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農家の異世界奮闘記~理の目と鍬一本で、国を救い、神に挑む~  作者: 今無ヅイ
穢れ火戦争編

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舞い上がるモノ

 グライフェンタール領 夜――日鴉孤児区画

 

 谷底は、焚き火の赤だけが揺れていた。

 風は弱い。雪も、霜もない。


 それなのに、空気は妙に冷たかった。

 冷えが皮膚の上ではなく、胸の内側に貼りつくみたいに。


 日鴉孤児たちの区画はいちばん奥――崖に寄りかかるように、細長く伸びている。

 昼間、子どもたちが走り回った跡だけが土に残り、今はその上に寝床が並んでいた。


 布と古着と毛布を重ねただけの粗末な巣。

 黒い羽根と、白い羽根が、焚き火の光の届く範囲で丸くなっている。


 火から一歩外へ出れば、すぐに暗闇だ。


 ミドラーシュは、その暗闇の端にいた。


 崖際に寄せた板の上。

 膝を抱え、背中を岩に預けている。


 瞼は閉じているのに、その顔は眠っている者のそれではなかった。

 眉間には皺があり、唇は固く結ばれている。

 指先は毛布を握りしめ、爪が布に食い込んでいた。


 夢を見ていた。

 いや、夢というより――焼き直された現実だった。


 山の夜。

 炎の色。

 肉の焼ける匂い。

 羽根が燃える音。

 誰かの叫ぶ声。

 神聖国の浄化師団(こわいひとたち)が、焚き火ではない火を降らせた夜。

 母親の羽根が燃える。

 父親の羽根が千切れる。

 兄弟が、折れて転がる。

 友が、手を伸ばしたまま黒く固まる。



 視界はその場面から離れない。

 何度まばたきしても、何度目を閉じても、焼ける音だけが繰り返された。


 言葉は出なかった。

 本当は叫びたい。

 喉は動く。息も漏れる。唇も震える。

 それでも――言葉だけが組み上がらない。


 声を失ったのではない。

 “言う”という形そのものが、どこかで折れている。


 その代わり、胸の奥が裂けていた。

 そこから、何かが溢れていた。


 悲しみ。

 恐怖。

 それから――世界そのものへの憎しみ。


(どうして)


 言葉にならない声が、夢の中でいくつも重なる。


(なんで)

(なんで)

(なんで)


 それは「彼女」の声であり、あの夜に山で焼かれた全員の声でもあった。


 夢の中で、ミドラーシュは、何度もあの夜を見た。


 焼く側の顔も、炎の向こうに見えた。



 白い法衣。

 金の装飾。

 冷たい眼。



 火を「神の光」と呼ぶ唇。


 何度も、何度も、同じ場面に戻される。


 


