月の女王との謁見
湖と山のあいだを抜ける街道を、さらに東へ。
やがて、霧の向こうに“白い壁”が見えてきた。
谷を跨ぐように築かれた城壁は、高さこそ帝都ほどではないが、どこまでも滑らかで、
青と白の石が層をなして月光のように淡く光っている。
「……あれが月の都、ルナリアか」
思わず馬車の小窓に額を押しつけてしまい、向かいに座っていた若い農学者にくすりと笑われた。
城門をくぐると、帝都とはまるで違う静けさが、街全体を満たしていた。
人の数は少なくない。
市場もあり、行き交う月兎族たちも確かに生活の音を立てている。
それでも、不思議と耳が痛くならない。
声が自然と抑えられ、足音が石畳に吸い込まれていくような、そんな町だった。
使節団はそのまま、都の中心にある高台へと案内された。
白と青の石で組まれた階段を上ると、半円形の建物が現れる。
柱は細く高く、天井は開いていて、昼の光と夜の月をそのまま受け止める造りだ。
その奥、ひときわ高い場所に一人の女性が座していた。
黒ではなく、夜明け前の空のような濃い青の衣。
銀糸で刺繍された月と波の紋。
長い耳の先には、細い銀の飾りが揺れている。
ルナーリア・イースタシア一〇二世。
イースタシア月王国の女王にして、「月の母の名」を受け継ぐ者。
……と、事前に読んだ資料には書いてあったが、実物は文字よりずっと“軽い”存在感だった。
威圧感ではなく、重力が少し違う場所にいるような、そんな感じだ。
見た目だけでいえば少女に見えるのに、荘厳さが違う。
クローディアが一歩前に出て、胸に拳を当てる。
「帝国近衛騎士団長、クローディア・フォン・アーネンエルベです。
このたびは、わたくしどもをお招きいただき、心より感謝いたします」
女王は静かに頷き、その視線をツチダへ向けた。
「こちらこそ、皇女殿下自らのご足労に、感謝を。
……そなたが帝国の土を読む者。理の農家。――そうだな?」
いきなり目が合って、反射的に背筋が伸びた。
「は、はい。ええと、帝国農政顧問のツチダです。
土限定ですが理で物を見る係をやってます」
変な自己紹介になった気がする。
だが女王は気にした様子もなく、じっとこちらの顔を見つめてきた。
少なくとも数秒。
……女性から、ここまで真正面から見つめられる経験はあまりない。
「……面白い目だ」
ぽつりと漏れたその一言に、俺は思わず瞬きをした。
「面白い、ですか?」
「こちらに来る途中、湖の水面を見ただろう」
「ああ、はい。とても綺麗な場所でした」
「あなたの目には、“水面”と“その下”が同時に映っている。
表の波と、底を流れる色の筋とを、一緒に追っている目」
色――この世界でいう赤・緑・青の三色素のことだろう。
ツチダは無意識に、女王の視線を避けたくなった。
この世界の人たちは、理や魔素を“感覚で”捉える。
自分は、言葉と数式と図で“考えて”捉える。
「……農家の癖みたいなもんですよ。
土の表面だけ見てると、たいてい痛い目を見るんで」
「癖で、その目なら、良い癖だ」
女王はふっと笑い、それからクローディアのほうへ目を向けた。
「そして、クローディアどの。あなたの内を巡る魔力は――理をもって循環している。
人の身にしては、とても整っている。美しい」
クローディアがわずかに目を見開いた。
「魔力回路が、見て分かるのですか?」
「月兎族は、魔素の流れを見る。
あなたの身体のまわりには、青と銀の輪がある。
戦うための炎ではなく、“剣で納めるための風”のような理だ」
クローディアは一瞬言葉を失い、それから小さく頭を下げた。
「過分なお言葉ですわ、女王陛下。
帝国の剣として、恥じぬよう努めます」
横から見ていると、少し不思議な光景だった。
魔力を持たないはずの人間が、女王の目には“青と銀の輪”として見えている。
自分の目には、そんな光は見えない。
逆に、女王の目には“色素の流れ”がぼんやり見えているらしい。
世界の見え方は、やっぱり人それぞれだ。
◇
形式的な挨拶が終わると、空気が少し和らいだ。
「では、本題に入ろうか」
ルナーリア女王の声が、白い天井に柔らかく響く。
「すでに書簡を通じてお伝えしている通り……
我が国は今、“東の海からの息”に悩まされている」
「瘴気、というやつですね」
ツチダが返事をすると、女王は頷いた。
「瘴気――ミアズマ。
古くから、疫病や心の病を広げる“悪い風”“悪い空気”とされてきたものだ」
玉座の背後、白石の壁には、淡い銀色で彫られた古い浮き彫りがあった。
一本の大樹と、その根元から伸びる「五本の指」。
帝都の書庫で、図版だけ眺めて満足した神話解説書に、こういう表が載っていた。
親指――創造の指。人間族。理性と手業。
人差し指――秩序の指。銀狼族。誓いと律。
中指――勇の指。金猫族。力と繁栄。
薬指――感応の指。日鴉族。信仰と予見。
小指――調和の指。月兎族。感情と魔力の循環。
……たぶん、あれだ。
「古い歌では、こうも語られている」
女王は、壁画に一瞬だけ視線を滑らせた。
