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農家の異世界奮闘記~理の目と鍬一本で、国を救い、神に挑む~  作者: 今無ヅイ
月の国編

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湖面を脅かす影

 調査団は、月の都からさらに東へと進んでいた。


 谷をいくつも抜け、段畑と水田を見て回りながら、湖沿いの道に出る。


 その湖は、地図で見たときよりもずっと大きかった。


 山々に囲まれた盆地の底に、墨を流したような水面が静かに広がっている。


「この湖から、いくつもの谷へ水が流れている。

 一昨日見た田に流れる水もここが源だ」


 リベラゴールが、湖岸に立って説明する。


「昔は“月鏡つきかがみの湖”と言ってな。

 風のない夜には、湖面に星よりもよく月が映った」


「昔は、ってことは……」


「今はあまり映らない」


 短く付け足された一言に、嫌な予感しかしなかった。

 湖に近づくほど、空気が重くなる。


 湿気のせいだけじゃない。


 胸の中に、うっすらと薄布を被せられたような息苦しさがあった。


 月兎族の学者たちは、早くも額を押さえている。


 一方で人間組――俺や農学者たちは、そこまでの頭痛は感じない。


(……瘴気か)


 湖面を見下ろす。

 水は、驚くほど静かだ。

 波紋ひとつない――ように見える。


 よく目を凝らすと、湖の中央付近だけ、色が違った。


 そこだけ、墨が濃く落ちたような暗さ。


 そして、その暗さの縁から、ゆっくりと螺旋を描くように、薄い黄が混じっている。


「中心部に、瘴気の渦がある」


 リベラゴールが低く告げた。


「何度か術者を連れて浄化を試みたが……

 深すぎて、底まで届かない」


「深すぎる?」


 俺は喉を鳴らし、湖の縁にしゃがみ込んだ。

 岸近くの水を、手桶で掬ってみる。


 表面の水は冷たく、匂いもそこまで酷くない。

 魚の小さな影も、近場にはまだいる。


 だが、桶を少し深く沈めて底の泥をすくうと――


「うっわ……」


 真っ黒なヘドロが、どろりと顔を出した。


 藻、枯れた水草、魚や虫の死骸。


 それらが長い時間をかけて積もり、発酵しきれずに腐りかけたような臭い。


 手桶の水の中で、そのヘドロからぼこっと小さな泡が出る。


 泡が弾けた瞬間、鼻を突くような生臭さと、うっすらした鉄の匂いがした。


「ヘドロに、魔素と瘴気が溜まってる……?」


「ターンオーバー」という単語が、頭をよぎる。


 夏と冬で水温が変わり、

 表の水と底の水がひっくり返る現象。


 底の方の貧酸素水とヘドロが一気に表に上がって、魚が酸欠で浮かぶ――そういう話だった。


(底の水だけじゃなくて、“溜まりすぎた魔素と瘴気”も一緒にひっくり返ろうとしてるのかもしれない)


