野薔薇の枯れるとき
丘陵の、本陣。
グライフェンタールは、いつものように少し高い場所から戦場を眺めていた。ベイリア方面の土煙が薄くなりつつあるのを見て、嫌な予感だけはしていた。
その予感に答えるように、乱れた騎馬の一団がこちらへ駆け込んできた。
「道を開けろ! 公がお通りだ!」
叫びとともに現れたのは、金糸のマントを半ば引きずり、顔面蒼白のクロプシュトックだった。
鎧は半分脱ぎ捨てられ、馬上で体を支えるだけでやっとという有様だ。
「……これは、クロプシュトック公」
グライフェンタールは片眉を上げる。
想定していなかった“客”に、周囲の兵たちもざわめいた。
クロプシュトックは馬から転がるように降り立つと、そのままグライフェンタールの胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。
「なぜだ! なぜベイリアへ援軍を送らなかった!
貴公が北から挟撃していれば、我が連合軍は敗けることなどなかった!」
怒鳴り声は裏返り、唾が飛ぶ。
グライフェンタールは、その顔を真っ直ぐ見返した。
「援軍の要請は、一度も受けておりませんな、公」
「言わずとも分かろうが! 帝国の伝統を守るための戦だぞ!?
この丘陵で小競り合いをしている場合か! あの若造皇帝に、帝都を譲るつもりか!」
「……」
グライフェンタールは一拍置いた。
「ベイリアへ正面から打って出れば、丘陵の守備は空になります。
帝国軍がこちらへ回れば、我が軍は退路を失う。
“愚行”は、戦の伝統には含まれませんのでな」
言葉は淡々としている。だがその中に、冷たい棘があった。
クロプシュトックはそれを理解できたのかどうか、顔を赤から青へと変えた。
「ふん、相変わらず口が回る。
そんなことよりも、だ。
こうなっては仕方がない」
彼は急に声を落とし、扇を開く仕草だけは取り繕った。
「グライフェンタール伯。
そなたは戦を知る男だ。ゆえに命じる。
“講和”の用意をせよ」
「講和……?」
「そうだ。
わしを代表として帝都へ赴かせるのだ。
わしが出れば、ディートリヒも条件を飲まざるをえまい。
門閥の権利、帝国の伝統、私兵の存続……譲れぬものはいくつもあるが、話し合いの余地はある」
そこで、ようやくグライフェンタールは大きく息を吐いた。
深く、長く。
「……公」
彼は、片目の下を指で押さえるようにしながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私は、“帝国の伝統”のために、この戦に加わりました」
「そうだ。そのために――」
「しかし、ベイリアの報せを聞いて、私は知ったのです」
グライフェンタールは視線をそらさないまま続ける。
「民兵を殺さぬよう努め、降伏を受け入れ、避難民に耕す土地を与えたのは、帝都側だったと。
剣を振るう前に布告を飛ばしたのも、帝都側だったと」
クロプシュトックの額に、汗が滲む。
「な、何が言いたい。
あれは連中の偽善だ。平民を取り込むための、安っぽい――」
「公」
グライフェンタールの声が、ふっと低くなった。
「貴公は、ベイリアの前で軍の先頭に立っておりましたか」
「わしは盟主だぞ! 全軍の指揮を――」
「私は、丘陵で何度も先頭に立ちました。
帝国との小競り合いで、“若造”オイゲン子爵が、決して無茶な追撃をしてこないことも見ました。
あれは、民の血をこれ以上流したくない者の戦い方です」
短い沈黙。
風が、天幕の入口の布を揺らした。
「――私は失望しました、公」
グライフェンタールは、はっきりと言った。
「帝国の伝統を掲げながら、民の上に立つ覚悟もなく、負けた途端に“講和”と言い出す」
クロプシュトックの顔から、最後の血の気が引く。
「そ、そなた……逆心があるのか……?
