東の国からの手紙
皇子誕生から、まだそう日も経っていない。
七日間の麦酒無料開放はさすがに終わったが、帝都アーネンエルベの浮かれ具合は、霧灰季の霧よりもしつこく街に残っていた。
仕事場を帝都全域に持つことになった農政顧問コウヘイ・ツチダは、その余韻を味わう暇もなく走り回っていた。
霧の降る朝は、城外の畑で冬播き小麦の発芽状況を見て。
昼前には、内乱で荒れた村々から届く「土地台帳の書き換え書類」に目を通す。
午後は宰相府から回ってきた「皇子誕生にちなんだ記念植樹計画」の相談だ。
「……記念の森を作るのはいいんだけどさ。育てるのは木だけじゃなくて人もだぞー」
書類の山に突っ込みを入れていると、宰相府付きの若い文官が、控えめに扉を叩いた。
「ツチダ顧問、政庁本館へ至急との事です。宰相閣下から直々に」
「また追加の植樹案とかじゃないよな……?」
「いえ、その、東方より急使が到着したとか」
東方、という単語に、ツチダは眉を上げた。
帝国の東には広い草原の向こうに月兎族の国――イースタシアがある。
名前は知っているが、内乱で手一杯だったこの数年、その名が会議の場に上ることはほとんどなかった。
(国交はあるって聞いてたけど、前の皇帝の時代にほぼ止まってたってリヒャルト殿下が言ってたな)
とりあえず、呼び出し無視という選択肢はない。
ツチダはペンを置き、上着を引っ掛けて政庁へ向かった。
通されたのは、宰相室の隣にある小さな会議室だった。
長机の向こうには三人並んでいる。
帝国皇帝ディートリヒ・フォン・アーネンエルベ。
宰相リヒャルト・フォン・アーネンエルベ。
学芸尚書ナイトハルト・フォン・アーネンエルベ。
この小さい会議室に、帝国の「頭脳」と「舵」が全部ここにあるような安心感があった。
(……盤石って、こういう状態を言うんだろうな)
ついそんなことを思ってしまうくらいには、内乱は遠い出来事になりつつある。
「来たか、ツチダ顧問」
ディートリヒが顎で合図する。
机の上には、一通の封書が置かれていた。淡い銀色の蝋と、三日月をかたどった紋章。
「イースタシア月王国からの親書だ」
皇帝の声は静かだが、どこか楽しそうでもある。
「東からですね。そういえば、西はどうなんでしょうか?」
「グライフェンタール公からの連絡は途絶えていない。
西は今のところ静かだそうだ。霧灰季は両軍とも動きづらいからな」
リヒャルトが淡々と返す。
ナイトハルトが、封書を指先で軽く撫でた。
「前帝の時代、イースタシアとは学術交流も交易もほぼ凍結していた。
“沈黙の国”などと軽んじてね。貴重な書物やイースタシアの生物図鑑の貸し借りが止まったときは、本気で頭を抱えたものだ」
「あの時のナイトハルト兄さまの落胆ぶりといったら、今でも思い出せますわ」
部屋の扉が開き、クローディアが入ってきた。
軍務から抜けてきたのか、いつもの近衛騎士の制服の上に黒い外套を羽織っている。
「よし、揃ったな。では開封する」
リヒャルトが封を切り、手紙を広げる。
中には丁寧な文字で綴られた書状と、病気に罹った麦と稲の図解、それに簡単な観測記録が挟まれている。
「……要約しよう」
宰相は慣れた調子で読み上げる。
「『本年、イースタシア東端の海にて、かつてない瘴気の蔓延を確認。
麦および水田に黒斑と腐敗を伴う病害が発生。
原因不明にして、従来の薬草、薬湯では効果薄。
貴国が理と法を重んじる国となったと聞き及んだ。
農と理に基づく調査と救援を願う』」
瘴気、病害、調査。つまりは「畑が死にかけているから助けてくれ」である。
リヒャルトはさらに一枚紙を持ち上げた。
「そして末尾にこれだ。女王陛下の直筆と思われる一文が添えられている」
宰相は読み上げる前に、ひと呼吸おいた。
「『私は、貴帝を“神なき理の国”と聞き及ぶ。
もし真にその名に値するならば、我らと共に、月下の田を護ってほしい』」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
挑発ではない。だが、試している。
理と法の国を名乗るなら、神頼みではどうにもならない瘴気と病に、理で答えてみせろ――そういう意味だ。
「……ずいぶんと信用されてますね、俺たち」
ツチダがそう言うと、ナイトハルトがかすかに笑った。
「前帝が切ってしまった縁を、向こうから繋ぎ直してくれているのだ。
これを逃す手はない」
ディートリヒは、兄弟の会話を聞きながら、ツチダをまっすぐ見た。
「どうだ、ツチダ顧問。東の畑を見る気はあるか」
「内乱も片付いて、皇子も生まれて、帝国は今、一番いい波に乗ってる時期ですよ?
