理の農家、月の谷を診る
タイトル変えました
女王の宮からさらに半日。ルナリアの都を離れ、東の谷へ下っていくと、山の陰からふっと景色が開けた。
そこに広がっていたのは、一面の水田――の、はずだった。
遠目には、まだ青さが残っている。だが、近づくほどに胸の奥がざわついた。
嫌な色をしている。
「ここが、一番最初に瘴気が降りた田だ」
リベラゴールが足を止めた。
水田の畦に立ち、目の前の稲を見下ろす。
ぱっと見は、普通の葉色の株も混ざっている。
だが、そのあいだに紛れて――黒い斑点を散らした葉が、いくらでもあった。
「……ひどいな」
ツチダは膝をつき、稲の葉を一枚つまみ上げた。
黒褐色の斑点が、楕円形にじわりと広がっている。
中心は黒に近い焦げ茶。その周りを、うすく黄色い輪っかが囲んでいた。
形はバラバラだ。
楕円形もあれば、ゴマ粒みたいな小さなものもある。
「黒褐色で、外側だけ黄色……」
指に乗せて、光に透かす。
葉の裏側にも、同じような斑が出ている。
葉脈に沿って伸びたものもあれば、点々とばら撒かれたようなものもある。
前世で見た病害の図鑑が、勝手に脳裏に浮かんだ。
(葉の黒い斑点に、黄色いハロー。
水田。出穂期。――ごま葉枯病。ほぼ、それだ)
この世界には“ごま葉枯病”なんて言葉はない。
あるのは、ただ「黒い斑点の病」だ。
「どうだ、ツチダ」
後ろからクローディアの声がした。
「瘴気のせいだけで、こうなるものですの?」
「瘴気“だけ”とは言えないですね」
ツチダは立ち上がり、今度は穂を手に取った。
穂軸――真ん中の芯の部分と、そこから出ている枝梗。
ところどころ、褐色から黒褐色に変色している。
指でつまむと、そこだけわずかに柔らかい。
さらに、籾にも同じような斑点が浮かんでいた。
暗褐色の、細長い楕円形。
綺麗な籾と、斑点だらけの籾が、同じ穂に混在している。
「葉、穂軸、枝梗、籾。
全部同じタイプの病斑……黒褐色で、周りが少し黄色い」
ツチダは声に出しながら、頭の中で整理した。
(ごま葉枯病にかなり近いとなると。
あれは田んぼの栄養状態が悪いと出やすくなる病気だった)
カビの一種。
出るかどうかは田んぼのコンディション次第。
栄養不足とか、水管理の失敗とか、種子伝染とか。
教科書には、そんな項目が並んでいた気がする。
「この田の持ち主は?」
ツチダが尋ねると、畦の向こうから一人、年配の月兎族の男が出てきた。
背は低いが、手足はしっかりしていて、長年土に触れてきた体つきだ。
「わたしだ。
曽祖父の代から、ここ一帯で田をやってる。
テーラだ、よろしくな」
「テーラさん。
ここ数年で、田んぼのやり方を変えたところはあります?」
「やり方……?」
「水を抜くタイミング、肥やしの種類、種もみの選び方。
瘴気が来る前と比べて、何か違うことを」
テーラは腕を組んで、しばらく考えた。
「種もみは例年通りだ。
水も、谷川からの導水路を通している。
ただ……」
「ただ?」
「瘴気が来るようになってから、田に入る時間が減った」
意外な答えだった。
「減った?」
「夜の瘴気を浴びると、胸が重くなる。
歌も出なくなる。
だから、夕方以降はあまり田に立たないよう、村で決めたのだ」
ツチダは、はっとした。
(夜の見回りをやめたってことは――
水位の細かい調整や見回りがほとんどできてないってことか)
水田は、水の張り方ひとつで病気の出方が変わる。
浅すぎても深すぎてもダメで、日中と夜で程よく変えてやるのが一番いい。