裏切るつもりか、グライフェンタール……!」
「いいえ」
グライフェンタールは首を横に振った。
「私は、最初から帝国に仕えております。
ただ、誰に“義”があるかを見誤っていた」
その瞬間、彼の右手はすでに柄にあった。
鞘走りの音は、ひどく短かった。
クロプシュトックが何か言葉を発するより早く、
細身の剣がその喉元を貫いていた。
「……っ、あ……」
血が扇を赤く染める。
クロプシュトックは信じられないという顔で、自分の胸元を見下ろした。
「戦の責任は、盟主が負うものです、公」
グライフェンタールは、抱きとめることもせずに言った。
「民を犠牲にし、自らは最後まで逃げようとした者に、
“正統”を語る資格はない」
クロプシュトックの身体が崩れ落ちる。
地面に倒れたその音は、驚くほど小さかった。
天幕の外で、護衛の兵たちが一斉に剣に手をかける。
だが、グライフェンタールは血のついた刃を、ゆっくりと下げただけだった。
「見たな」
「……は、はい……」
「証言せよ。
クロプシュトック公は、帝国への反逆と民の虐殺を企てた。
よって、帝国騎士として、これを討ったとな」
護衛の兵たちは顔を見合わせ、やがて一人が膝をついた。
「承知、いたしました」
グライフェンタールは、剣先についた血を布で拭い、そのまま鞘に収めた。
「伝令」
「ここに!」
「オイゲン子爵の陣へ使者を送る。
言伝えをせよ――『クロプシュトックを討った。
我、グライフェンタールは残存兵を率い、全面降伏する。
条件は一つ。“民兵と徴募農民の命と土地を保証せよ”』とな」
伝令は目を見開いた。
「伯は……よろしいのですか。
捕虜となれば、爵位も領地も……」
グライフェンタールは、片目の下を指で押さえ、苦笑した。
「戦に負けた将が、何を守れるというのだ。
せめて、“守ろうとしたもの”くらいは、最後に拾ってみせねばな」
丘陵の風が、血の匂いを薄めていく。
こうしてグライフェンタールは、自らの手で盟主を討ち、
帝国側に降伏の使者を送った。
帝国内乱を終わらせるために、
そして、自分がまだ信じていたい“帝国騎士としての義”のために。
◇◇◇
オイゲン子爵は、丘陵の朝霧の向こうから駆けてくる騎馬を見て、思わず目を細めた。
「……また、泣き言か?」
ここ数日は、補給が苦しいだの、夜襲が怖いだのという報告ばかりだった。
だが、今回の伝令は、どこか顔つきが違った。
馬から飛び降りるなり、膝をつく。
「子爵閣下! 急報!」
「聞こう」
「グライフェンタール伯が……クロプシュトック公を斬り、降伏の使者を寄越しました!」
オイゲンは、思わず手にしていたカップを落としそうになった。
「……もう一度言え」
伝令は息を整え、言葉を繰り返す。
「クロプシュトック公を、グライフェンタール伯が直々に討ち取りました。
伯は残存兵をまとめ、全面降伏を申し出ております。
条件はただ一つ――『民兵と徴募農民の命と土地の保証』です」
陣幕の中に、短い沈黙が落ちた。
「……そう来たか、グライフェンタール」
オイゲンは、遠く丘の稜線を見やりながら呟いた。
(あの男のことだ。
負けると分かってなお、最後まで戦の筋を通すつもりなのだろう)
彼はすぐに判断を下した。
「降伏は、原則受け入れる」
側近たちがざわつく。
「よろしいのですか? 伯は敵の将にございまする。見せしめとして――」
「見せしめにして得るものは、もう多くない」
オイゲンは首を振った。
「ここで“降伏を受け入れる帝国”を見せれば、残りの火種も早く消える。
……ただし、これは内乱全体に関わる。私の一存では決めきれん」
