農の理
それからの数日、ツチダは誰よりも早く畑に出ていた。
夜明け前の薄い霧が残るころ、村人たちが家を出る頃には、すでに北の畑で作業を始めている。
最初に着手したのは溝掘りだ。
石鍬で土の流れを読むように線を引き、少し掘っては足で踏み固め、水の通りを確かめる。
次に、焚き火の灰を乾かして袋に詰め、山際の落ち葉を集めて腐葉土に仕立てる。
泥は跳ね飛び、服はすぐに汚れた。それでも、ツチダの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「……懐かしいな。こういうの、何年ぶりだろう」
トラクターや重機を使わない耕作。
農薬も除草剤もビニールもない、ありのままの農業。
鍬を振るう角度、土を返す力加減、汗の流れ方――どれもが彼の体に染みついていた。
その動きは呼吸のようで、見守る村人たちを思わず黙らせるほどだった。
「……あれが“理”ってやつなのか?」
村の青年がぽつりと呟くと、村長が静かに頷いた。
「理――この世界の“法”のことじゃ。火が燃える理、水が流れる理、人が生きる理。その人の生き方が神々の道理と重なるとき、初めて“理を得る”というんじゃ」
青年は目を丸くした。
「じゃあ、ツチダ殿は……?」
村長は囲炉裏端で語るような調子で言う。
「土を見て命を感じ、耕すことで世界を整える。あれこそ――“農の理”なのかもしれん」
その言葉を聞き、ツチダは手を止めて振り返る。
「……理、ですか」
額の汗をぬぐい、少しだけ空を見上げる。
「俺はただ、放っておけないだけなんです。苦しそうな土地を見ると、何もしない方がつらい。今は……それを手助けできる“目”と“手”をもらいましたから」
掘り返した土を手のひらに乗せると、陽光を受けてきらりと光った。
その中に、淡い緑と金の粒が確かに混ざって見える。
「……本当にそうなのかもしれませんね。俺が持っているのは、“農の理”ってやつなのかも」
村人たちは言葉を失い、ただその姿を見つめた。
風が吹き抜け、畑に光の筋が走る。
枯れかけていた麦の根の間から、小さな芽が顔を出していた。
村長はその光景を見ながら呟く。
「理とは、神々だけのものではないのかもしれんな……」
ツチダは照れくさそうに笑った。
「神様がどう思うかは分かりませんけど、俺にとっての理は――“土を生かすこと”です」
その声は柔らかく、しかし不思議な強さを帯びていた。
村人たちは理解した。この異国の男は奇跡を起こす魔法使いではない。
土を愛し、命を育てる――“理そのもの”なのだと。




