第二次ベイリア平野会戦―誰がための剣―
楔の「芯」が砕け始めていることに、ヴァルトシュタイン伯爵はようやく気付いた。
側面からの騎兵突撃。直参の列が割れ、後方で馬と人が絡み合って倒れる。
前では民兵の列が崩れ、武器を捨てた者たちが敵の盾の陰に吸い込まれていく。
「まだだ……まだ終わっていない!」
伯爵は喉が裂けるほどに叫んだ。
「後詰めを出せ!第三列、前へ!民兵を押し出せ!押し潰せば勝ちだ!」
幕舎の後ろで控えていた兵たちがざわめく。命令の意味を理解している。
それはつまり――前線に残った民兵ごと叩き潰せ、ということだ。
近くにいた直参のひとりが、思わず口を開いた。
「ですが、閣下……前列の民兵はすでに半ば崩壊しております。これ以上押し出せば、自軍同士が――」
「黙れ!」
ヴァルトシュタインは振り返りざま、兵の胸倉を掴んだ。
「民兵など、いくら減っても構わん!我々貴族が勝てばよいのだ!帝都が、あのディートリヒが、ツチダごとき平民が好き勝手にできぬよう、ここで決着を――」
その言葉を、別の声が遮った。
「――民を捨てて勝つ戦に、意味はあるのですか、伯爵」
静かな声だった。
伯爵は掴んだ胸倉から手を離し、その声の主を振り返る。
そこにいたのは、自らがもっとも信頼していた隊長のひとりだった。
少年の頃から仕え、幾度も戦場を共にした男。
家格は低いが、剣と忠勤で地位を得た、いわば「直参の鑑」のような存在だ。
「……何だと?」
伯爵の目が細くなる。
隊長は、兜を外した。額には汗がにじみ、土と血がこびりついている。
だが、その目だけは、まっすぐだった。
「閣下。我らがこれまで剣を取ってきたのは、外敵から領地と民を守るためでした」
「それがどうした。今も同じことだ、“敵”と戦う!」
叫ぶ伯爵に、隊長は首を振る。
「違います。いま閣下が命じているのは――『民を殺せ』です」
周囲の直参たちが息を呑む。
だが、誰も止めようとはしない。止めれば、次に刺されるのは自分だと――誰もが理解していた。
ヴァルトシュタインの額に、怒りの血が上る。
「貴様……私に刃向かうつもりか」
伯爵の手が、腰の短剣へ伸びる。
その動きは、命令よりも先に“処刑”を告げていた。
「いいえ」
隊長は一歩、伯爵へ進み出た。
「刃向かうのは、“閣下の命令”に対してです。民を殺せと命じる主君には――もう、従えません」
剣が鳴いた。半寸ではない。抜かれたのは覚悟の音だった。
伯爵が短剣を抜ききるより早く、隊長の刃が踏み込む。
「やめ――」
最後の言葉は、音にならなかった。
隊長の剣が、甲冑の隙間を正確に射抜く。迷いのない一撃。
ヴァルトシュタインの身体が、崩れ落ちる。紅が土に広がり、幕舎にいた全員が、その色から目を逸らせなかった。
沈黙。
やがて、誰ともなく膝をついた。
「……隊長殿」
一人が震える声で言う。
「我らは……反逆者では」
隊長は、血の滴る剣を一度だけ振り、土に突き立てた。
「反逆でもいい。だが――民を殺す軍には、ならない」
そして、命令を短く切る。
「武器を地に置け。旗を倒せ。角笛を二度、白布を掲げろ。」
「降伏の使者をベイリアへ送れ。――“民兵を解放する”と伝えろ」
それが合図となった。
直参の兵たちが次々と剣を外し、槍を倒す。
陣に連なる旗が、ひとつ、またひとつと地面に伏していく。
前線ではまだ押し合いが続いていた。だが――角笛の音が変わった瞬間、押す力が鈍る。
命令の糸が、ここで断ち切られたのだ。
「伯爵、戦死――!?」
その報が、じわじわと陣全体に広がっていく。
民兵たちの心を縛っていた「恐怖」の源が消えたことを、誰もが直感で理解した。
前線では、盾越しにその変化が伝わってきた。
「シャイロック殿!」
ブレーメン公爵が叫ぶ。
「敵の押しが、止まりました!」
城壁の上のシャイロックが、敵陣を一瞥する。旗が倒れ、武器が捨てられていく。
「……やはりな」
彼は短く頷き、ブレーメンの号令に重ねるように叫んだ。
「全軍、追撃するな!押さえるだけだ!武器を捨てて手を上げた者は、まとめて盾の後ろへ!」
「直参は縄を、民兵は水を!――分けて収容しろ!」
「降伏せよ――!」
「今なら生きて帰れるぞ!」
帝国側の声が、再び平野に満ちる。
その日のうちに、三万の大軍は、ほとんど戦わずして崩壊した。
ヴァルトシュタインの直参の多くは、伯爵殺害の罪を覚悟していた。
だが帝国軍は布告通り、武器を捨てた者に剣を向けなかった。
後に記録されることになる。
――ベイリア第二会戦。
――ヴァルトシュタイン伯爵、味方の剣に倒れる。
――直参兵多数、武装解除の上で投降。
――民兵の死者、最小限。
剣は、この日もまた、民を守るために使われた。