でも、瘴気が怖くて夜に田んぼに入れないなら、その調整が出来ていない可能性が高い。
「今年の春、肥やしはちゃんと入れました?」
「入れた。
ただ……海のほうからくる藻が減ってな。
昔は、それを乾かして敷いた。今は手に入りづらい」
また一つ、ピースがはまる。
(海藻由来の肥料が減ってる。
ミネラル系の栄養も足りてないはずだ)
ごま葉枯病は、栄養の足りない田ほど出やすい。
瘴気の影響で人が田に入れず、海側からの資材も減っている。
そこに病原菌が入り込めば――こうなる。
「ツチダ」
横からクローディアの声。
「瘴気は関わっていますの?」
「うーん。瘴気自体が直接、稲を腐らせてるわけじゃないと思います」
ツチダは畦の土をすくい、指でつぶした。
水はぬるく、土は少し粘りすぎている。
嫌な匂い――完全な腐敗とまではいかないが、酸欠気味の田でよく嗅ぐにおいがした。
「瘴気=悪い風、悪い空気。
それを浴びると、月兎族のみなさんは田に立てない。
夜の見回りも、水の切り替えも減る。
海からの藻も減って、田んぼの栄養も足りなくなる」
土を指先で転がしながら、続ける。
「そこに、この“黒い斑点を作る奴”がつけ込んだ。
――カビみたいなものが、弱った稲を狙い撃ちしてる」
リベラゴールが、真剣な顔で水田を見下ろした。
「ならば、瘴気を祓うだけでは足りないということか」
「ですね。
瘴気の元をどうにかするのは、女王陛下とここの魔術師たちの領分でしょう。
俺がやれるのは、“瘴気で弱った田んぼ”のほうを立て直すことです」
テーラが、不安そうにこちらを見た。
「立て直せるのか、この田を。
海は遠くなり、夜は怖くなった。
それでも、昔みたいに穂をつけられるのか」
「一季で全部元通り、とはいきません」
ツチダは正直に言った。
「でも――
水の抜き方と張り方を変える。
藁や草をちゃんと返して、土の息を戻す。
海藻の代わりに使えるものを、近くで探す。
種もみも、できるだけ病気の少ない株から採る」
ひとつひとつ、指を折って見せる。
「そういう積み重ねをすれば、“黒い斑点だらけの田んぼ”から
“たまに斑点が出る程度の田んぼ”くらいには戻せる。
そこまでいけば、あとはこっちのものです」
テーラは、深く息を吐いた。
「理の国は、大変だな」
「大変ですよ。
祈ってもいいし、歌ってもいいですけど、そのあと結局、手も動かさないといけませんから」
自分で言って、少し笑ってしまった。
クローディアも肩をすくめる。
「でも、それが好きなのでしょう?ツチダ」
「まあ、そうですね。
斑点まみれの葉っぱが、来年ちょっとだけマシになってるのを見るの、わりと快感なんで」
リベラゴールが、静かに頷いた。
「では、まずはこの田から始めよう。
瘴気の話は、女王と月の術者たちが続ける。
土と水と種の話は、あなたと、この谷の農民たちとで」
「お願いします」
ツチダは畦から立ち上がり、ぐっと背筋を伸ばした。
黒褐色の斑点と、黄色い縁取り。
それは、ただの病害の印であると同時に――
この世界の“悪い風”と“弱った土”が手を組んだ結果でもある。
(ごま葉枯病。
……ここでまた会うとはな)
名前を知っているなら、対処の糸口も見える。
瘴気と、土と、稲と、人の暮らし。
全部ひっくるめて相手をしなきゃならないが――
農家として、こういうほうが燃えるのも事実だった。
◇◇◇
ごま葉枯れまみれの田をあとにして、谷を一つ越えた。
次の水田は、一見さっきよりマシに見えた。
葉の色もまだ青い株が多いし、黒い斑点もそこまで目立たない。
――近づくまでは、そう思っていた。
