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農家の異世界奮闘記~理の目と鍬一本で、国を救い、神に挑む~  作者: 今無ヅイ
帝国内乱編

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ベイリア平野決戦Ⅰ―分断の矢―

翌朝、ベイリアの空は静かに晴れていた。


平野いっぱいに、二つの軍が向かい合う。

西には、クロプシュトック公の連合軍。旗、旗、旗。伯爵家、子爵家、男爵家──ありとあらゆる紋章が、風に揺れている。数だけ見れば、森のようだった。

東には帝国軍、ベイリア防衛軍。

掲げられている旗は一種だけだった。

青地に銀の双頭の鷲。その下に、帝国の兵と騎士が整然と並ぶ。


「……あっちは“誰のための軍”か、こっちは“何のための軍”か、ってとこだな」


シャイロックがぼそりと呟く。手綱を握る指に、焦りはない。


最前列で、クロプシュトック公が馬上に姿を現した。

華美な金の鎧。銀細工で飾られた馬鎧。陽光を浴びて、眩しいほどだった。

彼は高く扇を掲げ、吠える。


「諸侯!正統帝国のために突撃せよ!偽りの皇帝とその走狗どもを踏み潰せ!」


号令が喉を裂く。角笛が応え、太鼓が地面を震わせる。

民兵が先行する。

粗末な槍と盾、疲れ切った顔。

そのすぐ後ろに、鎧も武具も揃った直参兵の列が続く。

押し出されるように、前へ、前へ。


誰も、足元の白い石には気づかなかった。


地面に二十歩おきに置かれた、小さな白石の列。

それはツチダとエッシェンベルクが昨夜のうちに並べさせた“印”だった。


「三百!」


帝国側の小高い丘の上で、観測役の騎士が叫ぶ。

距離の報告は、それだけ。だが、それで十分だった。


エッシェンベルク侯爵が、軽く手を挙げる。


「よろしい。合図を」


旗が一枚、静かに倒れた。

次の瞬間、丘の斜面に伏せていたエッシェンベルク軍の弓兵千人が、一斉に身を起こす。

長弓が弦を悲鳴させ、空に向けてしなった。


放て。


声にならない合図とともに、千本の矢が空に昇る。

灰色の空に、黒い雨のような弧を描いた。


それは、民兵の列を越えた。

狙いは、もう一つ後ろ──民兵と直参兵の“境目”。


矢の雨が、ちょうどその境界に、そして直参兵の最前列に突き刺さる。


悲鳴。馬のいななき。鎧を叩く乾いた音。

次の瞬間、直参兵の列の一部が崩れ、民兵の背中にぶつかる。


「なっ……後ろから……!」


振り返った民兵が、青ざめた顔で叫ぶ。


帝国側から見れば、それははっきりと見えていた。

薄い布と粗末な盾の波。その後ろに、厚い鉄と槍の壁。

矢は、その二つを切り離すように降り注ぎ、分断の溝を穿つ。


「分断せよ」

エッシェンベルクが低く呟く。


「守るべき民と、討つべき敵をだ」


民兵の列が、反射的に足を止める。

背後からの悲鳴に怯え、前へ出る勢いを失う。

直参兵のほうは、押し出そうとして罵声を浴びせるが、その声にも不安が混じり始めていた。


帝国側の防衛線では、ブレーメン公が剣を抜きながら振り返る。


「前列、構えを崩すな!矢の狙いは敵の“心臓”だ!民兵を斬るな、立ち止まった者には降伏を呼びかけろ!」


クローディアの近衛が、盾をわずかに開き、前へ進む準備をする。


ツチダは後方の丘から、その光景を食い入るように見つめていた。

矢の雨が、誰かの命を奪っていることは分かっている。

それでも──あの矢が切り離しているのは、「殺すしかない相手」と「生かせる相手」だ。

初撃は、すでに始まっていた。

だが、その矢は、ただ血を流すためではなく、戦場を“分ける”ために放たれていた。


帝国軍の前衛が、一斉に声を張り上げた。


「武器を捨てろーっ!」

「盾の後ろに逃げろ!」

「いいから逃げろ!隠れろ!!」


普段なら「突撃!」と叫ぶべき距離で、彼らはまるで避難誘導のように叫んでいた。


重装歩兵隊が前進する。

盾は壁のように揃い、槍の穂先はぎりぎりまで下げられている。

その壁が、民兵の層にぶつかった。


「ひっ──!」


粗末な槍を構えた男が、思わず目をつぶる。

突き刺されると思った。

だが次の瞬間、肩をぐいと押されるだけだった。


「こっちだ!あとは走れ!」


帝国兵の盾が、その男の身体を押し流す。

押し返すのではない。押し込むのだ。

後方、帝国の盾列のさらに後ろへと。


「こっちだ!こっちに来い!」

「武器捨てろ、そのまま!」


