税と飢えと、理のほころび
播種から数日後。
雪雲の底が、指先でなぞれるほど低く垂れ込めていた。風も、昨日までの柔らかさを失い、肌を刺す冷たさを帯びている。
畑の見回りを終えたツチダは、鍬を柵に立てかけて、村長の家へ向かった。
屋根から下がるつららはまだ細いが、足もとは霜で白く縁取られている。
村長の家の戸を開けると、囲炉裏の煙と薬草茶の香りが迎えてくれた。
土間には、村長のほかに数人の男たちが座っていた。みな、痩せた頬とひび割れた手をしている。
「おう、ツチダ殿。寒かったろう、こっちへ」
村長が手招きし、囲炉裏のそばに座らせる。
湯気の立つ木椀を渡され、ツチダは両手で包むように受け取った。
「ありがとうございます」
口をつけると、薄いが温かい。干した草の苦味が、かえって心を落ち着かせた。
しばらく、薪のはぜる音だけが続いた。
話題を切り出したのは村長だった。
「……ツチダ殿も、この国のことを少しは知っておいた方がよかろう」
そう前置きしてから、ゆっくりと語り始めた。
この国――アーネンエルベ帝国は、理と法を重んじる大国だという。
理に基づいた法を整え、血筋ではなく能力で役職が与えられる。少なくとも、建前ではそうなっている。
だが今は、西の山脈を挟んだ向こう側。
神聖黄金国との国境で、小競り合いが続いているらしい。
「表向きは『聖地をめぐる宗教問題』とやらじゃがな」
村長は苦く笑った。
「実際は、貧しい民から若い者を集め、年貢を兵糧としてかき集める戦争よ」
囲炉裏の向こうで、若者の一人がうつむいた。
袖から覗いた手首は細く、骨ばっている。
「この辺りはまだ戦場から遠いがな」
村長は続ける。
「西部の軍に麦を納めるため、年貢が増えた。昔は五公五民だったが、今は七公三民じゃ」
「七公三民……」
ツチダは思わず呟き、息を吐いた。
――五公五民でも楽じゃないのに。
七割持っていかれて、残り三割で来年の種と家族の食い扶持を賄えって?
頭の中で、自然と収穫量の計算が始まる。
この土の力、この気候、品種も分からない麦。
順調にいっても、腹いっぱい食える年はそう多くないはずだ。
「しかも、この土地を治める伯爵様が、また欲深くてな」
村長の声が低くなる。
「名はマクシミリアン=エルンスト・フォン・アルベルスベルク。都の生まれで、皇族筋の分家じゃ。豆や牛、馬にまで税をかけよる」
村長の言葉に、ツチダは思わず顔を上げる。
「家畜にまで……?」
「そうよ。収穫が少なければ、税のために牛を売る。牛を売れば、畑を耕す力がなくなる。そうなれば、来年の収穫はもっと減る。それでも、年貢は減らん。……まったく、理の国とは名ばかりじゃ」
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。
火花が一つ跳ねて、黒く煤けた鍋に弾かれる。
ツチダは木椀の茶を見つめた。
湯気の向こうに、畑で汗を流す村人たちの顔が浮かぶ。
播いた麦も、掘り返した土も、その多くが「税」という名で奪われていく。
「……ひどい話ですね」
口から出た声は、自分でも驚くほど低かった。
怒りというより、胸の中の何かが静かに軋むような感覚。
農を愛する者にとって、収穫を奪われることは、命を削られるのと同じだ。
初めてトラクターを買った日。
祖父と一緒に、霜の降りた畑を歩いた朝。
そうした記憶が、唐突に胸の奥から湧き上がる。
――あのときだって、楽じゃなかった。
燃料代、機械のローン、税金。
けれど、作れば作っただけ、自分たちの飯になった。
ここは違う。どれだけ工夫しても、実りは「理」とやらの名のもとに持っていかれる。
村長は小さく頷いた。
「じゃが、帝国法に逆らえば罪人じゃ。伯爵様に楯突いた村は、兵に焼かれたと聞く。それに、さっきも言うたように、あのお方は皇族筋。誰も口出しできん」
若者の一人が、悔しそうに拳を握りしめた。
その指の間には、乾いたひび割れが走っている。
「去年の凍裂季には、隣村で餓死者が出たそうです」
別の男がぽつりと付け加えた。
「それでも年貢だけは、きっちり取り立てに来ましたよ。子どもが痩せていようが、家に穀物がひと粒も残っていまいが、関係ない」
ツチダは唇を噛んだ。
“理”を重んじる国が、理を見失っている。
それが、この世界の現実なのだ。
――これで「理の国」ね。
そんな皮肉が脳裏をよぎる自分に、少し驚いた。
「ツチダ殿?」
黙り込んだ彼を心配したのか、村長が覗き込むように声をかける。
ツチダは木椀を置き、ゆっくりと立ち上がった。
戸口の方へ歩き、外の空を見やる。
灰色の雲の下、整えたばかりの自分の畑が見えた。
薄い雪に縁取られた黒い土の下で、小さな命の粒が眠っている。
「……だからこそ、育てなきゃな」
思わず漏れた独り言に、村長が首をかしげる。
「なにを、じゃ?」
ツチダは振り返った。
囲炉裏の火が、その横顔を赤く照らす。
「理ですよ」
少しだけ照れくさそうに笑いながら、言葉を続ける。
「この国が忘れた、“生かす理”を」
村長も若者たちも、しばし黙ったまま彼を見つめた。
その言葉の意味を、すぐに全部理解できたわけではない。
けれど、胸の奥に温かいものが落ちてくる感覚だけは、誰もがはっきり感じていた。
その瞬間、囲炉裏の火が、ふっと強く燃え上がった。
薪が崩れ、火の粉が小さく舞う。
まるで土の奥に眠る命が、その言葉に応えたかのように。
ツチダは、もう一度外を振り返った。
灰色の空の向こうに、見えないはずの青空を思い描く。
――税も、飢えも、一朝一夕にはなくならない。
それでも、土が生き返れば、いつか必ず変わる。
この国の“理”も、少しずつ、ほころびから縫い直せるはずだ。
そう信じてしまうのは、
きっと彼が、どこまでも農家だからだ。




