丘陵地帯攻防戦―隻眼の勇将―
グライフェンタール侯爵は、丘陵の中でもひときわ高い稜線を選んで陣を敷いていた。
ベイリア平野から西北へ続く丘は、なだらかに見えて、実際にはいくつもの「段」を持つ。畑の肩、森の舌、谷筋の影――その“段”の境目には獣道が走り、雨が降れば粘土質の斜面はすぐ足を取る。
帝都へ抜ける街道は、丘の南側の「鞍部」を通って二つに割れる。ひとつは谷筋へ落ち、ひとつは森縁をなぞって回り込む。
つまり、鞍部の手前にある“肩”の稜線を押さえた側が、道も視界も握る。
帝国軍は、その“肩”に線を引いていた。
越えれば森、下りれば谷。追えば分断――その一線を、頑固なほど正確に守っている。
白髪交じりの黒髪は後ろで一つに束ねられ、左目には古びた眼帯。
右の頬には、顎の近くまで斜めに走る深い刀傷がある。かつて神聖国との国境紛争で受けたものだと、兵たちは知っていた。
彼の足元には、整然と並ぶ旗と、号令を伝える直参兵たち。
貴族連合軍一万二千のうち、この丘で直接前へ出しているのは民兵五千と直参千五百。残りは二手に割り、森と谷筋に散らして伏兵に、さらに街道と荷駄の確保に回していた。
前へ出す兵を絞るのは、損耗を嫌う彼の癖であり、同時に自信の表れでもある。
「第一列、前進。第二列、半歩遅れて続け」
グライフェンタールは声を張るでもなく、淡々と命じた。周囲を固める直参たちが信号旗を振る。
蒼旗は前進、赤旗は退却、黒旗は伏兵起動。合図は旗だけでなく角笛でも統一し、民兵にも“退く手順”だけは叩き込んである。
民兵の列が丘を押し上げ、帝国軍の前列にぶつかる。
押しては引き、押しては引き――合図どおりに、前に出た部隊が一定距離で必ず下がる。
(勝てる、と思わせろ。前に出れば、森だ)
彼が描いていたのは、単純だがよく練られた策だった。
民兵と一部の直参でわざと押し込み、帝国軍に「この程度なら押し返せる」と思わせたところで、決められた合図で一斉に退く。
勝ちに乗じて追ってきたところを、獣道と森の縦深へ誘い込み、本陣の視界が切れたところで山陰に伏せた民兵が各個に叩く。
そのために、森の入口にはすでに手が入っている。
道を潰した倒木、足場の悪い斜面、そして上から転がせる石。追う兵の列が細くなった瞬間に噛みつくための、静かな牙だ。
だが――。
「……来ないか」
グライフェンタールは、丘の中腹で踏みとどまる帝国軍の列を見て、低く呟いた。
こちらの攻勢にはしっかり対応し、突破はさせない。
だが、決して“肩”から下には下りてこない。越えたらこちらの策に乗せられる――その線を、きっちり守っている。
「侯爵、どうやら相手は追ってきませんな」
側にいた旗手が言う。
「……ああ。戦をよく分かっている」
グライフェンタールは遠眼鏡を受け取って目に当てた。風に棚引く帝国青の旗。その下、馬上の人物の姿が見える。
過剰な装飾もなく、やたらと前に出て目立とうとする様子もない。顔はまだ若い。
だが、隊列のしなり方、伝令の走る線、前列の引き際――それらすべてが、「一度痛い目を見た者の戦い方」をしていた。
「オイゲン・フォン・ハルデンリート子爵の旗ですな」と、側仕えが告げる。
「若造め……」
グライフェンタールは、眼帯の下の空洞にまで響くような低い笑いを漏らした。
「戦の理をよく分かっているな」
欲に目が眩んだ貴族なら、ここぞとばかりに前へ出る。
武名を上げたい若い指揮官なら、「押し返せ」と叫んで森へ突っ込む。
だが、あの子爵はそれをしない。
(ここを決戦場にする気がない。しかし私が退けば、ここを通って後方を脅かせる。よく分かっている。だからこそ、厄介だ)
帝国軍が前に出てこない以上、グライフェンタールの策は半ば封じられた。
彼はそれを悟ると、あっさり次の指示を口にする。
「本日の攻勢はここまでだ。前列、無理に押すな。弓兵を森の縁に上げろ。丘の肩を削る程度でいい。来ないなら、その場に釘付けにせよ」
「よろしいのですか、侯爵。ここで一気に――」
「一気にやって崩れるなら、ベイリアの平野で崩れている」
短く切り捨てる声に、側近は口をつぐんだ。
グライフェンタールは、もう一度だけ遠眼鏡を覗く。
丘の“肩”に張り付く帝国軍は、しなるように受け、しなるだけで折れない。追撃の誘惑を最初から捨てている。
(あの若造がいるかぎり、この丘で決着はつかん。問題は――ベイリアだな)
自分が押さえているのは、「帝国の本気」の一角。
あちらには別の本気――ブレーメンやシャイロックがいる。
風が、丘の上を渡っていく。
グライフェンタールは眼鏡を降ろし、ため息をひとつだけ吐いた。
「戦が分かる者とやる戦は、嫌いではないが……さて、どちらが先に退きどきを見極めるか」
片目の将は、再び旗手に合図を送り、今日のところは「負けないための戦い」を続けることにした。




