西からの急報
湾と谷の調査を終えて、俺たちは月の都へ戻ってきた。
白い回廊、静かな水路、薄い霧。
前に来たときと同じ景色のはずなのに、頭の中は赤い海と黒いヘドロでいっぱいだった。
◇◇◇
謁見の間。
玉座に座るルナリア女王を前に、俺とクローディア、リベラゴール、それから学者たちが膝をついた。
「では、東の海と田の“病”について――」
俺は深く一礼し、これまでの調査と対策案を一通り説明した。
赤潮の正体。
養殖と肥料の増えすぎ。
湖底ヘドロと魔素の停滞。
稲に出た病斑と、虫の異常発生。
そして短期と長期に分けた対策――湿地、養殖、肥料の記録、田の“防波堤”の作り方。
「結論だけ言うと、です」
最後に俺は、言葉を整えて女王へ向けた。
「田畑も海も、“どうにかなりそう”です。時間はかかりますけど。
瘴気そのものを祓うのは難しい。でも、瘴気が居座りたくなる場所は減らせる。居心地を悪くできる」
女王の金の瞳が、静かにこちらを見た。
「そして――」
俺は続けた。
「その間の飢えを埋めるために、帝国へ支援を正式に要請したい。穀物と豆、それから種。
俺も書簡を整えます。イースタシアの側が“防波堤の理”を取るなら、帝国にも“責任の分担”をお願いする形で」
女王はしばらく黙ってから、ゆっくり頷いた。
「……よく見て、よく聞き、よく考えてくれました」
静かな声だった。
「瘴気そのものは、あなたひとりの術ではどうにもならない。
けれど、瘴気が居座りたくなる場所を、ひとつずつ減らしていける。――その理を、イースタシアは受け入れましょう」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
東の海と田に関しては、ようやく“スタートライン”に立てた感覚だった。
――だが。
「……さて」
女王が、そこでわずかに声色を変えた。
「ツチダ殿、クローディア殿。東の件とは別に、もうひとつ話さねばならないことがあります」
嫌な予感が、背筋を撫でた。
女王が軽く手を上げると、侍女が銀盆に載せた一通の書簡を運んでくる。
見覚えのある封蝋。帝国皇室の紋章――双頭の鷲。
クローディアの指先が、ほんのわずか震えた。
「兄様から……?」
「そう。アーネンエルベ帝国皇帝ディートリッヒ陛下と、宰相リヒャルト殿連名の書状です」
女王は封を切り、中身を一瞥してから、ゆっくりと読み上げた。
「――“西方山岳地帯において、神聖黄金国アウルム・サンクタの浄化師団が、日鴉族の集落を襲撃。多数の死者が出ており、生存者は我が帝国西辺境伯グライフェンタールの保護下にある”」
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
クローディアが思わず一歩前に出る。
「日鴉族の……虐殺?」
女王は淡々と続きを読む。
「“現在、避難民は千名を超え、幼子、老人、負傷者多し。
帝国は保護と一時収容を決定したが、瘴気の年における負傷者・避難民への医療体制に不安があるため――”」
そこで一度言葉を切り、女王は俺たちを見た。
「“イースタシア月王国に対し、治癒術師と薬草医の派遣、ならびに薬草と薬酒の提供を願う”」
頭の中で、東の赤い海と、湖のヘドロと、
そして“日鴉族”という単語がぐちゃぐちゃに混ざる。
リベラゴールが、低く呟いた。
「西の山に、火がついたか」
クローディアの声は、震えを飲み込んでいた。
「……兄様は、私たちには何も告げずに?」
「あなた方が東の調査に出発されたあとで届きました」
女王は静かに答える。
「書状には、こうもあります」
もう一枚の小さな紙を取り上げる。
「“東の瘴気対策にあたるツチダ・コウヘイおよびクローディア・フォン・アーネンエルベには、現時点では通報無用。
東の仕事を終えてから知らせること。
西の件は、帝国と辺境伯にて当面責任を持って対処する”」
ディートリヒとリヒャルトの顔が、脳裏に浮かんだ。
(……うん。絶対こういう回し方する)
ありがたい。
けど、悔しい。
その両方が一度に来る。
女王は書状を閉じた。
「ですが、今ここで東の報告を終えた以上――あなた方に隠しておく理由も、もうありません」
金の瞳が、まっすぐに俺たちを捉える。
「帝国からの要請は、医療支援です。治癒術師と薬草医、薬草と薬酒。
傷ついた体と、そして心を少しでも守るために」
