生まれる命
新章です。
帝国内乱の終結から、まだ数ヶ月しか経っていない。
けれど、その数ヶ月で帝国はもはや別の国になってしまったかのようだった。
青と銀の旗が大通りを埋め、広場には麦束を模した飾りと花輪が吊るされている。
夜になれば、窓という窓に灯りがともり、どこからともなく歌と笑い声が響いてきた。
理由は単純。
皇帝ディートリヒと皇妃アデリーネのあいだに、第一皇子が生まれたのだ。
アーダルベルト=フリードリヒ・フォン・アーネンエルベ。
その長い名前を侍従が読み上げた瞬間、帝都は「皇子万歳!帝国万歳!」の大合唱になった。
そして続いたのが――七日間、帝都に限り麦酒無料開放、という前代未聞の布告だった。
「……太っ腹にもほどがあるだろ、陛下」
ツチダ・コウヘイは、広場の片隅で配られている木杯を見下ろしながらぼそりと呟いた。
泡立つ琥珀色の液体が、日暮れの光を受けてきらきらと輝いている。
周囲では、農民も職人も兵士も文官も、身分を忘れて肩を組み、喉を鳴らしていた。
「ツチダ顧問も飲みましょうよ!今日は仕事抜きです!」
農政院の若い書記が、勢いよく彼の肩を叩く。
「いや、俺は明日も朝から畑の視察が――」
「陛下のご布告です!“七日のあいだ、理も法も麦酒の泡に沈めよ”って!」
「そんなこと一言も言ってないだろ絶対」
ツッコミを入れつつも、ツチダは杯を受け取った。
実際の布告はもっと真面目な文言だったはずだが、広場の人々にとっては細かいことなどどうでもいいらしい。
泡を一口すすって、彼は小さく息を吐いた。
「……うまいな。戦争の味じゃない」
内乱の最中にも酒はあった。だがあの頃の酒は、勝利か敗北か、生き残った安堵かを誤魔化すためのものだった。
今、帝都を満たしているのは違う。
未来へ向かって息を吸い込む前の、深い深い呼吸のような、そんな酔いだった。
◇
皇城のバルコニーでは、身内だけのささやかな祝宴が開かれていた。
ツチダは招待というほどのものではないが、農政顧問として仕事半分、おこぼれ狙い半分だ。
白い布を巻かれたアデリーネ皇妃の腕の中でアーダルベルト皇子は小さく眠っている。
泣き声すらまだ掠れた、柔らかな生き物だ。
その横で、クローディアが信じられないくらい優しい顔をしていた。
「見て、ツチダ。ほら、指が私の手を掴んで!かわいい……!」
普段は剣を振るうときと同じ真剣な表情で政務にあたる皇女が、今は完全に“叔母”の顔になっている。
リヒャルトはと言えば、いつもの落ち着いた佇まいのまま、しかしワイングラスを持つ手がやたらと軽い。
「帝国宰相としても、伯父としても、まことに慶ばしい日だな。
――ツチダ殿、宮内尚書へ今後二十年分くらい教育予算案を前倒しで用意しろと伝えてくれ」
「生まれたばっかりの赤ん坊を前にもう予算の話ですか」
「理と法の国は、揺り籠から始まるのだよ」
ナイトハルトは、そんな兄を横目に、皇子の寝顔から目を離そうとしない。
学芸尚書らしく、手にはすでに何枚かのメモがあった。
「成長記録は詳細に残しておくべきだ。
この子は、帝国再興の象徴となる……いや、学術的にも貴重な――」
「ナイトハルト兄さま、あまり近づきすぎると起こしてしまいますわ」
クローディアにたしなめられ、彼は慌てて一歩下がった。
ツチダは、その光景を少し離れた場所から眺めていた。
皇帝と宰相と学芸尚書。
国の命運を握る三人が、今はただひとりの小さな赤ん坊を囲んでいる。
それは、どこにでもある家族の一コマで――それだけに、とても強かった。
ディートリヒが、ツチダのほうをちらりと見た。
「どうだ、ツチダ顧問。帝国の“未来の収穫”は」
「元気よく育ちそうで、何よりですよ。
ただ、構いすぎると……パパ嫌い!ってなっちゃうかもしれませんよ?」
「それは大変困る!」
アデリーネも笑いながら、目を細める。
皇帝の瞳には、戦場で見せた鋼の光よりも、ずっと柔らかい色が宿っている。
内乱が終わり、領地の再編も税制の見直しも、負傷した兵士や民への補償など、仕事は山ほどある。
それでも――この瞬間だけは、誰もが信じている。
帝国は、きっと良くなっていく。
この子が大きくなる頃には、剣よりも鍬を振るうほうが似合う世界になっている、と。
バルコニーから見下ろす帝都は、灯りの海だった。
七日間の麦酒無料開放は、税収担当者たちの胃を確実に痛め付けているだろう。
それでもリヒャルトは、今日は何も言わなかった。
ツチダは杯を掲げる。
泡が、遠くの星空と重なって揺れた。
「……平和だなあ」
誰に言うでもなく呟く。
畑で育つ麦は、穂が黄金色に輝く瞬間がいちばん美しい。
風に揺れ、陽を受けて光り、見ているだけで胸が膨らむ。
だが、その輝きは永遠には続かない。
収穫されなければ倒れ、嵐が来ればなぎ倒される。
だからこそ、人はその短い季節を“黄金期”と呼ぶのだろう。
今の帝国も、きっとそうだ。
戦火の灰から立ち上がり、皆が同じ方向を見ている。
昨日より今日、今日より明日が良くなると、本気で信じている。
この光景が、長く続きますように――。
ツチダは杯の麦酒を一気に飲み干す。
今夜だけは、未来への希望だけが、帝都の空を満たしていた。
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