月兎の行軍
霧灰季の空は低く、帝都の城壁の上を薄い霧が流れていた。
その霧を裂くように、白と青の旗がはためいている。
イースタシアの戦士たちだ。
帝都の大門前に並ぶ近衛と衛兵たちは、誰も声を上げなかった。
ラッパも、太鼓も鳴らない。
ただ、槍の石突きが石畳を一度だけ打つ音が合図になり、門がゆっくりと開く。
白い軍装、静かな足取り。
耳の長い彼らは、帝国兵のざわめきにも視線を向けず、淡々と列を進めていく。
城壁の内側、俺はクローディアと並んでそれを見下ろしていた。
「帝国の長い歴史で、
他国の部隊が正面門から正式に入城するのはこれが初めてですわ」
「もっと、こう……
音楽とかあるのかと思ってましたけど」
「兄様が許すはずありませんでしょ。
“戦で傷ついた者のために来る客人を、酒で迎える趣味はない”って」
目に浮かぶような台詞だったので、何も言い返せなかった。
月兎の先頭に立つのは、銀の髪を高く束ね、身の丈ほどの双刃刀を背負った月兎の女性――リベラゴール。
彼女は城壁に並ぶ衛兵を見上げ、軽く手のひらを胸に当てた。
帝国式の敬礼ではなく、イースタシア式の“静寂の礼”。
衛兵たちもそれに合わせて敬礼を返す。
出ているのは、野次馬の庶民と、行き交う荷馬車だけだ。
忙しない人の気配と、紙の擦れる音と、靴音が帝都を満たしていた。
医務院からは白衣の医官たちが走り、内務卿の役所からは書類の束が運ばれ、
城の中庭には簡易テント資材が積み上がっている。
慌ただしさの中に、不思議な静けさがあった。
誰も騒がない。
悲鳴も、怒号もない。
ただ、「するべきこと」が次々とこなされていく音だけが、淡々と積み重なっていた。
◇
リベラゴールは、入城からほとんど時間を空けずに謁見に向かった。
ツチダとクローディアが先導し、
月兎の代表として彼女が、医療支援隊の長として女王の書簡を携え、
皇帝ディートリヒと宰相リヒャルトの前に立つ。
謁見は、驚くほど短かった。
帝国側の挨拶。
イースタシアから帝国への、食料の支援要請の書簡。
そしてイースタシア側の医療支援の正式な応諾。
西辺境への派遣経路と指揮権の確認。
それから――ディートリヒが一言だけ、
「西の山で救う命は、帝国の民と同じく、
この大陸に生きる“理の民”と心得てほしい」
と告げただけだ。
それを聞いたリベラゴールは、深く頭を垂れ、
「月の加護と月兎の術をもって、静寂の一角を守りましょう」
とだけ答えた。
その後、宰相リヒャルトとの詳細な打ち合わせが一刻ほど。
補給線、薬草の管理、指揮系統のすり合わせ。
すべて終わった頃には、外はもう夕闇だった。
慌ただしさの中に、静寂があった。
喧騒ではなく、「やるべきことをやっている音」だけが、夜の帝都に残っていた。
◇
【視点:クローディア】
リベラゴールたちが賓客用の部屋へ退室したのち、
ツチダとわたくしは、その足で宰相府に呼ばれた。
兄――リヒャルトは、机の上に山のように積まれた書類を片手で押さえながら顔を上げる。
「戻ったか、二人とも」
「ただいま戻りましたわ、兄様」
形式的な敬礼を交わしたあと、話はすぐ本題に入った。
ツチダが東での調査と対策、帝国からの穀物援助案を簡潔に報告する。
リヒャルトは一言も遮らず、時折「そこは数字で出せるか」「湿地の面積はどれくらい必要だ」と質問を差し挟むだけだ。
「――というわけで。
瘴気そのものは消せませんが
短期的、長期的な対策でかなり改善できる見込みです」
ツチダのまとめに、兄は短く息を吐いた。
「当面の危機は、凌げる。
そう理解して良いな?」
「はい。
ただし、実行には時間と手と、
それから……帝国の倉の一部が必要になります」
「倉なら、開けよう」
兄は、迷いなく言った。
「東に出す分は、先に来た報告書をもとにすでに概算を出してある。
より大きな問題は――」
机の端に置かれた、もう一つの書類束に視線を落とす。
「西だ」
日鴉族の避難報告。
グライフェンタールからの臨時通信記録。
神聖国浄化師団の行動予測。
紙の上に並ぶ文字は冷静だが、その行間から血と煙の匂いが立ち上ってくるようだった。
「……西方の避難民が、すでに千を超えていますのね」
わたくしが呟くと、兄は頷いた。
「今日の昼の報告では、千と百数十名。
だが、山岳地帯全体には、二万を超える日鴉族がいたと見積もられている」
ツチダが目を細める。
「それが、千ちょっと……」
「そうだ。
山中でまだ逃げている者、崖の陰に隠れている者、焼かれた集落に取り残された者――」
兄は言葉を区切る。
「……もう数えられない数も……大勢いるだろう」
静かな言い回しが、かえって重かった。
「帝国としてはすでに、
日鴉族の保護と一時収容を開始している」
兄は紙束を閉じ、私たちを見た。
「だが、辺境伯だけでは限界が来る。
ここから先は、“理の側”の手も入れねばならん」
「理の側……
つまり、“戦争のやり方”だけでは対応できない段階、ということですわね」
「そういうことだ」
兄はツチダのほうを見る。
「ツチダ」
「はい」
「東での仕事は、基本的に“現地の人間と仕組みで回る段階”に入った。
お前がいなくても、回るようにちゃんと作ってきたか?」
「作ってきました」
ツチダが苦笑する。
「湿地も、養殖場も、肥料の記録も。
現地の役人と学者たちへ伝えればすぐに回るはずです。
俺は定期的に調整すればいい」
「なら、東は当面それでよし」
兄は頷く。
「ここから先――お前には、西方での“避難と収容の理”を手伝ってもらう」
「取り急ぎ、避難所の食糧と水と衛生管理、ですかね」
「そうだ。
怪我人や孤児、老人、
山から降りてきたばかりの者たちの“集団生活”を、
冬の入り口でどう支えるか」
兄の視線が少しだけ厳しくなる。
「戦うのは軍だ。
だが、“生き延びること”を整えること。
それがお前たちの仕事になる」
ツチダは、ほんの一瞬だけ目を伏せてから――ゆっくりと頷いた。
「分かりました。
東の田んぼをやりながら、西の避難所もやるのは……正直しんどいですけど」
「安心しろ。
さすがにお前ひとりには背負わせん」
リヒャルト兄さまが机の上の別の書類を渡してくる。
「内務尚書、医務局、軍務尚書。
全て話をつけて、“避難民受け入れの経験者”を借りる予定だ。
それらを束ねる“理の軸”として、ツチダを置く」
(……これ。またツチダが人の上に立たされるパターンですわね?)
