燃えた山の帰り道
帝都西方、グライフェンタール領。
夕刻。
谷の入口に立てた見張り台から、かすれた声が降ってきた。
「日鴉猟兵隊、帰還――ッ!」
グライフェンタールは帳簿から顔を上げる。
砦の外。泥混じりの坂道を、黒い影の群れがふらつきながら降りてきていた。
日鴉族の猟兵たち。隊列は崩れていない。――崩せる余裕がない、というほうが正しい。
先頭に立つ女が、翼をぼろ布みたいに垂らしていた。
フレイヤ・シルヴァレイト。
近づくほど、泥だけではないと分かる。
翼も髪も、こびりついた赤で重くなっている。自分の血だけじゃない。山で拾って、抱えて、下ろしてきた誰かの血の色も混じっていた。
部下たちも同様だ。
羽根を折っている者。片脚を引きずる者。息をするたび喉が鳴る者。
それでも全員、砦まで歩いてきた。
(……よく、ここまで連れて帰った)
グライフェンタールは、その“歩幅”を見て判断した。
今日の報告は、数字だけでは終わらない。
フレイヤがどうにか立ち止まり、片手を上げる。
「帰ったよ、辺境伯さま」
いつもの皮肉げな笑みは形だけで、唇の色が悪い。
煙を飲み込みすぎた喉が、声をざらつかせている。
グライフェンタールは一歩前へ出た。
「報告を」
「了解」
短く返したあと、フレイヤは深く息を吐いた。
肺の奥に残った煙を、無理やり吐き出すように。
「この数日で――避難民、三百ちょい」
指を折る。その動作が、いつもより遅い。
「子どもと婆さんが多い。翼を折った連中も……何人かは引きずり降ろしてきた」
書記官が帳面を押さえ、顔をしかめる。
三百。
先に降りてきていた千とあわせて、千三百。
“増えた”と言えば増えた。
だが、フレイヤの次の言葉が、その数字に鉛みたいな重さを乗せた。
「……で、これで、もういっぱいいっぱいだ」
フレイヤは翼をだらりと垂らしたまま言う。
「アタシらの脚と翼じゃ、もうこれ以上は無理。山ん中の道は、ほとんど“あっち側”に押さえられた」
あっち側――神聖国。
グライフェンタールは眉をひそめる。
「抵抗は?」
「やろうと思えば、いくらでも」
フレイヤは、かすかな笑いを作る。作っただけだ。
目は笑っていない。
「崖から石転がして、火矢浴びせて。山を知ってるぶんだけ、あの連中を面白いように転がせる」
その言い方は、誇りでも虚勢でもない。
“できたはず”という悔しさの吐き出しだった。
(……あの山は、アタシらの庭だ)
喉の奥で、煙と一緒に何かが焦げる。
「だが?」
グライフェンタールが促す。
フレイヤは、笑いを消した。
「でも、それやったら――ここにいる連中が、真っ先に巻き込まれる」
谷奥の避難所を顎でしゃくる。
焚き火の周りに寄り集まる日鴉の子どもたち。
傷に包帯を巻かれた老人。
翼を布で吊られ、横になっている男たち。
そして――“生き延びた”というだけで、今にも折れそうな顔。
「山を戦場に戻したら、アタシらがさっきまで運んできた“生き残り”から死んでく」
言葉に棘はある。
だが、その棘は相手ではなく、自分の喉元に向けられていた。
(助けてやれなかったやつらの顔が、まだ、羽の裏に残ってる)
(……悔しい。腹が立つ。あいつらにも、自分にも)
フレイヤは一拍置く。
吐き出す言葉を、選んでいるようで――選べないと知っている顔だ。
「だから決めた。アタシらが翼でさらってこれるのは、ここまで」
ぐっと顎を上げる。
「この先は、もう――」
言いたくない。
言えば、現実になる。
それでも、口が動く。隊長として、言わなきゃいけない。
「……もう、全部焼かれたと思っといたほうがいい」
中庭の空気が、一瞬だけ凍った。
フレイヤ自身も、言った瞬間に奥歯を噛んだ。
悔しさが、血の味と一緒に滲む。
グライフェンタールはすぐには何も言わなかった。
ただ、フレイヤの顔を見つめる。
怒りでもなく、糾弾でもなく。
山岳の天候を読むときのように、雲の流れと風向きを確かめる静かな視線。
フレイヤが先に視線を逸らし、肩をすくめた。
「“諦めが早ぇ”って言うなら、好きに言っていいよ。……でも、アタシらの脚と翼はもう限界だ」
