冬口の仮住まい
グライフェンタール領の砦に足を踏み入れた瞬間、匂いが変わった。
冷えた焚き火の煙。
濡れた土。
血と薬草と、人の匂い。
(……ああ、完全に戦争の匂いだ)
イースタシアの田んぼで嗅いだ湿り気とは、まったく別の種類だった。
砦手前で馬車の列が止まり、俺たちは順番に降りていく。
先頭で待っていたのは、灰色のマントを羽織った一人の男だった。
髪は白く、深い皺に刻まれた顔。
だが背筋はまっすぐで、眼だけは山の岩みたいに固い。
ヴィルヘルム・フォン・グライフェンタール辺境伯。
かつて内乱で反乱軍の司令官を務め、今はディートリヒに赦されて西方を預かる男だ。
(書類の中では何度も見た名前だけど……実物の迫力、えげつないな)
「遠路、ご苦労だったな。ツチダ殿」
低い声だった。
叱られているわけでもないのに、背筋が勝手に伸びる。
「こちらこそ、お呼びいただきまして。……揺れっぱなしで、まだ尻が痛いですけど」
つい余計な一言が出る。
グライフェンタールの眉がわずかに動いて――口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「尻の痛みで済んでいるうちは、まだましだ」
冗談にしては、妙に重い言い方だった。
クローディアとリベラゴールもすでに馬を降りていて、帝国式の軍礼と、イースタシアの静寂の礼を交わしている。
「見ながら話したほうが早い。着いて来てくれ」
グライフェンタールは踵を返し、谷底へ続く道を先導した。
砦の石垣を回り込むと、一気に視界が開ける。
そこにあったのは――きちんと「避難所」と呼ぶには、あまりに粗い、寄せ集めの集落だった。
木の柱と布で組んだ即席のテント。
元々あった古い倉や小屋に、人が溢れるだけ詰め込まれている。
焚き火が点々とあり、その周りに黒い羽根が幾つも丸くなっていた。
「現在、この谷にいる日鴉族は――」
グライフェンタールは従者から帳簿を受け取る。
「千と、三百四十二」
目の前の光景に数字を重ねた瞬間、胃の辺りがぎゅっと縮んだ。
羽根を布で吊られている者。
毛布に包まったまま、焚き火から動けない子ども。
膝に子を抱えて、空っぽの目で火を見つめる母親。
(ここに千ちょっと。……山の上には、もう数えられない数が……)
「衣については、どうにか“凍え死なせない”程度には揃えた」
グライフェンタールが続ける。
「帝国軍と、領内の村々から防寒具と古着をかき集めた。薄い者も多いが、今のところ凍死は出ていない」
日鴉たちは翼ごと布をかぶっている。
翼の骨まで冷えるのだろう。布の膨らみが妙にいびつだ。
「住まいは――見ての通りだ」
冷たい風がテントの隙間を抜け、布をはためかせる。
木の床のないテント。
地面むき出しの寝床。
霜が溶け、ぬかるみに変わりかけている。
「どうにか屋根と壁はあるが、床の藁が足りん。麦藁は家畜の冬越しで手一杯だ。板と布を足しながら凌いでいるが、底冷えがひどい」
(これは、まず床だな)
見ただけで足先が冷たくなる光景だった。
「衛生は?」
自分から訊くと、グライフェンタールは一拍置いてから答えた。
「……かなり、良くない」
谷の端に、板で囲っただけの簡易便所がいくつか見える。
人数に対して、明らかに少ない。
「水は山から引いている。飲料としては申し分ないが、使い方が追いついていない」
洗濯用の桶で皿をゆすぎ、そのすぐ隣で子どもの足を洗っている。
排水はそのまま地面へ流れていた。
(この寒さでこれなら、春になったら一発で疫病が走るな……)
「食は――」
グライフェンタールの声が、ほんの僅かに硬くなった。
「領の倉から出しているが、すでに蓄えの三分の一が消えた」
「三分の一……」
思わず復唱する。
「領民の分もある。日鴉族だけを食わせ、民を飢えさせるわけにはいかん」
淡々とした口調だが、そこに言い訳の色はひとつもない。
「このまま避難民が増え続ければ、一月と保たんだろう」
「帝都からの補給は?」
「宰相殿が“西方は帝国全体の責任だ”と言ってくれた。街道を急がせているが、馬車の数には限りがある」
歩きながら、グライフェンタールがふと視線を遠くに投げた。
「内乱の折、私はこの西方を戦場にした」
ぽつりと、誰にともなく呟く。
「民も兵も、さんざん血を流した。その罪は、いくら赦されようと消えはせん」
帝都の記録で読んだ文言が頭に浮かぶ。
“反乱軍総司令官ヴィルヘルム、皇帝の恩赦により命を拾うも、西方守護を命じられ――”
「だからこそ、だ」