ツチダの顔にそんな文字が浮かんだので、わたくしは見なかったことにした。
「クローディア」
「はい、兄様」
「お前は近衛騎士団を率いて西へ迎え。
西方避難所と補給線の護衛が主だが、お前の判断でグライフェンタールの指揮下に入り、防衛戦力となれ」
「仰せのままに」
宰相府を出るころには、外はすでに夜になっていた。
帝都の通りには灯がともり、暖かい匂いと笑い声が漂っている。
帝国の黄金期の始まりを告げる喧騒と、
その足元で静かに始まっている、東と西の“仕事”。
ツチダが、空を見上げて呟いた。
「……忙しいなあ」
「そう言いながら、“殺すための忙しさ”ではないと分かっている顔ですわね、あなた」
「……まあ、“生かすための仕事”なら、いくらでも増えてくれていいですから」
「ふふ。“やりがい”がある、と」
「否定はしません」
本当に困った人だ。
でも、多分――
そういう人がいてくれるからこそ、自分は前を向いて剣を振れるのだろう。
◇◇◇
【視点:グライフェンタール】
夜の山は、冷える。
吐く息が白くなるなか、谷底の広場にいくつもの焚き火が灯っていた。
火の周りには、黒い羽根を持つ者たちが集まっている。
日鴉族――山と空の民。
即席の避難所は、麓の古い砦跡に作られていた。
木を組んだ粗末な屋根、布を張っただけの小屋。
そこに、男も女も、子どもも老人も、身を寄せ合っている。
数えても、数えても、数字は千を少し超えたところで止まる。
「……千、百三十八」
傍らの書記官が、帳面を閉じて報告した。
「本日夕刻までに確認された日鴉族の避難民の数です、閣下」
グライフェンタールは、焚き火を見つめたまま短く頷いた。
山風に鍛えられた老いた顔に、深い皺が刻まれている。
「山岳全体の推定人口は?」
「二万強。
子どもを多く産む部族ゆえ、正確な数は掴みきれませんが……」
「千、か」
ゆっくりと言葉を噛みしめる。
それが、“ここまで辿り着けた者”の数だ。
山中でまだ逃げている者もいるだろう。
崖の陰に身を潜めている者もいるだろう。
焚き火の向こうで、子どもの泣き声がした。
まだ幼い日鴉の子が、羽根を震わせながらすすり泣いている。
その背を、黒髪の少女が優しく撫でていた。
白い羽根。
黒いセミロングの髪。
明るい目元に、今だけ深い影が落ちている。
「大丈夫、大丈夫。
ここはもう、火も槍も飛んでこないからね」
彼女は、できるだけ明るい声を出す。
隣には、膝を抱えて座る小さな影。
日鴉族には珍しい、白い羽と無垢な金色の髪。
彼女は泣きも喚きもせず、ただ炎の揺らぎをじっと見つめていた。
そこに映っているのは、焚き火か、それとも――
焼け落ちる集落の炎か。
「フレイヤは?」
グライフェンタールは、側に控える兵に問うた。
「戻り次第、報告に参るとのことです、閣下。
まだ山の上には、取り残された日鴉たちがいるようで」
「そうか」
辺境伯は、砦の上を見上げる。
山風に黒い影がひとつ、ふたつ、滑るように飛び去っていくのが見えた気がした。
焚き火の光に照らされる避難民の顔は、まだ“数”としてしか把握できない。
だが、明日の朝になれば、その千人以上の飯を用意しなければならない。
そのうち何人が傷を負い、何人が病に倒れ、
どれだけの子どもが夜泣きし、どれだけの者が夢にうなされるのか。
それを数え、並べ、支える役目が、帝国の側にある。
(皇帝陛下は、日鴉を“帝国民に繋ぎ直す”と言われた)
グライフェンタールは、心の中で呟いた。
(ならばまず、帝国民として明日も生きるところまで、
こいつらを連れていかねばならん)
遠くイースタシアからの医療支援隊が、
今まさに帝都を発ちこちらへ向かっていると聞いている。
そしておそらく――
土と理と飯を抱えた、あの男もやってくるだろう。
「……数えるぞ」
己に言い聞かせるように、低く呟く。
「生きている者を、全部だ」
燃えた家の数ではなく。
失われた者の数でもなく。
今ここにいる、そして、これから山から降りてくるかもしれない者を。
その全員分の飯と寝床と、
できれば『明日』を――
用意してやらねばならない。




