瘴気の年――防波堤の理
間違えて同じ話を上げてしまいました。申し訳ない。
赤い海の調査を終えた翌日。
今度は谷の集会小屋に、村の農民とイースタシアの役人、術者、そしてリベラゴールまでが集まっていた。テーラや弟の農夫もいる。
俺はその前で、板に描いた簡単な図を見せていた。
黒い斑点の出た田。
縦縞だらけの田。
まだ症状の軽い田。
谷の地形に合わせて、それぞれを色分けしてある。
俺は板に置いた炭を握り直し、深く息を吸ってから、いつもの仕事の声に戻した。
「ではまず、確認です」
炭を置き、全員を見渡す。
「湖と海を見て分かったとおり、この瘴気は“魔素を狂わせる”だけじゃない。
菌や、さっきの虫が媒介する“見えない病”まで、力を借りて暴れています」
イースタシアの術者が、静かに頷いた。
「魔素の波形が乱れておりました。普通の病とは、少し違う“色”です」
口をついて出そうになった言葉を飲み込んで、言い換える。
「瘴気は“病気そのもの”じゃない。けど、病が暴れる条件を揃えてくる。
――だから、今までの経験則がそのまま通用しないと思ったほうがいいです」
クローディアが腕を組む。
「つまり、“治す”より先に、“広げない”ことを優先しろ、と」
「そのとおりです」
俺は一度、板を見下ろしてから言った。
「ここから先は、あまり気持ちの良い話じゃないです」
先に断って、板の上の“真っ黒な谷”を指さす。
「この谷――黒い斑点も縞もひどい田は、今年は“防波堤の谷”にします」
ざわ、と空気が揺れた。
それはつまり、この谷の稲を“守る”のではなく、“ここで止める”ということだ。
誰かが唇を噛み、誰かが小さく手を合わせた。祈りは、理解より先に出る。
「防波堤?」
テーラが眉をひそめる。
「はい。ここは正直もう病が入り込みすぎている。
全部を救おうとして、周りの谷にまで病をばら撒いたら、被害が何倍にも膨らみます」
リベラゴールが、続きを促すように目を向けてくる。
「この谷では――」
指を折る。
「・収穫前に、斑点だらけ、縞だらけの株は“抜き取って焼く”。
もったいないけど、その場に残すと来年の種になります」
「・収穫した稲わらは、他の谷に絶対に持ち出さない。
藁葺きも敷き藁も、この谷の中だけで使う」
「・田や畦を歩いた足、鎌や鍬は、他の谷に移動する前に必ず洗う。
できれば灰か熱湯で、一度“区切り”をつける」
村人たちの顔が、重くなる。
「……収量は、落ちますな」
弟の農夫が、しぼり出すように言った。
「落ちます」
俺ははっきり言った。
「来季の種もみも、“病の少ない株だけ”から採る。だから種の量も減る。
この谷は二、三季かけて、ゆっくり“病に強い田”に作り直す覚悟が要ります」
「二、三季……」
呻く声があちこちから漏れた。
そこで、クローディアが口を開く。
「代わりに――」
全員の視線が集まる。
「この谷は、“帝国の倉から飯を引き出す権利”を得ることになりますわ」
俺は思わずクローディアのほうを見る。
目が合うと、“分かっているでしょう?”と言いたげに微笑んだ。
「……さきほど、ツチダと話しましたの」
クローディアは村人たちへ向き直る。
「この防波堤策を取れば、イースタシアの収穫は確実に少なくなります。
瘴気でやられたぶんだけでなく、“わざと壊す”ぶんもある」
その言い回しに、村長が目を伏せた。
「ですが――」
クローディアの声が少し強くなる。
「瘴気の病をこの谷で食い止めれば、隣の谷、そのまた隣の谷は傷を浅く済ませられる」
「イースタシア全体から見れば、“痛みを分け合う犠牲”ではなく、
“立ち直るための選択”ですわ」
リベラゴールが静かに補足する。
「我ら月兎族の言葉で言えば、“静寂のための一歩”だな」
俺は一歩前へ出る。
「だからこそ――俺から皇帝と宰相に、“条件”を出します」
「条件?」
村長が顔を上げた。
「イースタシアがこの防波堤策を受け入れてくれるなら、帝国は“瘴気の年のあいだ、穀物と豆の援助を行うこと”」
今度はイースタシア側がざわつく。
「援助……?」
「はい。内乱が終わった帝国は、今、小麦の収穫が回復してきています。
各地の倉庫には、二、三年分の最低備蓄を作る計画がある。けど――」
俺は肩をすくめた。
「俺の目で見る限り、“ちょっと盛りすぎてる倉”もある。
パンを投げあって遊べるくらい、余ってるところも」
「ツチダ、表現」
横からクローディアが小声で咳払いする。
「ともかく。内乱から立ち直るために、帝国は食糧に余裕を持とうとしていた。
その“余裕分”の一部を、今度は“友の飢えを防ぐため”に回せばいい」
リベラゴールが、じっと俺を見た。
「……それを、あなたが提案するのか」
「はい。俺が書いて、クローディア殿が封をして、帝都に送ります。
『ツチダの理でこういう対策を取る。だから帝国も責任を分けろ』って」
クローディアがふっと笑った。
「ディートリヒ兄様も、リヒャルト兄様も――こういう話は嫌いではありませんわ」
「帝国としても、“理で友を助けた”という実績になりますしね」
俺は一つだけ、釘も刺しておく。
「ただし、倉を開けるのは簡単でも――届くまで守るのは簡単じゃない。
だから、護衛と輸送の段取りも最初から組みます」
村長が、杖を握る手に力を込めた。
