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異世界転生農家  作者: 今無ヅイ
帝国内乱編
36/40

異なる遺言、絡み合う権威

伯爵は、一字一句を噛みしめるように朗々と読み上げた。


「――次期皇帝は、皇弟アウグストとす。秩序と伝統を守り、国を治めよ」


議場の空気が、わずかに傾いたようにツチダには見えた。

誰かが小さく息を呑み、誰かが目を伏せ、誰かがほっと肩をゆるめる。

祭祀だの、文化だの、安定だの。

そういう都合のいい言葉が、前列の貴族たちの頭の中で一斉に起き上がったのだろうと、素人目にも察せられた。


壇上のリヒャルトは動かない。

代わりに、机の上から指先だけをわずかに上げた。


「侍従長。宰相所管の正本を。封は私の手では解かぬ。証人三名――司法院、学術院、商議院の代表、前へ」


青と銀の腕章が三つ、静かに前に進み出る。

ツチダは、土の酸度でも測るような真顔で、その段取りを見ていた。


(法の世界にも、作業手順書みたいなのがちゃんとあるんだな)


今さらながら、そんなことを思う。

封蝋が割られ、巻物が開かれる。

証人の一人が、はっきりとした声で本文を読み上げた。


「――次期皇帝はディートリヒとする。民の糧を守り、国に根を張るように。才幹あれば、身分に関係なく用いること」


さきほど伯爵の口から出た「次期皇帝」と、同じ言葉のはずなのに、

こっちの文句は、別の重さでツチダの耳に落ちてきた。


何度も聞かされてきた皇帝の“意向”が、今この場でようやく正式にラベルを貼られた――

そんな、種袋に名前が印刷されたときのような感覚がした。

リヒャルトはそこでようやく伯爵のほうへ顔を向ける。

「印璽の検分を。鷲の翼根に、微刻の橄欖枝があるはずだ」


伯爵の封蝋が証人に差し出される。

学術院の老教授が拡大鏡を当て、しばらく覗き込んでから首を傾げた。

「……見えませぬな」

「古い印璽なら、擦り減ってもおかしくはない」


伯爵がすかさず言い添える。

ツチダは、その言い訳にどれくらい“肥料”が混ざっているか測りかねて、口を閉ざしたままだ。

リヒャルトは間髪入れず、侍従長の封蝋を示した。


「こちらはどうだ」

老教授の唇が、わずかに上がる。


「ございます。枝は三つに分かれ、先端に小点が二つ」

司法院の代表が、短くまとめる。


「鑑定の結果、宰相所管の遺言が真正。伯爵所持のものには疑義あり。提出者には、経緯の説明義務が生じる」


空気が、今度は逆向きに流れ始める。

さっきまで伯爵のほうへ傾いていた視線が、じわじわとリヒャルト側に戻っていくのが分かった。

それでも、伯爵の姿勢は崩れない。


「疑義がある、と。なるほど、では審理だ。時間をいただこう」


時間――その言葉の重さだけは、ツチダにもよくわかる。

畑でも戦場でも、時間ほど高くつく肥料はない。


伯爵は扇を閉じ、最後の一刺しを置く。


「審理のあいだ、摂政が必要だ。誰にするか――それもまた、陛下の御心に問うべきであろう」


アウグストは席で目を伏せていた。

遠目にも、その視線が絵画ではなく、床の模様をさまよっているのが分かる。

リヒャルトは、正本の巻物を高く掲げた。


「帝国基本律に従う。審理も、公示も、食の供給も――すべて“今”からだ」

ツチダは、その背中を見つめる。

法の言葉で土台を固めようとする弟と、

たった一枚の紙で帝国を自分の側へ引き寄せようとした伯爵と。


遺言は二つ。だが、帝国は一つだ。


どちらの言葉が、明日の朝に人々の口の中で咀嚼されているか――

その答えは、もう宮廷の外の通りで、庶民たちの舌が決め始めているのだろうと、ツチダは思った。

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