「……音がするな」
畦に足を踏み入れた瞬間、ツチダは眉をひそめた。
ざわ、と風でもないのに葉が揺れる。
耳にかすかな「チチッ」「カサカサ」という音。
足元の稲をかき分けると、茶色い小さな虫が、一斉に飛び跳ねた。
葉から葉へ、茎から茎へ、跳ねて、また止まる。
目が慣れてくると、田一面が細かい影で覆われているのが分かった。
「……ウンカか」
思わず、日本語が口から出た。
「ウンカ?」
クローディアが首をかしげる。
「稲の汁を吸う小さい虫です。
見た目は大したことなくても、数が揃うととんでもない厄介者になる」
手でそっと稲の葉を包み込むと、指のあいだから何匹も小さな虫が飛び出した。
胴は細く、翅は半透明。
この世界でも、見た目はほぼ同じだ。
リベラゴールが、虫の群れを見て顔をしかめる。
「この谷では、今年の萌緑季から急にこいつらが増えた。
“跳ね霧”と呼ぶ者もいる。
瘴気の出た年は、決まって虫も狂う」
「葉の具合は?」
ツチダは、別の株の葉を一枚引き寄せた。
さっきの田とは違う。
黒い斑点ではなく――
葉の縦に沿って、黄白色の筋が何本も走っていた。
細い縞模様。
緑と黄がまだらに混ざり、ところどころ葉先が枯れ込んでいる。
「……縞葉枯れ、っぽいな」
(葉に縦縞。黄白色の筋。
株も、ちょっと背が低い。
縞葉枯病に近い)
普通のカビや菌なら、斑点や腐敗が出る。
でもこういう“縦縞”系は、大抵ウイルスだった。
そして――ウンカが媒介する。
「テーラさん、この田の持ち主は?」
「ここは、私の弟の田だ」
さっきの年配の農夫が、一歩前に出た。
「さっきの田より、見た目はまだましだろう?
黒い斑点も少ない。だが……今年は穂が短い。
背も伸び悩んで、風に揺れない稲が多い」
言われてみれば、確かに株全体がどこか縮こまっている。
生気が薄い、というか。
(ウンカの吸汁による被害+縞葉枯ウイルス。
ダブルパンチ食らって、成長そのものが止まってるな)
クローディアが、縞模様の葉をじっと見つめる。
「黒い斑点とも違う……毒でも塗られたみたいですわね」
「毒みたいなもんですよ」
ツチダは、葉をそっと戻した。
「さっきの田の病気は、“土と水が弱ったところにカビがつけ込んだ”感じでしたけど……
こっちは、“虫が運んできた見えない病”ってタイプです」
「病?」
リベラゴールが眉を寄せる。
「はい。
この虫――ウンカは、稲の汁を吸うだけじゃなくて
“見えない病原”を口に持ってる可能性が高いです」
「見えない、とは」
「目で見えないくらい小さい。
魔力でも感じられないかもしれない。
でも、確かに稲の中に入り込んで、葉の色や成長をおかしくする」
前世なら「ウイルスです」で終わる話だ。
この世界にはそんな単語はない。
だから、“細かすぎて見えない病”とでも言うしかない。
「瘴気と、関係はあるのですの?」
クローディアの質問に、ツチダは空を見た。
谷を渡る風が、海のほうから吹いてくる。
「ウンカって虫は、風に乗って大移動するタイプです。
海のほうで増えすぎると、風に押し流されるみたいにして、内陸にわーっと飛んでくる」
「……瘴気と同じ方向から、ですわね」
「ええ。
瘴気そのものがウンカを生んでるわけじゃないと思いますけど、
海や沿岸の環境が変わって、“ウンカが増えやすい条件”が揃ったんじゃないかと」
前世でも、気温や気流の変化でウンカの飛来量が増えた年は、縞葉枯病の流行もセットで来た。
ここでも、似たような構図になっていてもおかしくない。