 湖の中央に目を向ける。


 黒い渦は、さっき見たときよりも濃くなっていた。


 表面は静かなのに、その一点だけ、見えない何かがゆっくりと回転している。


「ツチダ、どうですか」


 背後からクローディアの声。


「俺の言葉で言うと、ターンオーバー、って現象に似てます。湖の底に溜まった悪い水とヘドロが、一気に表に上がろうとしてる」


「悪い水、と瘴気が……一度に?」


「で、多分この湖は深すぎて、長年ずっと“底の層”が入れ替わってない。

 そのぶん、魔素と瘴気も溜まりに溜まって――」


 言いかけたところで、風向きが変わった


 ひゅう、と谷の上から冷たい風が吹き下ろす。


 その風が、湖の中央に向かって滑り込むのが、目に見えるようだった。


 次の瞬間。

 黒い渦が、ぞくりと震えた。


 水面が、凹む。


 まるで、湖の中心に見えない穴が開いたように。

 そこに、周囲の水が一気に引き込まれていく。


「……っなんだこれ」


 農学者の一人が悲鳴に近い声を上げた。


 渦は、みるみるうちに大きくなる。


 黒に黄色が混じり、それがぐるぐるとかき混ぜられて、どす黒い“何か”に変わっていく。


 湖の底から――何かが、上がってきていた。


 ぶくぶくと巨大な泡が立ち上り、やがてそれはひとつの塊にまとまっていく。


 濃縮されたヘドロ。腐った藻。溶けきらない魚の骨。


 その全部に、魔素と瘴気が巻き付いて、形を与えられたみたいに。


 渦の中心から、それは顔を出した。

 最初に見えたのは、ぬらりと光る黒い“腕”だった。

 湖面を破り、泥と水を滴らせながら伸びてくる。


 二本、三本、四本。


 腕とも触手ともつかないそれが、湖岸のほうへずるりと伸びた。


 やがて、渦の中から、胴体らしき巨大な塊がせり上がる。


 人の形を真似たようで、しかし決して人ではない。

 頭にあたる部分には、ぽっかりと空いた穴がふたつ。

 そこから、淡く黄色い光が漏れている。


 ヘドロと水と魔素と瘴気が、ひとかたまりの“生き物”になっていた。


「……生命が宿ってる…!?」


 誰に言うでもなく、俺は呟いた。

 リベラゴールが、一歩前に出る。


「学者たちは下がれ!戦士たち、前へ!」


 号令に、農学者や魔術研究者たちが慌てて丘の上へ退く。


 騎士たちが盾と槍を構えて前に出る。


 クローディアは、腰の剣に手をかけた。


「リベラゴール。

 あれは斬っていいのですわね?」


「構わない。

 魔素で形を保っているだけだ。核を断てば、崩れる」


 リベラゴールが背中の両刃剣を構えると、ぼう、と銀色の魔力が刃をなぞり、包み込む。


 ヘドロの怪物が、低く、どろりと唸る。


 声というより、湖全体が鳴っている感じだ。


 次の瞬間。腕の一本が鞭のようにしなり、薙ぎ払われた。


「来る!」


 クローディアが叫ぶより早く、騎士たちが盾を前に出す。


 泥と水を纏った腕が、鉄の盾に叩きつけられた。


 鈍い音とともに、騎士たちの列が一歩、二歩と後ろへ押し返される。


 盾に当たった部分が、じゅう、と音を立てて煙を上げた。


「酸だ!」


 騎士のひとりが慌てて盾を捨てた。

 鉄の表面が、目に見えてどろどろに溶けていく。


(ヘドロの中の腐敗成分+魔素による変質……

 こいつ自体が“移動する腐った湖底”みたいなもんだ)


「クローディア!」


 リベラゴールが、素早く手を掲げた。


月登陣げつとうじん!」


 彼女の足元に、淡い光の輪が走る。


 そこから立ち上がるようにして、半透明の盾がいくつも生まれた。


 月光を凝縮したような、薄い板。


 ヘドロの腕がそれを打つたびに、盾は波紋を広げるが、土や鉄のように溶けはしない。


「今だ!」


 リベラゴールが、盾を斜めに展開する。

 まるで階段のように。


 クローディアは、一瞬だけ笑って、地を蹴った。


 月光の盾を次々と踏み台にして駆け上がる。

 その身の周りには、青と銀の魔力が風のように渦を巻いていた。


 クローディアが振るう剣を追うように、同じ軌跡を魔力の剣が7本展開された。


「――七剣閃風!」


 青い剣閃が、ヘドロの怪物の腕を一太刀で断ち切った。


 切り落とされた部分は、空中で一瞬もがき、それから水と泥に戻って湖に落ちる。


 だが、怪物本体は怯まない。


 どろり、と頭を傾け、黄色く光る穴――目らしきものを、クローディアに向けた。


 直後。

 その口らしき穴から、黒い水が弾丸のように吐き出された。


「クローディア!気をつけろ!」

 思わず叫ぶ。


 彼女は身を捻ってかわしたが、かすめた外套の裾が、じゅっ、と音を立てて焦げた。


 着地と同時に、クローディアは眉をひそめる。


「これは……長く浴びると、まずいですわね」


「瘴気が濃すぎる。

 魔力で受け止めれば、術者の心が侵される」


 リベラゴールが、月登陣の盾をもう一枚展開した。


 黒い水弾がそれに当たり、悲鳴のような音を立てて弾ける。


 盾の表面に黒い染みが広がるが、すぐに光がそれを押し返した。


「ツチダ!」


 クローディアが振り返る。


「核がどこか見える!?」


「なるほど了解!今見る!」


 俺は湖面の怪物を凝視した。


 ヘドロの塊の中に、色素の流れを探る。


 黒と茶色の中に、赤、緑、青の魔素の筋が複雑に絡んでいる。


 渦の中心には――


(黄色い……?)


