決戦場へ集う者たち
ベイリア平野の夕暮れは、いつもなら小麦の色を柔らかく染める。
だが、その日の色は、どう見ても血の前触れだった。
城壁の上で、シャイロック伯爵は遠眼鏡を目に当てる。
西の地平線に、土煙の帯が二本、三本。
風向きが変わるたび、馬と人の匂いが薄く届いてくる。
「……あれが、“全部”ってわけか」
隣で旗手がごくりと喉を鳴らした。
「偵察からの報せと一致します。クロプシュトック公、残存戦力すべてを動員。五万――と」
「五万、ねえ」
シャイロックは遠眼鏡を下ろし、視線だけで平野をなぞった。
畑。用水路。農道。小さな祠。
その一つ一つが、明日か明後日には戦場の地名になる。
城門の下では、兵たちが槍を点検し、弓の弦を確かめていた。
鎧の擦れる音。馬の鼻息。鍋から漂う薄いスープの匂い。
誰もが黙っている。黙ったまま、落ち着かない手だけが動いていた。
「伯爵さま、本当に……決戦なのですね」
若い士官が恐る恐る声をかける。
顔は強がっていても、手の甲は汗で湿っていた。
シャイロックは肩をすくめる。
「ここを明け渡せば、あとは帝都まで一本道だ。ベイリアは“喉”だ。ここを通されたら、帝国が窒息する」
平野の真ん中にあるこの街は、西から帝都へ続く街道の結節点。
兵も物資も、必ずここを通る。
「それに――」
伯爵は、ふっと笑った。
「俺の領地だ。神聖国の連中にだって何度も突っつかれたが、そのたびに守ってきた。今さら、帝国のバカ貴族どもに抜かせるもんか」
その言い方があまりにもあっけらかんとしていたので、若い士官は思わず吹き出した。
「……はは、おっしゃるとおりで」
「笑ってりゃ、ちょっとはマシだ」
そう言いながら、シャイロックは視線を西から東へ移した。
「問題は、あっちがどう動くか、だな」
そのとき、遠くから馬の蹄の音が近づいてきた。
城門の外で見張りが叫ぶ。
帝都の方向だ。
「帝都からの早馬だ!」
ほどなく、汗まみれの伝令が軍議室へ押し込まれた。
シャイロックは椅子に腰を下ろす暇もなく、封を切る。
――クロプシュトック公、全軍をもってベイリア方面へ。
――皇帝、親衛騎士団を率いて前線へ向かう。
――ベイリアを決戦場とし、全帝国軍、この地に集結せよ。
「また大物を呼び込んじまったな、ベイリア」
紙を畳みながら、伯爵は苦笑した。
「まあいい。どうせいつかは、こうなった」
彼は窓の外を見やる。
夕暮れの空の下で、小麦の穂が風に揺れていた。
「さて――帝国史上初の“内乱の決戦場”になるか。ならせるなら、勝ち戦にしてやらにゃあな」
外では、鐘が鳴る。
敵の到来を告げる鐘ではない。
来るべき戦いへ備えるための鐘だ。
ベイリアの空気は、ゆっくりと固まり始めていた。
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翌日、ベイリアの城門前には、ありったけの旗が並んでいた。
帝国の青と銀。親衛騎士団の紋章。近衛騎士団の紋章。
それらの一番高いところに、帝国旗が一枚だけ、まっすぐ掲げられている。
「来たぞ――!」
見張り台から声が上がる。
城門の向こう、街道の先に、光る列が見えた。
甲冑と槍の列。
そして、その先頭に立つ馬と男。
「ディートリヒ陛下、ご到着!」
叫びとともに、門が上がる。
シャイロック伯爵とブレーメン公が並んで進み出た。
親衛騎士団五千。
青と銀の鎧が陽光を跳ね返す。
続いて近衛騎士団一万。
その列の真ん中に、クローディアの姿があった。
ディートリヒは、戦装束ではなく、簡素な軍用礼装を身につけていた。
冠はない。代わりに、帝国紋章の刺繍が入ったマントが風に揺れている。
「ベイリアの城、ディートリヒ皇帝陛下をお迎えいたします!」
シャイロック伯爵が膝を折ろうとした瞬間、
ディートリヒが手を上げて制した。
「顔を上げてくれ、シャイロック伯。今は式典ではない。ここは戦場だ」
シャイロックは、にっと笑って立ち上がる。
「では戦場の挨拶を。――間に合いましたな、陛下。ベイリアはまだ帝国のものです」
「それを守ってくれたのは、お前たちだ」
ディートリヒはブレーメンに目を向ける。
「ブレーメン公」
「は」
「よく時間を稼いでくれた。報告書には『あの数で押し切られたら負けていた』とあったが」
「事実ですからな。あれ以上は、兵も、私の膝も持ちませなんだ」
老将軍らしい冗談に、周囲にささやかな笑いが広がる。
「だが、勝ったのは事実だ」
ディートリヒは短く言い切った。
「ベイリアの防衛は成功し、民は守られた。そのうえで、敵はまだ五万を保っている。ここからが、本当の意味での“帝国の戦い”だ」
その言葉に、兵たちの背筋がわずかに伸びた。
クローディアが、一歩前に出る。
「お兄さま。近衛騎士団一万、予定通り合流しました。街の防備状況、軍の配置はシャイロック伯とブレーメン公から報告を受けています」
「頼もしいな」
ディートリヒはうなずく。
「これで、帝国軍はベイリアに五万。向こうも五万。数の上では互角だ」
リヒャルトも馬を降り、地図箱を抱えて近づいてくる。
「とはいえ、内訳は違います。向こうは、貴族直参が一万。残り四万は民兵と徴募兵。こちらは、親衛・近衛・帝国軍の正規戦力が大半。――勝つことだけを考えるなら、話は簡単です」
「だが、俺たちはただの勝利を求めて来たわけじゃない」
ディートリヒは、城壁の上に目を向けた。
そこからは、ベイリアの街並みと、さらにその向こうの畑が一望できる。
屋根。煙突。洗濯物。
まだ緑の残る畝。
「この街と、その向こうにいる農民たちと、敵の陣幕の中で震えている徴募兵たち――できれば、全員を“明日”に連れていきたい」
その言葉に、シャイロックが目を細めた。
「無茶を言いますな、陛下」
「無茶は、承知のうえだ」
ディートリヒは笑う。
「だが、理の国の皇帝として、最初の内乱をこう締めくくりたい。“民を殺さずに勝った”と、歴史書に書かせる」
ブレーメンが、苦笑しながらも頷いた。
「では、そのための理を、これから地図に描きましょうや」
「そうだな」
ディートリヒは、城の奥を振り返る。
「ツチダ。“頭を使うときの芋”は用意できているか?」
ちょうどそのとき、廊下の奥から、香ばしい匂いが漂ってきた。
油と芋と、かすかなマヨネーズの匂い。
「はいはい、今行きますよ、陛下」
ツチダの声が返ってくる。
ベイリアの空気は、恐怖と同じくらい、決意で満ち始めていた。




