湯気の向こうの「ただいま」
瘴気の田と、ウンカだらけの田を一日かけて回ったその夜。
月が谷の端に顔を出す頃、俺たちはテーラさん――さっき最初に案内してくれた年配農夫の家に招かれていた。
「粗末なものしか出せんが……」
テーラがそう言って、ちゃぶ台……と呼んでいいのか分からない低い卓の前に座らせてくれる。
床は葦を編んだ敷物。壁は白く塗られていて、天井からは乾かし中の薬草が吊るされていた。
粗末、なんて言葉は、このあと数秒で嘘になる。
奥のほうから、湯気をまとった木の台が運ばれてきた。
その上に――山があった。白い山だ。
いや、正確には、白い三角形が、整然と並んだ丘陵地帯が、そこに存在していた。
「……っ」
息が、喉で止まった。
月の光をそのまま固めたみたいな、白い粒の集合体。
ふっくらとして、角はやや丸くて、手に取ったらほろっと崩れそうな三角形。
その一つは、海藻を炙った黒い帯で真ん中をくるりと巻かれていた。
「月見握り《つきみにぎり》です。
中に、削り魚と月醬を少し」
テーラの嫁らしい女性が、少し照れくさそうに言う。
おにぎりだ。
どう見ても、おにぎりだ。
白い飯粒が、ちゃんとひとつひとつ立っている。
顔を近づければ、ほんのり甘い蒸し米の匂いと、海藻の磯の香り。
真ん中あたりからは、削った干し魚と月醬の、しょっぱくて香ばしい香りがふわっと上がってきた。
(おかか……!)
前世の名前が、脳内で全力で光った。
目の端が、一瞬で熱くなる。
とどめは、その隣に置かれた木椀だった。
湯気が、月光を白く滲ませている。
そっと顔を近づけると――
藻と魚のだしの匂い。
豆を発酵させた「月味」の、あのじんわりとした塩気と旨味の香り。
刻んだ青菜と、白い豆腐状のかけらが、湯気の合間から顔を覗かせている。
味噌汁だ。完全に、味噌汁だった。さらに、その隣には。
皮にうっすら焼き色のついた干し魚。
背骨に沿って箸を入れれば、ほろりと身がほぐれそうな、大きさと言い焼き加減と言い、完璧な干物の塩焼き。
小さな皿には、茹でたほうれん草っぽい青菜を月醬と月酢で和えたおひたし。
その横には、黄色い四角が規則正しく並んでいた。
ふわふわじゃなく、きゅっと締まった感じの断面。
噛めば多分、じゅわっと甘い出汁が出てくるタイプの――卵焼き。
頭の中で何かがぷつんと切れた。
「……これ、全部、俺も食べていいんですか?」
自分でも声が裏返ってるのが分かる。
テーラの嫁がきょとんとした顔で首をかしげる。
「え、ええ。もちろん。
お客人には、きちんと膳をお出ししないと」
「……ありがとうございます……!」
俺にとっては、世界最高ランクのご馳走だ。
田んぼを見て回って、汗をかいて体がエネルギーを求めているところに、この晩飯。
クローディアが、そんな俺の様子を見てくすっと笑った。
「ツチダ、まるで戦場で初めてまともな飯にありついた兵士みたいな顔をしてますわよ」
「いや、あのですね、これはその……」
言い訳を探して口ごもる俺を、リベラゴールが不思議そうに眺めている。
「月見握りと月味汁。
干魚は、この谷の湖で採れたものだ。
イースタシアではありふれた、夕食だが……
帝国では珍しいだろうか」
「珍しいどころの話じゃないんですよ……!」
思わず力説しそうになるのを、ぐっと飲み込む。
異世界転生してから何年も、パンとスープと肉と野菜の生活だった。
米っぽいのも食べたことはある。粥やリゾットっぽい形で。
でも、こうやって――
白い飯を握って、海藻で巻いて、中におかか的な何かを詰めて。
横に味噌汁と干物とおひたしと卵焼きを並べるなんて、そんな「教科書みたいなごはんセット」、一度もなかったのだ。
テーラが、静かに手を合わせた。
「月に感謝を。
土に敬意を。
今日の客人と明日の穂に」
家族も、それに続いて目を閉じる。
クローディアとリベラゴールも、真似して短く頭を下げた。
俺も、遅れて手を合わせた。
(感謝する。
月にも、土にも、テーラさんちの奥さんにも
世界そのものにも)
願掛けというより、ほとんど賄賂の礼みたいなものだ。
「どうぞ」
促されて、俺は恐る恐る月見握りに手を伸ばした。
手のひらに乗せると、ほどよい重みと、指先に伝わる温かさ。
米粒が潰れない程度に、でも崩れないように、絶妙な力加減で握ってある。