 怪物の胸のあたり。

 そこだけ、他よりも濃い黄色が渦を巻いていた。


 まるで、瘴気そのものが固まって、核になっているみたいに。


「胸の真ん中! 他より濃いところがある!

 そこが多分、魔素と瘴気の芯だ!」


「胸中央……了解ですわ!」


 クローディアが頷き、再び前へ出る。


 リベラゴールが、その前に立った。


「私が道を作る」


「頼りにしてますわ、月兎の戦士殿」


 短い言葉を交わし、二人は同時に走り出した。


 ヘドロの怪物が、再び複数の腕を振るう。


 一本はリベラゴールへ。

 一本はクローディアへ。

 一本は、まだ下がりきれていない騎士たちの列へ。


「月登陣――重音かさね!」


 リベラゴールが足を踏み鳴らす。

 彼女の前に、半月型の盾が二枚、重なって出現した。

 ヘドロの腕がそれを打つたび、衝撃が空気を震わせる。


 だが、盾は割れない。


 月光の板はしなるようにして衝撃を受け、湖の方へ力を逃がしている。


 クローディアは、その陰を一気に駆け抜けた。


 泥と瘴気の飛沫を、紙一重でかわしながら、怪物の懐へ飛び込む。


「――っ!」


 青い魔力が剣に集中する。

 彼女の周囲の空気が、一瞬静まり返った。


 次の瞬間、クローディアは、胸の黄色い渦へ向かって剣を振り下ろした。


 実体の刃と魔力の剣が重なり、一筋の蒼光となる。


 音は、ほとんどなかった。

 ただ、何かが“切り離された”感触だけが、谷全体に伝わった。


 ヘドロの怪物が、止まった。


 胸の黄色い渦が、二つに割れている。そこから、瘴気が一気に吹き出した。


 悲鳴にも似た風の音。


 黄色い霧が空中に散り、月兎の学者たちが思わず耳を塞ぐ。


 だが、核を失った塊は、もう形を保てない。


 腕が崩れ、胴体が崩れ、やがてただの黒い水と泥に戻って、湖へと沈んでいった。


 風が変わった。

 さっきまで胸を押さえつけていたような重さが、少しだけ軽くなる。


 湖の中央にあった黒い渦は、まだ完全には消えていないが――さっきほどの圧はない。


「ふう……」

 クローディアが息を吐き、剣を鞘に収める。


 外套の裾にところどころ泥が跳ねている。


 それでも、立ち姿は崩れていない。


 リベラゴールも、月登陣の盾を解き、双刃刀を背中に戻した。


「見事だ、クローディア。

 理の国の剣は、よく斬れる」


「月の国の盾が、よく守ってくれたおかげですわ」


 二人が短く笑い合う。


 その様子を、俺はへたり込みそうな膝をなんとか支えながら見ていた。


  (うん、俺は前線向きじゃないな)


 心の中でぼやきながらも、さっき見えた黄色い核の残像が、頭から離れなかった。


 湖の底に溜まった瘴気と魔素が、ヘドロに宿り、生命の形を取る――。


 それは、ただの“自然現象”とは呼びたくないものだった。


 けれど同時に、湖のターンオーバーと同じように、

「溜め込みすぎたものが、形を変えて噴き出した結果」にも見える。


(東の海も、こんなふうに“溜め込みすぎてる”んだとしたら……)


 湖面に映る月は、まだ少し歪んでいる。


 その揺らぎが、これから起こるかもしれない“もっと大きな渦”の前触れに思えて、俺は無意識に拳を握りしめていた。

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