月の光のような声が、静かに紡ぐ。
「五つの指が裂けたとき、
追いやられた四つ指の嘆きが
東の果ての海に落ちた。
その涙と怒りが混ざり合った場所より
ときおり“悲しい霧”が立ちのぼる――と」
月兎族は、小指――調和の指に連なる種族だ、という神話を思い出す。
世界の悲鳴や歪みを、一番最初に“感じてしまう”役目を負わされた指、だそうだ。
俺は思わず、壁画の小指のほうを見た。
「もちろん、それは神話にすぎない。
だが……」
ルナーリア女王は、静かに続ける。
「我ら小指の民は、世界の“悲しみ”には敏い。
魔素が歪むとき、その最初のきしみを、心と耳で聞いてしまう。
今回の瘴気もまた、その一つだと感じている」
女王は片手を上げ、横に控えていた書記が一枚の板地図を前に掲げた。
「今年のタウブルッフの終わりから、東の海面のあちこちで、黒く光る霧が立ち上るようになった。
夜には淡く“黄”を帯び、波の上を這う」
黄色。どの色元素にも属さないはずの色だ。
混ぜても作れない。
「それは、やがて風に乗り、川と谷を遡った。
瘴気が一夜で畑を枯らすわけではない。
だが、その霧を何度も浴びた田では、稲の葉に黒斑が出て、やがて腐る。
大麦も同じ。豆には、見慣れぬ虫が増えた」
そこまではリベラゴールから聞いた話と一致している。
「我らの知識では
瘴気とは“悲しい”“苦しい”“憎い”などの
負の想いが魔素に宿り、風に混じったものだとされている」
女王は再び、指先だけで壁画の小指を撫でるような仕草をした。
「小指は、本来“調和”と“循環”を司る指だ。
だが調和とは……ときに、他の四つの指が押し込めた感情を引き受けることでもある。
その感情を宿した魔素――それが瘴気」
「負の属性を持った魔素、ってことですか」
「そうだ。
魔力感受性の低い人間にとっては、ほとんど無害。
少し気分が沈む、頭痛がする、その程度で済む。
だが――月兎族にとっては厄介だ」
女王は静かに息を吐いた。
「我らは、魔素をよく通す。
風に含まれた瘴気は、皮膚から、呼吸から、歌からさえ染み込む。
長く浴びれば、心が摩耗し、眠れなくなり、やがて魔素の循環が乱れる」
クローディアが、思わず眉をひそめた。
「魔力が暴走を……?」
「そこまで行く前に、静室に籠って沈黙の療法を行うが、それでも限度がある。
そして何より――田や畑にとっても、瘴気は毒だ。
負の想いを宿した魔素は、根の“息”を重くする」
根の息。
またしても、比喩と物理の中間にある言葉だ。
俺は、自分なりに翻訳する。
(瘴気=負に偏った魔素+何らかの病原体 or 微生物の変質。
月兎族の魔力回路はフィルターが薄いから、そのまま浴びると心身に影響。
作物は、根が呼吸できなくなって腐る、と)
女王は続ける。
「帝国の人間たちには、見えぬし、匂いもしないかもしれない。
だが、我らには見える。
夜の海が、少しずつ“悲しい色”に染まり始めているのが」
悲しい、という表現は、科学者としてはあやふやすぎる。
だが、農家としてはなんとなく分かる。
時々、田んぼや畑に立ったとき、「今日は機嫌が悪いな」としか言いようのない日がある。
それを言葉にしろ、と言われても難しい。
「……状況は分かりました」
俺は一つ深呼吸して、女王に向き直った。
「ただ、瘴気そのものの正体は、現場を見ないとなんとも言えません。
風の流れ、土の質、水の温度、作物の品種――全部まとめて見ないと、答えは出ないです」
「そのために、理の農家をお呼びしたのだ」
女王は、すっと手を前に差し出した。
「ルナーリア・イースタシア一〇二世の名において、
我が国の田と畑、湖と谷を、あなたに預ける。
リベラゴールを案内役としてつけよう。
まずは農村を回り、目と足と舌で確かめてほしい」
預ける――ずいぶんと大きく出たな、と内心思う。
でもまあ、悪くない響きだ。
「分かりました。
帝国農政顧問として、そして一人の農家として。
イースタシアの田んぼと畑を、ちゃんと“診せてもらいます”」
医者と同じ。
いきなり薬を出すんじゃなくて、まず診察からだ。
女王は満足そうに頷くと、横のリベラゴールを見た。
「リベラ。
この者たちを、月の谷へ。
瘴気が最初に降りた田から、順に案内してやりなさい」
「はっ」
リベラゴールは胸に掌を当て、短く頭を下げた。
月の都の静かな回廊を抜け、外に出る。
白い石畳に、柔らかい陽の光が落ちていた。
リベラゴールが、こちらを振り返る。
「まずは東の谷だ。
瘴気が歌を始めた田へ行こう」
「“歌”という表現が怖いと思ったのは初めてですね……」
俺がぼやくと、クローディアが小さく笑った。
「帝国が“神なき理と法の国”なら――
この国は“静かに歌う理の国”なのかもしれませんわね」
「なら、その歌に理でハモってやりましょうか」
軽口を叩きながらも、胸の内は引き締まっていた。
瘴気――ミアズマ。
負の魔素。悲しい色の海。
何をそんなに悲しむのか。
何がそんなに苦しいのか。
ツチダは、ちゃんと慰めてあげようと決心した。




