第二次ベイリア平野会戦―恐怖の枷―
ベイリア平野まで二日ほどの野営地。
ヴァルトシュタイン侯爵は、ベイリアでの最初の戦の報告を、三度読み返した。
・降伏、離反、逃亡。戦死者、ほとんどなし。
・残ったのは、アルベルスベルク伯爵の直参二千のみ。
「……戦ではなく、狩りだな」
侯爵はそう吐き捨て、次の報告――帝都からの布告と、ベイリア側の戦術説明に目を落とした。
民兵に向けた赦免。
武器を捨てれば帰郷可。
路銀と種を支給。
シャイロック伯とエッシェンベルク侯の“抜け道”。
「法を刃に、パンを刃こぼれに使ったか」
ヴァルトシュタインは静かに笑った。だが、その笑いには愉快さはなかった。
「だからこそ、今度は――」
彼は文官たちを下がらせ、直属の将校だけを残した。
「命令を一つ、厳命する」
低い声が、帳の下で重く響く。
「民兵が降りようとしたら、斬れ」
ざわめきが、たしかに一瞬だけ走った。
しかし誰も、それを言葉にはしない。
「前回のような真似はさせん。投降は伝染病だ。ひとり武器を捨てれば、十人が真似をする。ならば最初のひとりを“見せしめ”にすればよい」
彼は指で机を叩き、続けた。
「陣では連座を徹底する。什伍――十人を一組にせよ。ひとり逃げれば九人で責を負う」
「さらに各百人隊に目付を置け。直参から選ぶ。
夜営は水場と糧秣、門と外周を直参が押さえる。民兵だけで固まる場所を作らせるな」
書記官が慌ただしく走り出し、命令は紙と口伝で陣中に広がっていく。
ヴァルトシュタインはさらに付け加えた。
「信頼できる直参たちの“下”に民兵をつけろ。
民兵は自分たちの隊長を選ばせるな。常に目を光らせる者を上に置く。
……家畜には牧人を付けるのが一番だ」
言葉の選び方に、彼の人間観がそのまま滲んでいた。
やがて三万の軍勢が動き出した。
道中、村々の掲示板には帝都の布告が貼られている。
読み上げる声が風に乗るたび、兵たちの耳がわずかにそちらを向いた。
「武器を捨てれば赦免……」
その呟きを聞きつけた直参の兵が、すぐさま横から腕をつかむ。
「おい。その先を口にしたら、目付に報告だ」
陣では連座が徹底され、誰かが夜陰に紛れて一歩でも外へ出れば、同じ什伍の仲間全員に責がかかる。
「帰りたい」と口にすることすら、今や危険だ。
それでも、いくつかの小さな“消失”は起きた。
夜の見回りの隙を突いて、村に親類のある者が一人、二人と消える。
だが、シャイロックのときのように、一つの火から十人二十人が抜けるような大きな綻びは、たしかに防がれていた。
ベイリア平野が見えてくるころには、数だけを見ればほとんど減っていなかった。
直参五千、民兵二万五千。
三万の軍勢は、まだ三万のままだ。
――ただし、隊列は長い。
先頭が地平線を越えても、後尾はまだ遠い村の影を踏んでいる。
そして足取りは重い。
投降を封じるために敷かれた網は、敵の布告よりも先に、兵たちの心を締め上げていた。
「……よく繋ぎ止めたものだ」
ベイリアの城壁からその軍列を眺めたシャイロック伯爵は、素直にそう評価した。
「今度は、簡単には崩れぬ顔をしておる」
隣でブレーメン公爵が、目を細める。
「ええ。逃げたい奴ほど、顔が固くなる」
シャイロックは小さく笑った。
「だが――“帰れない”と知った兵は、次に何を探すと思います?」
ブレーメンは問いに答えず、ただ平野の先を見た。
その視線の先には、帝国軍の陣地と、過剰なまでの兵糧の山がある。
ヴァルトシュタインは、逃げ道を塞いだ。
ならば今度は、別の道を示す番だ――と、二人の老将は同じことを思っていた。