重装歩兵の列は、隊列を乱さない。

盾と盾の隙間を、民兵たちが、押し出されるように、あるいは吸い込まれるように流れ込んでいく。


叫び声と泣き声と、安堵の息が混ざる。


「本当に、斬らねえ……?」

「走れ!あとなんかあればベイリアについてから言え!」


盾の影に吸い込まれた民兵は、そのまま後方の誘導兵に引き渡される。

地面に散らばった槍と錆びた剣だけが、前線に薄い帯となって残った。


帝国の重装歩兵列は、ようやく本当に“敵”だけと向き合う位置まで進む。

その先には、整った鎧と紋章をつけた直参兵の列。

彼らはようやく状況を理解し始めていた。


「民兵!何をしている!」

「前に出ろ!命令違反は斬首だ!」


怒号が飛ぶ。

だが、民兵たちはもう前には出ない。

引く道を知ってしまった足は、命令だけでは動かない。


前に踏み出してきたのは、直参兵自身だった。


「帝国軍など恐れるな!押し潰せ!」


クロプシュトック側の中隊長が剣を高く掲げる。

直参兵の列が、槍と剣を構え直し、前進を始めた。


その瞬間、帝国側の前衛指揮官が短く叫ぶ。


「構え!」

盾がぐっと前に出る。

槍が水平に構えられ、足並みが揃う。


そしてぶつかった。


剣と剣がぶつかる甲高い音。

盾と盾が噛み合い、押し合う鈍い衝撃。

鉄と鉄、息と息、怒号と唸り声が、狭い地帯に押し込められる。


「押し込めーっ!」

「下がるな!足を止めたほうが負けだ!」


帝国の重装歩兵は、一歩ごとに地面を踏みしめる。

ベイリアの土を、退かないための足場にするように。


直参兵たちは、その足場を壊そうとする。

頭上からの斬撃、盾越しの突き、鎧の隙間を狙う刺突――

戦い方そのものは、どちらも“帝国式”だった。


ただ、違うのは、背中にあるもの。


帝国兵の背中には、「逃げ込んできた民」と倉と芋畑がある。

直参兵の背中には、「酔って騒いだ天幕」と、空になりかけた徴発袋しかない。


その差はまだ見えない。

押し返されるのは、どちらの“理”か。

ベイリア平野の真ん中で、それが試され始めていた。


貴族領で常備軍として鍛えられた精鋭。

帝国式の槍組み、盾の押し合い、斜めからの斬り上げ。

技も力も、寄せ集めの民兵とは別物、直参兵はやはり強い。


帝国前衛の盾列に、じわりじわりとヒビが入る。

「くそっ……!」


盾の縁を叩かれ、腕が痺れる。

槍の穂先が鎧の継ぎ目をかすめ、血が飛ぶ。

ひとり、ふたりと帝国兵が膝をつき、その場から引きずり出されていく。


「押せ!押し返せ!」


直参側の士官が叫ぶたび、重い波がぶつかってくる。

押される。下がる。踵が一歩、土を引きずる。


それでも、帝国前衛は崩れなかった。

「下がるな!ここで止めろ!」


前列の隊長が、血まみれの顔で怒鳴る。


「お前らの背中に、誰がいる!」


その一言が、盾の裏側まで届く。


背中には、民がいる。

避難してきた者たち。

畑を捨て、家を捨て、それでも「生きるほう」を選んだ人たち。

今この瞬間も、街の中で水を運び、包帯を巻き、鍋をかき回している顔が浮かぶ。


「民の盾となれ!」


どこからともなく、その言葉が繰り返された。

「帝国騎士は民の前に立つ!」

「民の後ろに隠れるくらいなら!この場で、死ね!」


掛け声というより、呪文のように、何度も何度も。


足が止まる。

たわんだ盾が、もう一度前へと押し返される。

押されながらも、膝を折らない。

ほんの半歩の差で、踏みとどまる。


「あいつらのところまで行かせるな……!」

誰かが直参兵に突き刺され、血を吐きながら、それでも歯を食いしばって呟く。

あいつら――ベイリアの街で芋を洗っていた少年の顔。

避難民の小屋で子どもを抱いていた母親の姿。


これは自分ひとりの肉ではなく、

後ろで暮らす百人分の肉を守るための痛みだ、と。


「前へ……前進!押せ!」


号令に合わせて、一斉に足が動く。

ほんの半歩。それでも、押され続けていた流れが一瞬だけ止まる。

直参兵の顔に、初めて「素の驚き」が浮かんだ。


その刹那の止まりが、やがて別の場所で動きに変わる。

側面へ回り込みつつある騎兵の蹄の音が、遠くで小さく響き始めていた。


帝国騎士の武器は剣と盾だけではない。

「民を背にして退かない」という矜持そのものが、今この瞬間、鉄より重い楔になっていた。

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