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農家の異世界奮闘記~理の目と鍬一本で、国を救い、神に挑む~  作者: 今無ヅイ
帝国内乱編

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決戦前夜ー薔薇と脱走兵ー

夜の本陣は、別世界だった。

クロプシュトック公の天幕は、まるで祭りの殿堂のように煌々と明るい。

厚い絨毯、金糸の垂れ幕、銀の杯。

中央の卓には肉と葡萄酒が山と積まれ、大貴族たちの笑い声が絶えない。


「明日ベイリアを抜けば、帝都は我らの庭よ」

「アウグスト陛下に新しき都を献上仕る。あの“平民まじりの宮廷”も、これで終わりだ」

「正しき秩序が戻る。正しき血筋が玉座に座るのだ」


杯が打ち合わされるたび、炎の光がワインを血のように染め上げる。

その輪の中で、クロプシュトック公は扇を手に、満足げに目を細めていた。


「ベイリアの倉は、さぞ豊かであろうな」

「民の畑も兵の腹も、すべて“正統帝国”のためにある」


言葉だけ聞けば、高邁な理想にも聞こえる。

だがそのどこにも、“ここにはいない者たち”の影は映っていなかった。


天幕の外は、別の静けさに包まれていた。

火の粉の少ない、しみったれた焚き火がいくつも。

その周りに、民兵たちがしゃがみ込み、湯のような粥をすすっている。


麦なのか米なのかも分からない、薄い、ぬるい何か。

匙を動かす音だけが、ぽちゃん、ぽちゃんと低く響く。


誰もしゃべらない。

しゃべれば、「明日」の話になるからだ。


「おい」

その沈黙を破ったのは、焚き火の外側からかけられた声だった。


民兵が振り向くと、数人の若い兵が立っている。

鎖帷子の上に、少し上等な外套。

腰の剣も、それなりの鍛え。

見ようによっては、貴族直参の従者か、その息子たちに見えた。


「……なんだよ、坊ちゃん」

民兵のひとりが、疲れた目で睨む。

若い兵のひとりが、肩をすくめて小さく笑った。


「馬鹿が酔っ払ってるうちに、だ。逃げろ」

粥をすすっていた手が止まる。


「……は?」

「聞こえなかったか?逃げろって言ってんだ」

声はひそひそと低いが、妙に澄んでいた。


「このままじゃ、明日、真っ先に押し出されるのはお前たちだ。倉も畑も空っぽの土地で、腹減らして突撃させられてよ――死ぬのは平民からだ」


焚き火の向こうで、誰かが唾を飲み込む音がした。

「……逃げたら殺すんだろ。家族だって……」


「逃げても逃げなくても、殺される」

若い兵は、顎で西をしゃくった。


「だったら、あっちに行きゃ飯が食える。ベイリアの向こうだ。飯と屋根がある。降伏した民兵は、畑を耕して賃金だってもらってる――聞いたことねえか?」

「噂だろ」

「噂は、火と同じだ。出どころがある」


外套の下から、そいつは小さな木札を取り出した。

粗い文字で、こう刻んである。


『武器ヲ地ニ置キ橋ヲ壊サズ村ヲ焼カザレバ赦免

ベイリア開墾地ニテ食ト仕事ヲ与フ』


「……本当に?」


震える声で問うと、若い兵は鼻を鳴らした。


「間違いねえ。皇帝の印すらついてんだ。正門から出るのはやめとけ、検問がきつい。北側の外周柵の向こう、潰れた風車があるだろ。あそこの裏手だ」


そこまで言って、周囲をぐるりと見回す。


「俺たちは“見回り中”ってことになってる。今日か明日までだ。――選べよ」


焚き火の火が、若い兵の横顔を照らす。

それは“貴族の味方”の顔にも、“何かにもう耐えられない兵士”の顔にも見えた。


彼らが闇に紛れて離れていくと、焚き火の輪に沈黙が戻る。


しばらくして、誰ともなく立ち上がった。

「……俺は、行く」


粥の入った椀をそっと置き、槍を地面に寝かせる。

「家に帰りてえからな。生きて」


ひとり。

ふたり。

同じように槍を置き、刀を抜いて地面に突き立てたまま、柄を離す者たちが出てくる。


「おい、本当に行くのかよ」

「行ったほうがまだマシだろ」

誰かが、天幕のほうをちらりと見る。

豪奢な布越しに漏れる笑い声と音楽。

あそこで酔いしれている者たちは、きっと明日の最前列には立たない。


「……行こう」

誰かが小さく言った。


焚き火の火が一つ、また一つ、風に消される。

夜の闇の中、北側の外周へ、影がいくつも、音を立てずに動き始めた。


◇◇◇


カシアン・フォン・エッシェンベルク侯爵は、夜明け前の帳簿に目を通していた。

インクの行の間に、短い報告が次々と挟まれていく。


――脱走二十七名、北側柵より。

――脱走十五名、東側野営地より。

――見回り交代の隙を利用、異常無し。


「……ふむ」

侯爵は小さくうなずき、次の紙を受け取る。

降伏した貴族直参兵の鎖帷子と外套は、今や立派な“道具”だった。

紋章を外し、汚れをつけ、サイズを詰める。

それを着せた者たちが、今夜は敵陣の焚き火の輪の外側を、何食わぬ顔で歩いている。


「見回り、ご苦労」

そう声をかけ、民兵の列のほうをわざと一瞥する。

その一瞥だけで、合図は十分だ。

数人が器を置き、夜の闇のほうへと腰を上げる。

門のそばにいる“本物”の直参兵のうち、数名は既に買収済み。

そういう融通の利く連中は、どの陣にも一定数いる。


「門の閂は、見回りの交代の刻に半分だけ外しておきなさい。あとは風が押してくれます」


侯爵は出立前にそう命じていた。


抜け道は、正門ではない。

北側の外周柵、潰れた風車の裏手――木柵の下を、少しだけ掘ってある。

這って抜けるしかない穴だ。荷物は背負えない。

松明も、灯りもなし。


だが――今夜は満月だった。

白い光が、丘と柵の輪郭を浮かび上がらせる。

目が慣れれば、足元の石まで見える。


「月くらいは、味方をしてくれるようですな」

侯爵は窓の外を一度だけ見やり、また紙に視線を戻す。


――脱走三十三名、北側。

――脱走十二名、柵下の穴より。

――見回り四個班、さらに追加で買収済み。


報告を読み上げる副官の声が、だんだんと単調になっていく。

数は小さい。だが、確実に積み重なっていく。


エッシェンベルクは、卓上のグラスをわずかに傾けた。

琥珀色の液体が、月光を受けて細く揺れる。


「よろしい。日が昇るまで続けなさい」

「はっ」

副官が頭を下げる。

侯爵は、グラスを口に運びながら、静かに付け加えた。


「綺羅びやかさだけ追い求めて、地味なことを疎うから戦に負けるのですぞ――クロプシュトック公」


満月の光は、敵の陣営も、ベイリア行きの細い列も、等しく照らしていた。

ただ、その光の下で「減っているもの」に気づいている者は、そう多くなかった。

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