机の上の地図を軽く叩く。
「ディートリヒ陛下と、宰相閣下に使者を。
“グライフェンタール伯、降伏を申し出る。
民の保証を条件とする降伏を、丘陵戦線としては受諾の所存。
最終決裁を乞う”と」
側近がうなずき、急ぎ筆を走らせる。
オイゲンは続けて命じた。
「その間、こちらからは攻勢に出ぬ。
丘陵前面に告示板を立て、『降伏交渉中につき戦闘停止』と記せ」
「敵が破れば?」
「そのときは、堂々と撃ち返せばいい」
小さく笑い、オイゲンは腰の剣に手を添えた。
◇
帝都からの指示は、驚くほど早く戻ってきた。
ディートリヒは、簡潔な一文を添えていた。
『丘陵戦線における降伏受諾、承認する。
民兵と徴募農民の命・土地の保証、帝国として約す。
グライフェンタール伯は捕虜とし、帝都にて裁定する』
オイゲンはそれを読み、静かに息を吐いた。
「……これで、ここは終われる」
◇
グライフェンタールの本隊が丘陵から姿を現したのは、その翌朝だった。
整然とした隊列。
背負う旗はすべて巻かれ、槍先には布切れひとつ結ばれている。
白に近い、薄灰の布。
オイゲンの陣からも、兵たちが警戒を解かずに並ぶ。
だが、門は開いていた。
「前へ。俺が出る」
オイゲン子爵は馬に跨がり、自軍の前列へ進んだ。
両軍の間で、二人の騎士が向かい合う形になる。
グライフェンタールは、片目の眼帯をしたまま、ゆっくりと馬を寄せた。
その背筋は伸びているが、疲労の色を隠しきれていない。
「オイゲン子爵殿」
「グライフェンタール伯」
二人はほぼ同時に相手の名を呼んだ。
先に動いたのは、グライフェンタールだった。
彼は馬から降り、膝をつく。
そして、腰の剣を抜き、その柄を両手で持って、刃を自分のほうに向けたまま差し出した。
「帝国貴族、そして帝国騎士グライフェンタール。
反乱軍の一角として剣を振るった罪、免れぬと承知の上で……降伏を申し出る」
オイゲンも馬を降りる。
「剣を」
差し出された剣を、彼は両手で受け取った。
刃は磨かれている。血はもう拭われていた。
「帝都は、降伏を受け入れる。
民兵と徴募農民の命と土地の保証――
ディートリヒ陛下が、自ら書状にて約された」
グライフェンタールの片目が、わずかに見開かれる。
「……そうか」
「伯と直参騎士は、帝都へ護送する。
罪科の審理はそこで行われるだろう」
オイゲンは付け加えた。
「それが“帝国のやり方”だ。
勝てば好き勝手に斬る、というわけではない」
グライフェンタールは、ふっと笑った。
「勝った側の言葉にしては、謙虚だな」
「ここから先は、私の仕事ではなく、法の仕事だ」
オイゲンは剣を脇に渡し、伯に手を差し伸べた。
「立て、グライフェンタール。
帝都まで歩いてもらう」
差し伸べられた手を、伯は一瞬だけ見つめ、それから掴んだ。
「……帝都の空は、まだ青いか?」
「最近は、よく晴れている」
「ならば、せめて空でも見ながら、裁きを待つとしよう」
丘陵の陣は、その日をもって解かれた。
直参兵たちは武装を預け、順次オイゲンの陣へと合流する。
民兵たちは村ごとに名簿を作られ、帰郷を望む者には帰り道と少しばかりの路銀が渡された。
グライフェンタール自身は、鎖で縛られることもなく、ただ“名のある捕虜”として馬に乗せられた。
護送の列は、ゆっくりと帝都へ向かう。
内乱の火は、まだ完全に消えたわけではない。
だが、丘陵とベイリアという二つの大きな火口は、こうして蓋をされた。
残るのは、裁きと……その先に続く、「帝国の新しい秩序」の形だけだった。




