ベイリア平野決戦ー報告ー
ベイリア平野会戦から三日後、空はやけに高かった。
焚き火の煙と、干した包帯の匂いが風に混じる。
ベイリア防衛軍本陣の大天幕。
地図台の上に広げられた戦況図の端に、一通の書類がそっと置かれた。
「ベイリア守備軍・戦闘報告書。集計、出ました」
軍務官が一礼して下がると、天幕の中には四人だけが残った。
ディートリヒ、クローディア、シャイロック、そしてツチダ。
クローディアが文書を開く。
ベイリア守備軍の印章が、まだ新しい赤で光っていた。
「――ベイリア平野会戦戦闘報告」
彼女は淡々と読み上げる。
「帝国軍。戦死三百十九名、負傷二千七百七十名……」
天幕の中に、数字が落ちた。
ツチダは少し離れた席で、指先で机をとん、とん、と叩いていた。
数字の向こうに、顔と畑と家の数が勝手に浮かぶ癖は、どうしても抜けない。
「貴族連合軍、戦死四千五百六十名、負傷一万千百八十七名」
クローディアが読み終えると、しばし沈黙が続いた。
「……見事な勝利、というべきでしょうな」
沈黙を破ったのはシャイロックだった。
粗い声だが、誇りと疲労が半分ずつ混じっている。
「数で見れば、そうだ」
ディートリヒは、報告書の端を指先で押さえたまま言った。
「だが、数字だけでは足りん。降伏・離脱した者たちは、この表には入らない」
別紙には、「降伏兵・離脱民兵多数」とだけ記されている。
詳しい人数は、ベイリア後方の開墾地から追って上がってくる手筈だった。
「それでも……」
ツチダが、ぽつりと言う。
「この数字で済んだのは、奇跡みたいなもんです。真正面から“やる気”でぶつかり合ってたら、両方とも、もっと桁が増えてた」
ディートリヒはようやく口元をゆるめた。
「そうだな。剣だけでなく、布告と芋と畑まで動員した戦だ」
「芋は、なかなか良い兵でして」
シャイロックが片眉を上げる。
「降伏した民兵に配ると、みんな少しだけ“帰りたい”顔をする。こんな戦はそれで十分です」
クローディアが次の行へ視線を落とす。
「――『敵軍盟主グナイスト・フォン・クロプシュトック伯爵、ベイリア平野より丘陵地帯へ逃亡。残余直参兵は散開、一部は武装放棄の上、投降』」
地図台の上で、彼女の指先がそこだけ僅かに止まった。
「結局、あの男は“最後まで”戦場に立たなかったわけですね」
「立つ覚悟があるなら、あの天幕はあんなに金ピカじゃなかったでしょう」
ツチダが肩をすくめると、クローディアがくつ、と笑う。
ディートリヒは報告書を閉じ、地図台の上にそっと置いた。
「ベイリアは守られた。倉も、街も、生きて帰る道も。帝国軍は、民を守りつつ勝つという、最初の試練を越えた」
天幕の外では、風に揺れる帆布の音がする。
負傷者を運ぶ担架の足音も、まだ途切れてはいない。
「……ですが、終わりではありませんわね」
クローディアが天幕の布越しに、遠くの丘を見やるように目を細めた。
「クロプシュトック伯爵は丘陵へ逃れました。そこには、かのグライフェンタール侯爵がいる。帝国にとって厄介なのは、いつだって“愚かではない敵”です」
「グライフェンタール……」
ツチダは名前を反芻し、自分の手のひらを見つめた。
マメと傷で固くなった掌。
ベイリアの後方で鍬を振るった、その同じ手で、これからまた図面と布告を書かねばならない。
「……ベイリアで守った分だけ、あっちで血を流させるわけにはいきませんね」
「そうだ」
ディートリヒの声は短く、よく通った。
「この報告書の数字を、“帝国内乱の標準”にはしない。これより先は、もっと削る。血の数字も、民の涙もだ」
クローディアは静かに頷き、シャイロックは「承知」と一言だけ返した。
ツチダは返事の代わりに、地図の横に置かれた別紙に目を落とす。
報告書の最後の行に、小さくこう記されていた。
――「なお、ベイリア後方開墾地における農地拡張、順調。避難民・降伏兵の労役は円滑に進行中。来季の収穫へ向け人手とアイスドゥビングの用意を」
ツチダはそこだけ、少しだけ嬉しそうに笑った。
どこかで耕された畑がある限り──この内乱はただの破壊では終わらせない、そういう決意の顔だ。
「とりあえず、“次の季節”の準備は間に合いそうです」