少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙を、俺が切った。
「――提案があります、女王陛下」
自分の立場を、言葉で先に固定する。
「俺は帝国の人間です。だから、帝国側の事情も正直に言います。
西では避難民が増え、医療が足りない。今すぐ人手が要る」
「でも、イースタシアだって余裕があるわけじゃない。瘴気の年です。
だから“善意だけ”で回すと、どこかが先に折れます」
俺は一度息を吐き、はっきり言った。
「イースタシアは、帝国の要請に応じて治癒術師団と薬師団を派遣する。
そのうえで、同時に――帝国へ“穀物と豆の支援”を正式に要請する形にしませんか」
女王が、目を細める。
「医療と食糧。互いの不足を、互いの強みで埋める、と」
「はい。
東の田と海は立て直せる。でも時間がかかる。
その間に腹が減れば、防波堤も湿地も続かない。だから、帝国からの飯が必要です」
リベラゴールが静かに言う。
「護衛も要る。術者は刃の陰で働くことになる」
「ええ。戦士団も出しましょう」
女王は迷いなく言った。
「治癒術師団、薬師団、そして護衛としての月兎の戦士団。
帝国の要請に応えましょう。
同時に帝国へは、食糧支援を正式に願う――筋は通ります」
クローディアが、息を整えるように胸に手を当てた。
「兄様に、伝えねば……」
女王は頷く。
「こちらからも正式書簡として送ります。感情ではなく、理として。
帝国が“医療”を求め、月の国が“食糧”を求める。互いの不足を、互いの余剰で埋める。
盟約として、最も綺麗な形です」
俺は、無意識に拳を握っていた。
日鴉族――まだ直接会ったことはない。
けれど帝国の報告書の片隅で、その名前は何度か見た。
山と崖を駆け、翼を持ち、
神聖国にずっと虐げられてきた民。
(その人たちが、今、殺されてる)
東の海で瘴気にやられた魚や田を見たときとは、違う種類の痛みが胸に刺さる。
女王が、静かに俺の名を呼んだ。
「ツチダ殿」
「はい」
「あなたにも、書簡の一節を書いてほしい」
「俺に?」
「帝国の医務院や宰相は、“理の言葉”を読むのが好きでしょう?」
少しだけ、いたずらっぽい笑み。
「瘴気の田や湖で見た“傷の治りにくさ”。
泥と瘴気が傷口に入ったときの危険。
その注意を、“医療者の目線”で書いてほしいの」
「……分かりました。今分かっている範囲で、ちゃんとまとめます」
「お願い」
クローディアが、ふと俺を見る。
「ツチダ。東の仕事を投げ出すつもりは――」
「投げ出さない。でも、止まりもしない」
俺は即答した。
「東は、仕組みを回す段階に入れました。役人と学者と術者が動ける。
俺がずっと居座るより、“必要なところへ動く”ほうが、きっと無駄がない」
それから、少しだけ言葉を柔らかくする。
「西へ行きます。
東は紙と指示で追いかける。……両方、やります」
クローディアは一瞬だけ目を丸くして、すぐに頷いた。
「そういう人だと分かっていましたわ」
女王が、穏やかに言葉を結ぶ。
「東の海と田。西の山と空。どちらも、ミアズマのただなかにある」
窓の外の薄い月に目をやった。
「けれど、風はいつか必ず変わる。
負の想いが風に乗って溜まるなら――理と静寂と、少しの優しさも、風に乗せて流せばいい」
胸の奥で、何かがすとんと落ち着いた。
(よし。やる)
女王が侍女へ目配せする。
「準備を。夜明け前に出立できるように。
リベラゴール、隊の編成を」
「承知」
リベラゴールの長耳が、ぴんと立つ。
クローディアが小さく囁いた。
「帰ったら兄様に言っておきますわ。“東も西も、ツチダの仕事を増やしておきました”って」
「……サービス残業は断固として拒否します」
クローディアは一拍置いて、きれいに眉を上げる。
「……その“さぁびす残業”というのは、施しの類ですの?」
「施しっていうか、給金の出ない追加労働です。善意でやらされるやつ」
説明しながら、俺は自分で自分の首を絞めてる気がした。
クローディアは口元に手を添え、楽しそうに笑う。
「ふふ。では“無給の献身労働”。帝国の官吏が聞けば、倒れますわ」
「倒れる前に手を動かしてほしい」
「口ではそう言いながら、どうせやるでしょう?」
図星だったから、何も言い返せなかった。
ただ、分かっている。
次に俺たちが向かうのは――
赤い海ではなく、燃える山だ。