 どこにも逃げ場がなかった。

 山にも、谷にも、夜空にも。


 狭い檻の中に閉じ込められているようだった。

 檻の格子は燃えていない。燃えているのは中身のほうだ。


 焼かれているのは、いつも彼女の外側で――

 焼け残っているのは、彼女の内側だった。


 その内側に、何かがたまっていった。


 叫べなかった時間。

 頷くことも拒むこともできなかった時間。

 「理に従え」と命じる、誰かの言葉。


 それら全部が、黒い穴の底で凝り固まっていく。


 やがて、悲しみは形を変えた。


 涙が凍ると氷になるように。

 怯え続けた時間が腐ると、別のものに変わるように。


 怒りのようでいて、怒りではない。

 狂気のようでいて、狂気でもない。



 もっと静かで、粘ついたもの。

 それを誰かが名づけるなら――【怨嗟】がいちばん近い。



 怨嗟が、満ちた。

 もうこれ以上は入らないところまで。


 そこまでいって、初めて――何かが、音もなく「切れた」。


 現実の谷底で、ミドラーシュの体がびくりと震えた。


 瞼の下で、瞳がひらく。

 夢と現実の境界が、一瞬で壊れた。


 焚き火の赤。

 毛布の感触。

 子どもたちの寝息。


 全部が数瞬だけ遠くなる。


 代わりに、胸の奥の“裂け目”だけがはっきりしてくる。


 そこから――何かが、上へ向かった。


 最初は、誰にも見えなかった。


 ただ、ミドラーシュの瞳の奥で、細い黄色の線が生まれた。

 濁った、嫌な色。


 この国が口から消したはずの、忌避された色。

 線はひびのように広がり、瞳孔の奥から手前へ走る。


 ロザリーが、最初に気づいた。


 焚き火の向こうで、白い羽根の少女の目が――猫のように細く光ったのだ。

 黒いはずの虹彩の真ん中から、黄色い光が一本、静かに浮き出ていた。


 それは最初、線だった。

 次に、それが“炎”になった。


 空気が、軋んだ。


 谷底の音が、一瞬すべて消えた。

 焚き火の爆ぜる音も、子どもの寝息も、風のざわめきさえも。


 その静寂の中心で――


 ミドラーシュの瞳から、黄色い一筋の火が、空へ向かって走った。


 落ちてくる雷ではない。

 登っていく雷――そんなものがあるのだとしたら、それだった。


 目から天へ。

 地面から月へ。


 夜空を縦に裂くように、細い炎の柱が駆け抜けた。


 轟音が、遅れてやってくる。


 耳を内側から殴られるような音だった。

 同時に、目に見えない衝撃が谷底を叩いた。


 焚き火の炎が横倒しになり、

 テントの布が大きく膨らむ。


 子どもたちが一斉に飛び起き、

 誰かが悲鳴を上げた。


「なに……!?」

「山が――」「火が――!」


 羽根を広げる音。

 踏み外して転ぶ音。

 泣き声。


 だが、黄色い火は、誰にも触れなかった。


 毛布も、羽根も、髪も焼かない。

 熱も匂いも残さない。


 ただ、月を目指してまっすぐ登り、

 夜空のどこかで、ふっと消えた。


 残ったのは、眩暈と耳鳴りと、

 目の奥に焼きついた黄色い残像だけ。


 そのとき、空気が震えた。


 避難所の端に設えられた魔導通信装置――共鳴核が、低く唸り始める。

 魔力振。魔力の波紋。

 普段は人には感じ取れないほど微細なそれが、

 今夜は皮膚の内側まで叩いてくるほど強かった。


「魔力振が跳ね上がってる!」

「こんな値、見たことないぞ!」


 誰も、その中心が“ひとりの少女の瞳”だったとは、すぐには信じられなかった。

 けれど他に説明のしようもなかった。


 ロザリーは、視界がぐらつく中で、ミドラーシュのほうへ顔を向ける。

 少女(ミドラーシュ)は、崩れ落ちていた。


 さっきまで膝を抱えていた体勢のまま、横へ。

 羽根も、腕も、重力に従ってだらりと垂れている。


 ロザリーは這うようにして近づき、その体を抱き起こした。


「ミドラーシュ! ねえ――!」


 返事はない。

 けれど息はある。胸はわずかに上下している。脈もある。


 ただ、意識だけが、どこかに置き去りにされたように戻ってこない。

 彼女の睫毛のあたりに、かすかな黄色い燐光がまだ残っていた。


 焚き火の光ではない。

 触れても熱はない。

 ただそこに、“色”だけがあった。


 この世界に存在してはならない色。


 ミドラーシュは、夢を見ていた。


 親と兄弟と友が焼かれる夢を。

 何度も、何度も。

 言葉にならないまま、焼けるのを見続ける夢を。


 その慟哭と怨嗟の行き止まりで――

 世界のどこにも出口を見つけられなかったそれが、

 ただひとつ、上へ抜けた。


 目から、月へ。


 それが「何」であるかを、まだ誰も知らない。

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