グライフェンタールは谷に戻ってきた視線で言う。
「もう二度と、この血を戦場にはしたくない。
今度は、焼け残った者を守るために使う」
誰かに聞かせるためではなく、自分に言い聞かせるような声だった。
「まとめましょう」
頭の中の札を並べるみたいに、俺は口に出して整理する。
「・人数:千三百四十二。これからも山から降りてきて増える可能性あり」
「・衣服:最低限。凍死は防げているが、防寒としては不十分」
「・食料:領の倉で綱渡り。帝都補給まで、時間との勝負」
「・住まい:テントと古建物で雑居。床が冷たい。泥濘化も進んでいる」
「・衛生:便所と洗い場不足。水の動線が崩れていて、病気の危険が高い」
言いながら、胃のあたりがもう一段重くなる。
(……悪い条件が、きれいに揃ってる)
「帝都からの穀物と豆は、すでに街道をこちらに向かっております」
クローディアが口を挟んだ。
「兄様は、“グライフェンタールだけに背負わせない”と」
グライフェンタールは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷く。
「ありがたい話だ。反乱の大将だった男に、再び倉の鍵を預けてくれるとはな」
「それはもう“信頼した”ってことですわ」
クローディアがさらっと言う。
「兄様、そういうところだけは豪胆ですから」
グライフェンタールは、俺のほうへ向き直った。
「ツチダ殿。内乱のとき、私は理を裏切った男だ」
真正面から言われて、目を瞬く。
「だが今は、理の側を柩の置き場所とした。
剣を振るうのは若い連中に任せ、私は“生き残った者を数える側”に回った」
その眼には、自嘲も開き直りもない。
ただ、やるべきことを腹の底から決めた人間の眼だ。
「この谷を――“焼け残った者の仮置き場”ではなく、“暮らせる場所”に変える理を、貸してほしい」
「……了解です」
ここまで言われたら、もう逃げ場はない。
「やることは山ほどありますけど、順番さえ間違えなきゃ、どうにか回せるはずです」
「順番?」
「はい」
指を折る。
「一番は住む場所。二番は水。三番が“出す場所”。
飯は、ギリギリでもどうにかなります」
「飯は後回しか」
「腹を減らすのはツラいですけど、腹を壊して倒れるほうがもっとツラいので」
イースタシアで見た瘴気の湖を思い出す。
あそこで学んだ「水と汚れの線引き」は、ここでもそのまま通用しそうだ。
「工部尚書の技術者と一緒に、この谷の地形に合わせた“区画割り”を作ります」
「区画?」
「ええ。
・寝る場所
・食べる場所
・水を汲む場所
・洗い物をする場所
・出す場所(便所)
それぞれを、できるだけ離す」
「日鴉族の文化も聞きたいですね。
地べたで寝るのがきついとか、ならどの程度高さがあったほうがいいとか。
翼を広げるスペースが要るか。
そういうのも設計に入れます」
「なるほど。そういうのは、フレイヤに聞け」
グライフェンタールが顎で焚き火のほうを示す。
「日鴉猟兵隊の隊長だ。そういうのは一番よく知っているだろう。
それから、あの娘もだ。子どもたちの取りまとめをしてくれている」
焚き火のそばで、少女が子どもたちと何かをしているのが見えた。
石を並べて遊んでいるのか、簡単な歌遊びか。
笑い声が、少しだけ谷底の空気を和らげている。
その少し離れたところに、膝を抱えて座る小さな、白い羽根の日鴉の子がいた。
泣きも喚きもせず、火ではなく地面の一点を見つめている。
……目が、妙に揺れない。
(……ここを、「明日のことを考える場所」にする。
とりあえず、今日の夜はちゃんと寝られて、明日の朝もちゃんと飯を食える
――その繰り返しができる場所に)
それができれば、あとは何とかなる。
いや、何とかしていくしかない。
「辺境伯様」
わざと少しだけ軽い調子で呼びかける。
「こっから先は――剣でも魔法でもなく、庭師と大工と台所組の戦場ですよ」
「庭師?」
「“生えてる命を数えて、残すほうに理を振る人”って意味です」
グライフェンタールは一瞬目を瞬いてから、ふっと笑った。
「なら、私は庭師の端くれか」
「はい。燃え残った木を全力で守りましょう」
「望むところだ」
老辺境伯の声には、生気が満ちている。
「この土地は今、帝国の庭であり、日鴉の庭であり――そして少しだけ、お前の畑でもある」
「畑って言われると、やる気出ますね」
肩を回し、谷全体を見渡す。
泥と血と冷えた焚き火の匂いに、これから少しずつ、湯気と木と、――飯の匂いを足していく。
それが、今ここで俺にできる「戦い方」だ。




