枕元に膝をついた。
毛布の上から、小さな胸のあたりに手をかざす。
彼女の魔力回路が静かに開き、周囲の魔素がそこへ流れ込む。
ツチダの目には、クローディアの肩口に青と銀の光がふわりと立ち上がるのが視えた。
帝国の理。整った、慣れた流れ。
それがミドラーシュに触れた瞬間――クローディアの表情が変わった。
「……ツチダ」
呼びかける声が低い。
「何か、ありました?」
「“何もない”と言うには無理がありますわね」
クローディアは、いつもの軽口に逃げようとして、できない顔だった。
「この子の中の魔素――全部ではありません。
全部ではないのですけれど……」
一度、浅く息を吸う。
「……“塗り替えられて”います」
「塗り替え?」
「はい」
乾いた笑いが喉の奥で鳴った。
「流れ自体は破綻していません。血も心臓も、ちゃんと動いている。
でも、その流れを彩っていた“色”の一部が――ところどころ、黄色に上書きされている」
「そんなことが……あり得るんですか」
言いながら、ツチダは自分の言葉の薄さに気づいていた。
“あり得ない”と言ってもらって安心できる現象じゃない。目の前に結果がある。
「本来、あり得ませんわ」
クローディアははっきり言った。
「帝都の学院で教わったどの理式にも、そんな発想はありません。
“既存の色素を、体系外の色で塗り替える”なんて」
彼女はミドラーシュの小さな手を、そっと握った。
「なのに――魔素は確かに生きていて、動いていて……その上で“黄色い”」
ツチダは無意識に喉に手を当てた。
自分の中も、いつか塗り替えられるのか。
想像だけで背筋が冷えた。
「……神聖国で言う、“忌み色”、ってやつですかね」
口にしてから、ツチダは自分の舌を内心で小突いた。
帝国には、色に“穢れ”を貼り付ける発想はない。
あるのは、分類できるかできないか――それだけだ。
それでも、数は少ないが神聖国側の書物や、焼かれた村の話、報告書の端々で耳にしてきた。
彼らは黄色を「忌み色」と呼び、徹底して避けている。
「価値づけは要りませんわ」
クローディアが首を振る。
「忌むかどうか、清いかどうか――そういう信仰の問題ではありません。
わたくしたちの理の枠の外にある“未知”だということ……それが問題です」
どの文明の学問にも属していない。
だから誰の言葉にも載せられない。
「記録は、どうします?」
クローディアが問う。
ツチダは、地面に残った黄色い痕をもう一度見た。
土の中に薄く、しかし確かに残っている色。
ミドラーシュの中で、ゆっくり染みていく色。
見なかったことにはできない。
「ありのまま書きます」
ツチダは静かに言った。
「“黄色い魔素の残滓を確認。ミドラーシュの体内魔素の一部も、黄色に変性している疑いあり”」
「帝都の学者たちは眉をひそめるでしょうね」
「ひそめるくらいなら、まだいいですよ」
乾いた笑いが出た。
「一番まずいのは、“何も書いてませんでしたね”って後で言われることですから」
黄色は、理から外れた色だ。
だが今、その“外れた色”が、理の国と名乗る帝国の報告書に、一行として刻まれようとしている。
それがこの先、何を呼ぶのかを――
この場の誰も、まだ知らない。




