帝都会議――剣は抜かずに勝つ
報は早かった。
皇弟アウグストの推戴、アーネンエルベ正統帝国の名乗り。
西に旗が林立し、東西を二分する言葉が一夜にして増殖した。
貴族連合軍は西部各地で反旗を翻す。
最も近い軍は帝都まで最短三十日。
その間に広がるのは穀倉地帯ベイリア平野、帝都と西部を繋ぐ街道が貫くベイリアの街――恐らく、ここが主戦場になる。
ツチダは軍議の間の壁際から地図を見下ろした。
麦に適した平野だ、とまず思う自分に、苦笑する。
帝都、軍議の間。
卓を囲むのは、新帝ディートリヒ、宰相リヒャルト、帝室近衛騎士団長クローディア、内務卿カシアン・フォン・エッシェンベルク侯爵、老練な軍略家ブレーメン公爵、そしてツチダ。
リヒャルトが書簡の束から一枚を抜き、反乱軍の構成を読み上げていく。
「正統帝国軍。
盟主、グナイスト・フォン・クロプシュトック伯爵。
副盟主、カスパール・フォン・ヴァルトシュタイン侯爵。
総司令官、ヴィルヘルム・フォン・グライフェンタール侯爵。
西部諸侯多数、これに与す」
ディートリヒは顎に手を当て、短く言った。
「……盟主と副盟主はともかく……グライフェンタール侯は、無駄な血は好まぬ男だ」
そこで、ブレーメン公爵がわずかに身を乗り出した。
灰色の髪に刻まれた古傷が、燭の光を鈍く跳ね返す。
「陛下のご評価の通りですな」
低く掠れた声には、何度も戦場で土煙を吸ってきた重さがあった。
「グライフェンタールは、欲のためには動かぬ男。兵站を軽んじず、兵を使い捨てにもせぬ。ゆえに厄介ですが……裏を返せば、あやつは“兵の心が離れた戦”は続けられませぬ」
公爵は指先で地図の上、西部の印を軽く叩く。
「民兵が飢え、徴募兵が帰郷を望むと知れれば、グライフェンタールは、真っ先に退きどきを探すでしょう。敵と見るべきは、あの男よりも、その背後の欲に目が曇った者どもですな」
ツチダには、「兵の心が離れた戦」という言葉が、妙に胸に刺さった。
畑でも、農民の心が離れた耕作は続かないのと同じだ。
リヒャルトが、今度は自軍の数字を読み上げる。
「ディートリヒ陛下直参、皇帝親衛騎士団五千。帝室近衛騎士団一万。帝国常備軍、三万。諸侯からの忠誠表明および兵力提供は、現時点で確認中――」
「剣を数えるより先に、命を数える会議であるべきですわ」
淡々とした声だったが、室内の視線がすっと彼女に集まる。
ツチダは、その言葉に救われたような気がした。
彼女は続ける。
「彼らは欲丸出しで、私事の戦を企てています。しかし、貴族の指揮官だけでは戦争はできません。
実際に生命を賭けて剣を振るうのは、徴募された農民や下級兵士たち。彼らの士気は低い。勝利【だけ】なら容易ですわ」
そこまで言って、言葉を置いた。
「しかし……戦場で民を殺すのは、勝っても国を損ないます」
ディートリヒが短く頷く。
「その通りだ。我々は必ず勝つ。だが勝利は、民の死体の山の上にあるべきではない。まず、徴募兵、下級貴族の離反を図る」
その言葉に応じるように、カシアン・フォン・エッシェンベルク侯爵が一歩進み出た。
帝都で最も「急がない」ことで知られる男の段取りは、今日もやはり急いではいない。
「では、拙領の私兵を薄く伸ばし、街道沿いに“抜け道”を用意いたしましょう」
低く穏やかな声が、地図の上に落ちていく。
「逃亡を手助けし、我がエッシェンベルク領と直轄領に受け皿を。飢えた者に罪は無い。温かい汁と黒パン、そして公的に効力のある赦免の印を」
侯爵は扇を畳み、もう一手を置いた。
「それに……盟主と副盟主は不仲。補給帳簿に小さな嘘を混ぜれば、相互不信はすぐ芽吹きましょう。『誰かが誰かの列に遅配を仕掛けている』という形で」
ツチダは地図に手を伸ばし、ベイリア平野のあたりを指でなぞった。
「腹が減っては戦はできぬ……俺の故郷の言葉です」
視線が少しだけ彼に集まる。
「降れば食える。逃げれば生きられる。橋は落とさない。代わりに、札を置きましょう。『作業半日でパン一かご』って」
畑で雇い賃を決めるみたいに、と心の中で付け加える。
リヒャルトが、すかさず続けた。
「法の札も配ろう。『私兵規制違反の隊は、武具を地に置けば赦免』――文言は短く」
ナイトハルトが前に出て、地図の上に青い印を三つ置く。
「街道の三枢――橋、市場、井戸。ここに巡検隊を置きましょう。乱戦を作らせない。夜襲は禁ずる」
クローディアが剣帯に指を触れ、静かに言う。
「私は近衛を率いて前に出ます。恐らく、逃亡者を追う私兵が出るはず。その矛を受け止める役は、わたくしどもが」
ツチダは、その言葉の裏にある覚悟を感じて、拳を握った。
ディートリヒが結語するように、ゆっくりと口を開いた。
「布告を三つ。
一、私兵規制違反の隊に対し、武装放棄と帰郷の赦免を公示する。
二、民兵には安全通行、路銀と、種を配る。帰還を望まぬ場合はエッシェンベルク侯爵領で保護を受けられる。
三、補給妨害・徴発の強要は重罪。摘発しだい、ただちに軍法会議に付す。
――法は剣だ。だが切り口は食とする」
軍議の間の灯が一段低くなり、会議は散じた。
廊下に出たところで、ツチダはぽつりと呟く。
「人は腹が満ちれば、だいたい満足しますからね」
エッシェンベルク侯爵が口元だけで笑った。
「では、よく食わせて差し上げねばなりませんな」
クローディアは天蓋の彫刻を一度だけ見上げ、短く言う。
「剣は、最後に」
ディートリヒはその言葉を受けて、静かに頷いた。
「剣は、守るために」
帝国史上初の内乱。
つまり――民を守り、殺さずに勝つ戦いが、ここに始まった。