「……我らは、施しを受けるために生きておるわけではない」
「分かっています」
「だが、海も田も瘴気にやられた。この歳になって、他国の米と麦に頼ることになるとは思わなんだ」
その呟きには、悔しさと、ほんの少しの安堵が混じっていた。
「“ずっと”じゃありません」
俺はゆっくり言う。
「瘴気が薄れ、田と海が持ち直し、湿地も養殖場も“普通に回る”ようになったら――
今度は、イースタシアから帝国へ美味い米と魚を送ってくれればいい」
「……月見握りと、味噌汁も、か?」
村長の口元が、わずかに緩む。
「もちろんです」
即答した。
「帝国の倉から小麦と豆を出す。
こっちからは、静寂と理と、美味い飯を返してもらう。
それで帳尻は合います」
「“美味い飯”を理と並べるの、やめませんこと?」
横でクローディアがこっそり呟く。
「俺の中では同じ重さなんですよ」
場に、ようやく少し笑いが戻ったところで、俺は板の別の部分を指した。
「で――ごま葉枯れっぽい田と、縞のひどい田の対策です」
テーラたちが、真剣な顔に戻る。
「ここは、“諦めない谷”です。防波堤の谷みたいに全体を壊すのではなく、
“病を切り取って守る”やり方を取ります」
指を折る。
「・畦ごとに、“病の強い区画”を決める。そこから外へは、稲も藁も持ち出さない」
「・軽い症状の田は、収穫まで持っていく。
ただし、その田のわらは“堆肥にしてから”畑に戻す。生のまま敷き藁にはしない」
「・種もみは、“一番症状の少ない田”だけから採る。今年は量より質」
俺は板の端、まだ色が薄い部分を指で叩く。
「ここが残れば、来季の種が残る。ゼロじゃない。――ゼロにしない」
クローディアが頷く。
「足りない分の種は、帝国から“元気な大麦と米”を持ってきますわ。
ツチダの目で選んだ品種を、こちらの気候に合わせて試す良い機会にもなりますし」
「あと、縞の田――ウンカが媒介している“見えない病”について」
農民たちの視線が、一斉に集まる。
「・ウンカが多い谷では、“早播きの田”と“遅播きの田”を作って、被害の少ない時期を探る」
「・収穫後の田は、できるだけ早く乾かして、“ウンカの越冬場所”を減らす」
「・縞のひどい田の稲株は、翌年“田ではなく畑”にすき込む。水田に戻さない」
弟の農夫が、真剣な顔で頷いた。
「忙しい年になりそうだ」
「忙しいです」
俺も笑う。
「でも――忙しいってことは、“できることがある”ってことですから」
話し合いの最後、リベラゴールが一歩前に出た。
「ツチダ。あなたの言う“瘴気で変わった病”が、人にも何かをもたらす可能性は?」
集会小屋の空気が、少し張り詰める。
「今のところ、強い証拠は見てません」
俺は正直に答えた。
「田に入っている農民の方々の熱や咳の出方を見ても、“瘴気自体の悪さ”の範囲を出ていない。
ただ――瘴気の濃い田で、手足の傷をそのままにしておくのは危ないです」
「傷?」
「泥の中の菌と瘴気が一緒に入ると、傷口の“治りが悪くなる”可能性があります。
田に入るときはできるだけ足を守ってください。
傷ができたら、よく洗って、早めに薬草や月の術者に見せる」
イースタシアの術者が大きく頷いた。
「その注意なら、すぐに触れを出せます。
病そのものより、“傷口を甘く見るな”という形で」
「お願いします」
俺は深く頭を下げた。
「瘴気に変えられた菌や“見えない病”が、いつ人のほうを振り向くかは分からない。
だからこそ、“今見えている範囲”で最大限の防波堤を作る」
クローディアが、静かに言葉を継いだ。
「そしてその防波堤を、イースタシアだけに押し付けない。
帝国も、倉と理とをもって、一緒に支える」
リベラゴールが胸に拳を当てる。
「月の国は、それを受ける。静寂と理の盟約として」
集会が終わり、人々が三々五々小屋を出ていく。
最後に残ったのは、俺とクローディアだけだった。
「……本当に、いいんですの?」
クローディアがぽつりと言う。
「東の瘴気にまで、帝国の倉を開けて」
「いいんですよ」
俺は窓の外、霧灰の空を見上げた。
「内乱の時、“理の名のもとに”ずいぶん血を流した帝国が、
今度は“理の名のもとに”、友邦へ飯を送る番です」
「兄様たちが聞いたら、泣いて喜びそうな台詞ですわね」
「泣く前に、ちゃんと数字を見せますよ。
どの谷にどれだけ穀物を送れば、どのくらい瘴気の年を凌げるか。
帝国の備蓄が、どこまで減るか」
クローディアは、ふっと微笑んだ。
「理の国の人間は、“数字で泣く”。ちゃんと泣かせてあげましょう」
俺も笑う。
「この谷の黒い斑点や縞が、来年、再来年と“数字で減っていく”のを見られたら――
多分、俺も泣きます」
窓の外では、霧の向こうにうっすらと月が見え始めていた。
瘴気で歪んだ病と、変わるかもしれない菌と“見えない病”。
それらを、焼き、切り、隔て、記録し、そして――帝国とイースタシアの倉を繋いで、凌いでいく。
まだ先は長い。
でも、“長くていい”と、このときの俺は素直に思っていた。
そしてその夜から、俺は帝都宛ての報告書と、イースタシアとの連名で出す食糧援助の要請書簡の草案を書き始めた。
“瘴気の年”を、数字と理と飯で乗り切るための、最初の一枚として。
――ただ、その紙の上の数字は。
西の山から届く炎の速さで、すぐに塗り替えられることになる。