ここで俺がいなくなって大丈夫なんですかね」
「君がいなくても帝国は回るさ」
リヒャルトが淡々と言う。
「制度は整えた。人も育てている。
君の“畑仕事”のおかげで、帝国の土台はかなり固くなった」
帝国は盤石だ。その言葉を、兄弟たちは自惚れでなく、確認として口にしている。
クローディアが一歩前に出た。
「農政顧問としてツチダ、護衛および外交顧問としてわたくしが同行いたします。
月兎族は魔素に敏感な種族。魔法の話は、剣よりも魔素の分かる者が必要でしょう」
「なるほど、畑と霧は俺、魔法はクローディア皇女殿下、ってわけですね」
ツチダは肩をすくめて、それから小さく笑った。
「――分かりました。行きます。
“神なき理の国”が本物かどうか、東の女王さまに見せてあげましょう」
ディートリヒが満足そうに頷く。
「決まりだ。リヒャルト、準備を。
ナイトハルト、イースタシアへの正式な返書と、学術交換の提案も添えてくれ」
「承知しました、陛下」
ネーベルグラウの霧は、帝都の上で柔らかく揺れている。
内乱は終わり、皇子は生まれ、帝国は確かに良い方向へ転がり始めている。
このときツチダは、まだ知らない。
同じ霧灰季の空の下、遥か西の国境で、
日鴉族の村が炎に呑まれようとしていることを。
◇◇◇
イースタシア行きが正式に決まってから、ツチダ農政顧問の机の上は見事に東方面一色になった。
地図。古い交易記録。海路と山路の一覧。
そして、学芸尚書ナイトハルトが嬉々として抱えてきた、帝国でも数の少ないイースタシア関係資料の束。
「……仕事が、一瞬で増えたな」
ぼやきながらも、ツチダの指は止まらない。
まずは基本情報から――と、古びた地理誌を開いた。
『イースタシア月王国。東の彼方に位置する高地国家。
統治者は女王ルナーリア・イースタシア。名は襲名制にして、現女王は一〇二世なり』
「ルナーリア・イースタシア一〇二世……長ぇな」
名前の後ろにずらりと並ぶ数字を見て、ツチダは感心半分、職業病半分で考える。
(百代以上続いてるってことは、政権は安定してる。
平均在位年数を計算すれば――いや、そこまでやるのはさすがに暇人だな)
ページをめくる。
『主食は大麦と豆を主とし、山間部には水田を有す』
大麦。豆。
そこまではいい。帝国でも見慣れた作物だ。
しかし、その次の一行で、ツチダの目が文字通り止まった。
『水田にて栽培される穀物は、米と呼ばれる作物なり』
「……米?」
声が、勝手に漏れた。
ツチダは指でその一文をなぞる。もう一度読む。読み返す。
どう見ても、書いてあるのは「米」である。
(田んぼがある。水張ってる。そこで穂が出て、脱穀して、精米して――)
脳内で、白い飯がふわりと湯気を立てた。
「米だ……!」
思わず立ち上がったツチダを、部屋の片隅で書類整理をしていた若い部下がびくりと振り返った。
「つ、ツチダ顧問?なにか?」
「いや、悪い。続けてくれ」
咳払い一つで誤魔化しながら、ツチダは次の資料に手を伸ばす。
交易記録、生活誌、食文化の断片――食べ物に関係しそうな箇所だけ、目が勝手に拾っていく。
『沿岸部にて漁業盛んにして、干魚・塩漬魚を他国へ輸出す』
『豆を発酵させた保存食、多くの家庭に常備される』
『米を蒸し、麹を用いて醸す酒あり』
「魚……発酵豆……米の酒……」
ツチダの頭の中で、点と点が豪快な線になっていく。
(魚があって、豆の発酵食品があって、米があるってことは――)
焼いた干し魚。
白い飯。
豆の発酵食品と、ダシを取った、熱い汁。
【アジの干物定食】が舌の上でほろりと溶けた。
(うおおおおおお……!)
さすがに声には出さなかったが、内心では雄叫びに近い何かが上がる。
この世界に来てから、ツチダの食卓はパンと粥と肉と野菜が中心だった。
美味いには美味い。帝国の料理人たちは優秀だ。
それでも、日本人としての舌のどこかが、ずっと寂しく鳴いていた。
(米と魚と味噌っぽい何か……!
イースタシアには、それ全部揃ってる可能性があるってことじゃないか)
資料を読み進める指が、明らかにさっきまでより速い。
『海草を干した物を出汁として用いる例あり』
『豆を塩と共に甕に詰め、数季寝かせた調味料――』
「甕に詰めて……寝かせて……それ絶対味噌だろ……!」
つい、机を叩きそうになって、ツチダは慌てて拳を握りしめた。
深呼吸。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
が、顔のにやけは止まらない。
その様子をちらりと横目に見た部下は、静かに書類をまとめ始めた。
(あ、これ話しかけたらいけないやつだ)
そんな空気を読んだのか、文官はそっと本棚の方へ移動し、「何も見ていません」という動きで部屋を出て行った。
扉が閉まる音にも気づかず、ツチダは地図を広げる。
帝都から東へ。草原を越え、森を越え、その向こうの高地と海。
イースタシア月王国。水田地帯と沿岸部に丸印を付けながら、自然と口元がほころんだ。
「待ってろよ、イースタシア……」
呟きが、部屋の中に落ちる。
瘴気の調査。病害の解析。
それが今回の正式な任務だ。もちろん分かっている。仕事は仕事、全力でやるつもりだ。
――そのうえで。
(久しぶりに米と魚と味噌汁が食べられるかもしれない。
だったら、命懸けで畑も田んぼも守るしかない)
ある意味、とても健全で、とても農家らしい決意だった。
霧灰季ネーベルグラウの冷たい霧が、窓の外を白くしている。
その向こうに広がる東の空を思い浮かべながら、ツチダはもう一度地図に目を落とした。
「よし。理の国の農政顧問としても、日本人としても――全力で行くか」
イースタシア行きの準備は、こうして妙なテンションと共に進んでいった。
お腹すいた