指先についた米を、反射的に舐めそうになるのをぐっとこらえて――角を、ほんの少しかじった。
口の中が、一気に“帰省”した。
米の甘み。
噛めば噛むほど出てくる、でんぷんの優しい味。
真ん中まで歯が届くと、削り魚と月醬の塩気がふわっと広がる。
燻した干魚の香りと、醤の旨味が、米の甘さを引き立てる。
海藻の帯からは、ほんのちょっとだけ磯の香り。
全部まとめて飲み込んだとき、喉の奥が「これだ」と勝手に呟いた。
「……っっっはぁぁぁぁ~~……」
自分でもキモいと思うくらい、変な溜め息が出た。
テーラの嫁が引き気味に目を丸くしている。
「あ、あの……お口に合いませんでした?」
「いや、違う、違うんです。あの、うますぎて……」
慌てて否定しながら、次は木椀に手を伸ばす。
月味汁――味噌汁だ。
湯気をふっと吹いてから、一口。
だし。
だしだ。
藻と干魚で取ったぐっとくる旨味の層。
その上に月味のコクが乗って、青菜の青臭さを優しく包んでいる。
白いかけらは、噛むとふわっと溶ける。
もうこれは、要するに「豆腐」だ。
塩分は控えめで、喉を焼かない。
そのくせ、胃の底まですこんと落ちていくような温かさがある。
「……おっふ……」
思わず、木椀を両手で抱え込んでしまった。
クローディアが、半眼でこちらを見る。
「ツチダ。
あなた、さっきから崩壊してますわよ」
「だってこれ、もう……ああ〜……」
干物にも箸を伸ばす。
皮に軽く焼き目がついた湖魚を一口。
表面はパリッと、中はほろっと。
塩と、魚そのものの旨味。それを、口の中にまだ残っている米と噛み合わせる。
卵焼きは、甘さ控えめで、月醬の風味がうっすらする。
ほうれん草っぽい青菜のおひたしは、シャキシャキした食感に、月酢の酸味。
気づいたら、目頭が熱くなっていた。
「……ツチダ?」
リベラゴールが、心配そうに覗き込む。
「どこか痛むのか」
「いや、その……
なんか、ちょっと、思い出しただけです」
「思い出した?」
言いかけて、口をつぐむ。
元の世界のことを、ここでペラペラ喋るわけにはいかない、が、まったく嘘をつくのも苦手だ。
「――昔、家で食べてた飯に似てまして」
それだけ言うと、テーラの嫁が、ほっとしたように笑った。
「なら、よかった。
月の谷の味が、帝国の人の心にも届いたなら
「届きまくってます。刺さりまくってます」
俺が必死に頷くと、クローディアが卵焼きをつまんで口に運んだ。
「うん、美味しいですわね。
甘くて、月醬の香りがして……お弁当に入っていたら嬉しいタイプですわ」
「お弁当?」
リベラゴールが首をかしげる。
「外で食べる携行食です。
ツチダが昨日語っていた“田の見回りの合間に食べる握り飯”にも、ぴったりですわね」
「それだ……!」
思わず膝を打ちそうになった。
「月見握りと卵焼きと、干魚をちょっと。
それを包んで畦で食べるんですよ。
もうそれだけで、この世界に生まれて良かったってレベルの幸福度ですよ」
「さすがに大げさでは?」
リベラゴールが、じと目になった。
テーラの家族も、少し引き気味に笑っている。
でも、俺の中では本当にそれくらいの事件だった。
ひとしきり騒いだあと、ようやく落ち着いて箸を進める。
テーラが、杯に月酒を注ぎながらぽつりと言った。
「瘴気の年は、歌も、踊りも、飯の味も、ひとつ分くらい薄くなった気がしていた。
客人がこうして“うまい”と言ってくれるなら――
まだ、谷は大丈夫だな」
「大丈夫に、しますよ」
俺は木椀を置いて、まっすぐテーラを見る。
「この飯を、瘴気なんかに潰させません。
来年も、その次も、ここで月見握りと月味汁が食えるように。理と汗で、ちゃんと守ります」
クローディアが、にやりと笑った。
「はあ……。食べ物が絡むときのあなたは、本当に頼もしいですわね」
「食べ物が絡まなくても頼もしいって言ってくれていいんですよ?」
「その評価は、もう少し成果を見てからにいたしますわ」
リベラゴールも、静かに杯を掲げる。
「では、瘴気を祓う理と、田を守る汗と――この谷の飯に」
「乾杯」
杯を軽く合わせる。
月の光が差し込む窓の外では、谷の風が静かに藁屋根を撫でている。
湯気の向こうに漂うのは、米と魚と味噌汁の匂いと――
この世界でも確かに存在する、「ただいま」と言いたくなる味だった。