翼の根元に浮かぶ青痣。
足首に巻かれた粗末な包帯。
擦り傷と、それを無理やり動かし続けた痕跡。
“限界”という言葉が誇張でないのは、誰の目にも明らかだった。
「……言わんよ」
グライフェンタールはようやく口を開く。
「諦めが早いとは言わん」
老辺境伯は一歩フレイヤに近づき、背後の猟兵たちを一望した。
「お前たちは、よくやった」
フレイヤの目が、かすかに見開かれる。
「この数日で三百。山を焼かれながら、それだけの者を引きずり降ろしてきた。
それ以上を望むのは、戦場を知らぬ者の言葉だ」
グライフェンタールは避難所のほうへ視線を移す。
「山岳地帯が神聖国に制圧されたのなら、そこはもう“戦場”だ。
お前たちの仕事場は、戦場ではなく――ここだ」
フレイヤは唇を噛んだ。
「でも、山ん中には、まだ――」
「まだいるかもしれん」
遮らずに、重ねる。
「いるかもしれんし、もういないかもしれん」
残酷な可能性を“可能性”のまま置いて、それでも言葉を続けた。
「“いるかもしれない誰か”のために、
“いま目の前で傷だらけで生きているやつ”を潰すわけにはいかん」
フレイヤは拳を握り締めたまま、何も言わない。
沈黙は否定じゃない。
ただ、呑み込みきれない現実を喉の奥で転がしているだけだ。
グライフェンタールは伝令へ目配せした。
「医務テントに伝えろ。日鴉猟兵隊を最優先で診ろ。翼の根元、脚、肺。全部だ。
特に羽の血は丁寧に洗い流せ。低体温症になりうる。
“飛べるから大丈夫”という言葉は信じるな」
伝令が走る。
「それから炊き出しに言え。今日の夜は、日鴉猟兵の分だけでも少し多めに盛ってやれ。
肉でも豆でもいい。翼の筋肉を動かしたぶん、腹も減っている」
炊き出し係の兵が困ったように頷いた。
「閣下、それでは我々の分が……」
「文句を言うな。ずっと優遇しろと言っているのではない。戦場から帰った者を労えと言っているんだ」
兵は笑って敬礼した。
グライフェンタールはフレイヤへ向き直る。
「お前たちに命じる。当面、再突入は禁止だ」
フレイヤの背の翼が、びくりと震える。
「治療を受けろ。飯を食え。眠れ」
短い言葉を、一つずつ区切る。
「それが今の、お前たちの任務だ」
「……任務、ね」
フレイヤは乾いた笑いを漏らす。
だが、その笑いの底で、悔しさがまだ燃えている。
「寝るのが任務ってのは、初めてだよ」
「では初めての任務だ。失敗するな」
グライフェンタールはわずかに口元を緩めた。
「できるか?」
フレイヤは焚き火のほうを一度見やる。
自分たちが翼で運んできた者たちがいる。
泣いている子ども。
震える老人。
黙って火を見つめる仲間たち。
その輪の外で、若い兵たちが安堵の息をついている。
――それを見て、悔しさが少しだけ形を変えた。
(……悔しい。だけど、悔しいって言えるのは、生きてるからだ)
フレイヤは肩の力を抜く。
「……仕方ないね。じゃあ今日は命令どおり寝るよ」
そして、口の端だけで笑った。
「アタシが寝てる間に山で死ぬ奴がいても、その責任は庭師の肩に全部乗せとく」
「ああ、構わん」
グライフェンタールは即座に頷く。
「庭師の仕事は、木が増えたら喜び、枯れたら悔やみ、残った木を守り続けることだ」
「……面倒くさい庭師だ、本当に」
フレイヤは、今度こそ少しだけ素直に笑った。
「行け」
老辺境伯が顎で医務テントを指す。
「翼をたたんで、今夜だけは山を忘れろ。
またいずれ、空を飛んでもらう」
「了解」
フレイヤはようやく“軍人の顔”で敬礼し、泥と血に塗れた猟兵たちを連れて、焚き火と薬草の匂いがするテントへ歩き出した。
残されたグライフェンタールは、山のほうを一度だけ振り返る。
見えない稜線の向こうでなお燻る火と煙を思い浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。
(……山はもう、戦場だ)
(だが、ここはまだ、“生きている者の場所”でいられる)
(ならば、ここを守る)
老辺境伯は胸の内でそう呟き、再び帳簿を開くために歩き出した。
数えるために。
生きている者を、全部。




