揺らぐ義、濁る欲
報せは、音ではなく、空気で先に届いた。
クロプシュトック伯爵領・本城。
重ねられた絨毯の上に、侍従の足音が沈む。
扉が開く前から、伯爵は「悪い知らせ」であることを理解していた。
「……申し上げます、副盟主ヴァルトシュタイン伯爵、戦死。ベイリアに出した三万は投降多数、軍としては事実上壊滅とのことです」
報告は淀みなく、感情を挟まない。
クロプシュトックは、持っていたワイングラスの脚を、白い指で強く握った。
ぱきり、と細い音がする。
脚が折れ、赤い液体が絨毯に散った。
「……ふん。三万もいて、皇帝の弱兵ごときに敗れるとはな。“民を甘やかせば士気が上がる”などという耳障りのよい理屈に、負けたか」
声は怒りを装っていた。
だが、その怒りは、敗戦そのものに向けられてはいない。
(副盟主が――いなくなった)
グラスの破片が指先に刺さる。
血がにじんだが、伯爵は気にも留めなかった。
ヴァルトシュタインは粗暴で、拙く、扱いづらい。
しかし同時に、兵にも貴族にも、それなりに人気があった。
「帝都の連中よりはマシ」と言わせるだけの即物的な分かりやすさが、彼にはあった。
(あの男が勝てば、“戦の英雄”として頭をもたげる。負ければ、こちらの体面が傷つく。――死ねば?)
政敵が一人、盤上から消える。
そうなれば、内乱後の「分け前」は、その分だけ増える。
「閣下、三万の損耗は……」
側近が恐る恐る口を開く。
「三万“程度”で済んだと見るべきだ」
クロプシュトックは、血のついた指を軽く振った。
「民兵は替えが利く。武器と甲冑は回収すればよい。あれらはもとより“数”であり、“名”ではない」
民の犠牲は、彼の目に「数字」としてしか映っていない。
誰がどの村から出たか。どんな畑が空になったか。
そんなことは、彼にとって「税収の増減」以上の意味を持たない。
「問題は、伝え方だ」
伯爵は、割れたグラスの残骸を卓上の皿に押しやる。
「ヴァルトシュタインの死は“裏切り者に討たれた”のではない。“皇帝軍の卑劣な策謀に倒れた”と広めろ。降伏した兵は皆殺しにされた――そう吹き込め。ベイリアでの開墾だの赦免だのという与太話は、ここまで届かせるな」
側近が頭を垂れる。
「ははっ」
クロプシュトックは、胸の奥でひそかに安堵していた。
(ヴァルトシュタインは死に、グライフェンタールは丘に釘付け。残るは盟主たるこの私が、内乱後の“秩序”を語ればよい)
赤い染みが絨毯に広がっていく。
それが、遠いベイリアの血とも、農民たちの未来とも繋がっているとは、彼の想像の外にあった。
◇
その知らせは、丘の上の天幕にも届いた。
西部丘陵戦線、グライフェンタール侯爵本陣。
薄い霧が森の縁を漂い、遠くで金属の打ち合う音だけが細く響いている。
「……副盟主、戦死。ヴァルトシュタイン伯爵、味方直参に討たれた由」
報告を読み上げた副官の声は、慎重に感情を殺していた。
グライフェンタールは、机の上の簡略地図から視線を外さない。
「詳報は?」
「敵味方、複数の証言が混じっておりますが……
『民兵が降ろうとしたところを、ヴァルトシュタインが後列から殺そうとした』
『それを見た直参の一部が逆上し、伯爵を斬った』――という筋が、共通しております」
天幕の中に、短い沈黙が落ちた。
グライフェンタールは、片目の奥で何かを計るように、ゆっくりと息を吐いた。
「……帝国軍の処置は?」
「降伏した兵は収容、赦免の布告通り保護。ベイリア郊外に畑を――“開墾特区”を設け、仕事と食を与えていると」
副官は信じ難いものを見るように、書状を持つ手に力を込めた。
「向こうは、民兵を『兵』ではなく『民』として扱っているようです」
「そうか」
その一言だけで、グライフェンタールの肩がわずかに落ちた。
彼が反乱に加わった理由は、単純だった。
――帝国の伝統が軽んじられている。
――皇女の寵愛を受けた平民策士の言葉が、あまりに急速に国を変えつつある。
――皇弟アウグストのもとで、一度“格式”を立て直すべきではないか。
それは、完全な私欲でも、ただの保身でもないつもりだった。
あくまで「帝国の義」を思っての選択――少なくとも彼自身は、そう信じていた。
しかし。
「民兵が降ろうとしたら殺せ」と命じた副盟主。
その命令に逆らって主君を斬った直参。
降伏した者を赦し、畑を与えた帝国軍。
(義は、どちらにあるのか)
眼帯の下で、失った左眼が疼くような気がした。
かつて国境で、彼は多くの兵を失った。
それ以来、「無駄に死なせない」ことを己の理と決めた。
だからこそ、兵たちは彼の旗の下に集まり、命を預けてくれている。
「侯爵」
副官が口を開く。
「我らは……本当に、正しい側に立っているのでしょうか」
愚問だ、と切り捨てることはできた。
「今さら退けぬ」と怒鳴ることもできた。
だがグライフェンタールは、そうはしなかった。
「……分からぬ」
正直な答えだった。
「帝国の伝統を重んじるために、私はこの旗を掲げた。だが、帝国の“義”はどこにある?民を守る側と、民を縛る側――どちらが、より帝国にふさわしいか」
副官が息を呑む。
「侯爵、それは……」
「今はまだ、答えを出さぬ」
グライフェンタールは手を上げて制した。
「オイゲン子爵は、丘で“負けない戦い”をしている。あれは、兵を粗末にしない指揮官のやり方だ。
私も同じ理で戦っている」
彼は、遠くの丘の稜線を思い浮かべる。
「だが――義の場所が見えぬまま剣を振るうほど、私は若くない」
外から、号令の声が聞こえる。
今日もまた、“負けないための戦い”が続く。
グライフェンタールは、机の上の駒にそっと触れた。
(帝国のために、と信じてここにいる。だが、帝国そのものが“民の上に立つ冠”ではなく、“民のための盾”であるというなら――)
どこかで、何かが静かに揺らぎ始めていた。
それが、いつどのような形で表に出るのかは、まだ誰も知らない。
ただひとつ確かなのは――
ベイリアの芋畑と、丘の上の片目の将とのあいだで、
「義」の重心が少しずつ動き始めている、ということだけだった。