「この田では、夜、虫除けの灯りとか、何か対策してます?」
弟のほうの農夫が出てきて答えた。
「火を焚いたり、香草を焚いたりはした。
だが、瘴気の年は、火の周りにもこいつらが平気な顔で止まる。
夜に長く外にいると、こちらのほうが先に参ってしまう」
「だよなあ……」
瘴気がある限り、夜間の田の見回りはどうしても制限される。
その間に、ウンカたちは好き放題汁を吸い、稲に“見えない病”をばらまいていく。
「ツチダ、これも“理でどうにかする”んですの?」
クローディアが、半分呆れたように、半分期待込めて尋ねる。
「やるしかないでしょう」
ツチダは、ウンカの群れを睨んだ。
「成虫を全部叩き落とすのは、正直もう遅いです。
こうなってから騒いでも、今年の分の被害はある程度覚悟しないといけない」
農民たちの顔に、暗い影が差す。
続けざまに希望を与えられるほど、世界は甘くない。
でも、全部諦めろと言うつもりもない。
「ただ、次の季に向けて、やれることはある」
「例えば?」
リベラゴールが目で促す。
「まず、ウンカが卵を産みやすい雑草や、古い稲株を、きっちり処理すること。
収穫後、田をそのままにせず、一度しっかり乾かして、“虫の寝床”を残さない」
クローディアがメモを取る手を止めて、顔を上げた。
「それは、帝国の畑でやっている“秋の天地返し”と似ていますわね」
「そう。あれを、こっちの田んぼでも応用する。
あと、播種のタイミングを、ウンカの飛来が少ない時期にずらせるかもしれない」
「時期を、ずらす……?」
「ウンカが一番たくさん飛んでくる季節を見計らって、
その時期にちょうど“柔らかくて美味しい稲の苗”が揃ってないようにするんです。
少し早めに播くか、逆に少し遅らせるか。これは谷ごとに違うはずなので、観察が要りますけど」
ウンカと稲の「タイミングをずらす」のは、前世でも有効な手だった。
ここでも、風と霧のパターンさえ分かれば、似たことはできる。
「それから――」
ツチダは、縞の入った葉と、健康な葉を一本ずつ手に取った。
「こういう“縞だらけの株”からは来年、種を採らない。
できるだけ症状の少ない株を探して、そこから穂を選ぶ。
目で選ぶだけでも、少しずつ“病に強い田”になっていきます」
農民たちは、真剣な顔で聞いていた。
「瘴気そのものは俺にはほぼ見えません。
けど、この虫と、この縞模様は見えます。
“見えるほう”から、順番に手をつけていきましょう」
テーラが、ぽつりと呟いた。
「忙しないな」
「ええ、まあ、そんなもんです。
でも、忙しいってことは――やれることがまだあるってことです」
ツチダは、ウンカの群れの向こうに広がる谷を見渡した。
黒い斑点。
黄白色の縦縞。
跳ねる虫。
海からの瘴気。
全部まとめて、“今年の病害”だ。
(ごま葉枯病みたいなやつと、縞葉枯病みたいなやつ。
ここでは全部“瘴気の年の病”って一括りにされてる)
だったらこっちは、名前なんてどうでもいい。
大事なのは、どこから来て、どう広がって、どこを切れば止まるか――それだけだ。
「リベラゴールさん」
「なんだろう」
「この谷の上流と下流、両方見たいです。
ウンカの多い田と少ない田、縞のひどいところと、まだましなところ。
できるだけ“差”を集めてください」
「分かった
月兎の護衛長は、静かに頷いた。
風がひときわ強く吹き、田の上のウンカたちが、一斉に跳ね上がる。
その先――東の海のほうで、目に見えない“何か”が、じわじわと色を変え始めている気がした。
次は明日の朝7時!




