聖断
聖断の間には、音がなかった。
中央の円卓を囲むように、七つの黄金の椅子が並んでいる。
床には古い五本指の紋が刻まれている。
ただ、五指のうち「聖なる指」と定められた一本だけが深く、濃く刻まれ、残りは削り潰され、磨り減らされ、ほとんど“なかったこと”にされている。
正しきは一指。
それ以外の指は、忘却と断罪の対象――そういう時代の空気が、石の上にまで染みついていた。
高窓から差し込む光は、聖樹を模した彩色ガラスを透かし、
白と金だけの世界に、かすかな灰色の影を落としていた。
「……以上が、“山岳浄化作戦”の最終報告である」
自らの声が、広い空間に淡く反響する。
キュリオス・グレゴリウス聖は、手元の羊皮紙から目を上げた。
「サルヴァ山脈東斜面に群生していた日鴉の集落は、
報告によれば、ほぼすべて焼き尽くされた」
円卓の向かい側で、鎖の枢機卿エングメント聖が、ゆっくりと頷く。
「ほぼ、とは」
「はい」
グレゴリウスは紙をめくる。
「山岳の地形上、崖下や洞窟に逃げ込んだ者、
数百単位で“帝国側へ流出した”との報告が上がっております」
剣の枢機卿ベリアル聖が、露骨に舌打ちした。
「取り逃がしたか、“浄化師団”が」
「帝国が受け入れを宣言したとの情報もあります」
別の枢機卿が顔をしかめる。
「聖なる一指に逆らいし翼持つ者らを、
“理の国”などと名乗る蛮族が庇護するか」
「日鴉どもが、帝国にどれほどの害をもたらすか……」
円卓を囲む声が、冷たい軽蔑と、僅かな不安を含んでざわめいた。
グレゴリウスは、あえてそこで報告書を閉じる。
「とはいえ――」
静かに言葉を置く。
「“忌まわしき日鴉”の群れが、聖樹の光の届く地からほぼ消えたことは事実。
これは我らの正しさの証左でありましょう」
聖断の間の空気に、わずかに満足の色が混じる。
エングメント聖が、細い指で椅子の肘掛けを叩いた。
「民には、“神罰は成就した”と告げよ。
聖なる法に従う者は守られ、異端は灰となったと」
「御意」
幾つもの頷きが重なった、そのとき――
重い扉が、控えめに二度、叩かれた。
聖断の間で、その音を立ててよい者は、限られている。
エングメント聖が眉をひそめる。
「入れ」
扉が開き、若い修道士が、顔面を蒼白にして走り寄ってきた。
膝をつき、床に額をすりつけるようにして叫ぶ。
「も、申し上げます! 神託の巫女様が――!」
聖断の間の空気が、一瞬で張り詰めた。
「神託の、巫女が?」
グレゴリウスが、思わず椅子から身を乗り出す。
「何をおっしゃった」
「神殿において、突然の昏倒ののち……
短く、御言葉を」
修道士の喉が、ごくりと鳴る。
聖断の間の七つの視線が、一斉に彼の口元に注がれた。
「――“忌むべき穢れ火が舞い降りる。掃滅せよ”と」
時間が、止まった。
空気が、音ごと凍りつく。
グレゴリウスは、自分の心臓がひとつ打つまで、その言葉の意味を理解できなかった。
(穢れ火……)
耳が、自分の聞き違いであってほしいと願っている。
だが、修道士は震えながらも繰り返した。
「“穢れ火が舞い降りる”――
確かに、そのように」
円卓の向かい側で、エングメント聖の顔色が変わった。
白とも青ともつかない色。
その唇が、わずかに震える。
「その語を――」
細く乾いた声が漏れる。
「“穢れ火”という語を、巫女が、口にしたと?」
「は、はい……!」
「あり得ぬ」
別の枢機卿が、思わず立ち上がった。
「その語は、聖典より削られたはずだ。
書にも、講壇にも、残っておらん」
「忌み句だぞ、それは」
「多指の怨嗟を呼ぶ、穢れた名……!」
ざわめきは、恐怖と動揺を孕んで広がっていく。
グレゴリウスの背筋に、冷たい汗が流れた。
穢れ火――
遠い昔、まだ神学が今ほど“整えられる”前に、
ほんの一度だけ、師が洩らした言葉を思い出す。
極度の絶望にのまれた心に宿る、世界全てを憎む理。
一指の秩序から外され、殺し尽くされた、“裂けた指”の忌まわしき炎。
その名を口にすることすら、禁じられた言葉。
(なぜ、巫女が、その語を……?)
「巫女は今、どうしている」
エングメント聖の声が、かすれながらも鋭く飛ぶ。
「御身体は……
“火”は、見えたか」
「い、いえ……! ただ昏倒されただけで、
炎などは――」
「ならば、まだ舞い降りてはおらんということか」
ベリアル聖が、椅子から立ち上がった。
剣の枢機卿の両眼に、恐怖よりも先に、狂信の光が宿り始める。
「“舞い降りる。消せ”――
これは命令だ。一指の御心だ」
「穢れ火を、滅ぼせと?」
「当然だ!」
ベリアル聖の拳が、円卓を叩く。
「裂けた指の怨嗟の理など、
この世界に一瞬たりとも許してはならぬ!」
別の枢機卿が、涙ぐんだ目で頷く。
「穢れ火は、聖樹の敵……!
もしそれが舞い降りるとすれば――」
「我らがそれを“見る”より前に、消さねばならぬ」
エングメント聖の声も、いつの間にか熱を帯びていた。
グレゴリウスは、手の中の羊皮紙を無意識に握りしめる。
その紙には、ほんのさっきまで、
“日鴉浄化作戦・ほぼ完了”と達成感混じりに書かれていたのだ。
だが今、その文言は、一瞬で色を失った。
(まだ、終わっていなかったのか)
何かが、見落とされている。
焼き尽くしたはずの山のどこかに――
あるいは、焼き尽くせなかった“誰か”の中に。
「穢れ火を滅ぼせ」
ベリアル聖が、低く、しかし確かな声で言った。
「巫女の言葉は、一指の直命である。
我らは正しき教えを守る者として、それに応えねばならぬ」
「穢れ火を――滅ぼせ」
別の枢機卿が繰り返す。
それは祈りというより、呪いに近かった。
「穢れ火を、滅ぼせ」
もう一人が続く。
円卓の上に、同じ言葉が重なっていく。
やがて、聖断の間に響く声は、ひとつの合唱になった。
「穢れ火を滅ぼせ――!」
「穢れ火を滅ぼせ――!!」
恐怖が、熱狂に転じる瞬間。
誰もが、その言葉の危うさに気づいていながら、
なおそれを叫び続けていた。
グレゴリウスは、胸の内で小さく息を吸う。
その熱狂に飲み込まれぬよう、
しかし完全に逆らうこともできずに。
(忌むべき穢れ火――
それが、どこに、どのような形で舞い降りるのか)
それはまだ、誰にも分からない。
このとき神聖国が残したのは、 ただ一つ――
“穢れ火を滅ぼせ”という、短く危うい聖断だけだった。




