第二次ベイリア平野会戦―解放の鍵―
ヴァルトシュタイン伯爵は、ベイリアの防御陣をただ一瞥しただけだった。
城壁。平野の「喉」を塞ぐ盾と槍。
数の上では、こちらが三倍。相互監視で民兵の統率も、最低限は保たれている。
(ならば――潰すだけだ)
伯爵は迷いなく命じた。
「全軍、前進。楔を組め。民兵を先頭、そのすぐ背後に直参を続けろ。踏みとどまる者は押し出し、退く者は刺せ」
喉元に向かって、灰色の楔が伸びていく。
先頭は槍を持った民兵、そのすぐ後ろに、鉄で固めた貴族直参の列。
逃げ道など、最初から考慮されていない隊形だ。
――だが、ベイリアの「喉」は、地形ではなく仕込みだった。
ここはもともと麦に向く、柔らかい土だ。ツチダが畑を見て「柔らかい土ですね」と言っていたのを、シャイロックは思い出す。
柔らかいなら、踏めば沈む。沈めば、隊列は割れる。
前夜、低地に浅い溝を刻み、用水を回し、わざと乾かさなかった。雨の残りも逃がさない。
両翼には柵と逆茂木。楔が広がろうとすれば、左右から“噛んで”戻す。
ただ一筋――盾の背後へ引き込む道だけは、束ね藁と板で固めてある。沈ませないのは、逃げるための足だけだ。
ベイリア側の前線で、ブレーメン公爵はその楔を見て短く息を吐いた。
泥濘の匂いが鎧の隙間にまで染みている。
本陣――城壁の上にはシャイロック伯爵がいる。平野全体を見下ろし、合図の準備をしていた。
「真正面から、来ましたな」
ブレーメンはそれ以上何も言わず、号令を飛ばした。
「前列、盾構え。槍は胸より上を狙うな。押しとどまれ――できる限り、民を殺すな!」
重装歩兵たちが、畝と農道で形作られた「喉」に大盾を並べる。
盾の下で地面はすでに黒く光り、踏み込むたび、ぬちゃりと足を吸った。
楔の先端がその泥を踏んだ瞬間、隊列の速度が目に見えて鈍る。
押す者は前しか見ない。引く者は後ろを見られない。
泥は、命令より先に人を並べ替える。
やがて、最先端が激突した。
金属と木がぶつかる音が、平野に一斉に散る。
民兵の槍が盾に弾かれ、盾の裏から突き出された槍が、彼らの足元と肩を狙って突き込まれる。
押し合い、軋み合い――だが楔は広がれない。左右は柵で縛られ、足元はぬかるみで噛まれている。
前が止まれば後ろが押す。押されれば、前は沈む。
沈めば、槍は上がり、盾は傾く。
その中で、ブレーメンは見てしまった。
崩れかけた民兵の一人が、震える手で槍を落とそうとした瞬間。
すぐ背後の直参兵が、その背中に躊躇なく槍を突き立てたのを。
「武器を捨てるな!裏切りは死だッ!」
倒れた身体が泥に沈み、泥が赤を飲む。
その上を、鉄の列が無言で踏み越えてくる。
ブレーメンの目が細くなる。声は低くなった。
「……“道”を塞いできましたな」
その言葉が終わるより先に、城壁の上でシャイロックが片手を高く掲げた。
青銀の小旗が一度だけ、鋭く翻る。――合図だ。
ブレーメンは顔色一つ変えず、手を上げ返した。
「騎兵、前進。――芯を折れ!」
次の瞬間、平野の脇で息を潜めていた騎兵が一斉に動き出した。
畝と畝の間を駆け抜け、農道を斜めに横切り、楔型の“背”へ大弧を描く。
泥濘の喉に吸われて進めない前列とは違う。乾いた畦を選んだ蹄は速い。速さが、そのまま刃になる。
直参兵が密集した一点に、側面から鉄の楔が叩き込まれた。
「ぐっ――!?」
後方からの衝撃に、ヴァルトシュタイン軍の直参列が大きく揺らぐ。
馬の肩が鎧を割り、槍の列がほどけ、貴族直参たちが悲鳴とともに泥へ転がった。
押す力の“芯”が、横から砕かれる。
「今だ。前へ!」
ブレーメンの号令と同時に、ベイリア側の盾列が一歩、二歩と前進する。
盾の壁がわずかに開き、固めておいた一本の道が露わになる。
その隙間へ、武器を捨てた民兵たちが次々と吸い込まれていく。
「武器を捨てた者はこちらへ!走るな、押すな!」
「盾の後ろだ!頭を下げろ、目を閉じるな!」
柵と泥で縛られた喉の中で、楔はもう楔ではいられない。
押す者は押せず、退く者は退けず、ただ“挟まれて”立ち尽くす。
そこへ、側面からの騎兵が直参を狙って切り結ぶ。倒れ込むのは鉄の列ばかりだ。
民兵の列は、盾の影に逃げ込む道を見つけた瞬間、目の色が変わる。戦意ではない。生きる色だ。
城壁の上でシャイロックが、敵将の陣の方角を一度だけ睨んだ。
(押し潰せば勝ちと思っている顔だ)
なら、その“押す力”の根元だけを折ってやればいい。
ベイリアの喉で、二つの楔がぶつかり合い――ひとつだけが、泥の中から崩れ始めていた。




