異なる遺言、絡み合う権威
伯爵は、一字一句を噛みしめるように朗々と読み上げた。
「――次期皇帝は、皇弟アウグストとす。秩序と伝統を守り、国を治めよ」
議場の空気が、わずかに傾いたようにツチダには見えた。
誰かが小さく息を呑み、誰かが目を伏せ、誰かがほっと肩をゆるめる。
祭祀だの、文化だの、安定だの。
そういう都合のいい言葉が、前列の貴族たちの頭の中で一斉に起き上がったのだろうと、素人目にも察せられた。
壇上のリヒャルトは動かない。
代わりに、机の上から指先だけをわずかに上げた。
「侍従長。宰相所管の正本を。封は私の手では解かぬ。証人三名――司法院、学術院、商議院の代表、前へ」
青と銀の腕章が三つ、静かに前に進み出る。
ツチダは、土の酸度でも測るような真顔で、その段取りを見ていた。
(法の世界にも、作業手順書みたいなのがちゃんとあるんだな)
今さらながら、そんなことを思う。
封蝋が割られ、巻物が開かれる。
証人の一人が、はっきりとした声で本文を読み上げた。
「――次期皇帝はディートリヒとする。民の糧を守り、国に根を張るように。才幹あれば、身分に関係なく用いること」
さきほど伯爵の口から出た「次期皇帝」と、同じ言葉のはずなのに、
こっちの文句は、別の重さでツチダの耳に落ちてきた。
何度も聞かされてきた皇帝の“意向”が、今この場でようやく正式にラベルを貼られた――
そんな、種袋に名前が印刷されたときのような感覚がした。
リヒャルトはそこでようやく伯爵のほうへ顔を向ける。
「印璽の検分を。鷲の翼根に、微刻の橄欖枝があるはずだ」
伯爵の封蝋が証人に差し出される。
学術院の老教授が拡大鏡を当て、しばらく覗き込んでから首を傾げた。
「……見えませぬな」
「古い印璽なら、擦り減ってもおかしくはない」
伯爵がすかさず言い添える。
ツチダは、その言い訳にどれくらい“肥料”が混ざっているか測りかねて、口を閉ざしたままだ。
リヒャルトは間髪入れず、侍従長の封蝋を示した。
「こちらはどうだ」
老教授の唇が、わずかに上がる。
「ございます。枝は三つに分かれ、先端に小点が二つ」
司法院の代表が、短くまとめる。
「鑑定の結果、宰相所管の遺言が真正。伯爵所持のものには疑義あり。提出者には、経緯の説明義務が生じる」
空気が、今度は逆向きに流れ始める。
さっきまで伯爵のほうへ傾いていた視線が、じわじわとリヒャルト側に戻っていくのが分かった。
それでも、伯爵の姿勢は崩れない。
「疑義がある、と。なるほど、では審理だ。時間をいただこう」
時間――その言葉の重さだけは、ツチダにもよくわかる。
畑でも戦場でも、時間ほど高くつく肥料はない。
伯爵は扇を閉じ、最後の一刺しを置く。
「審理のあいだ、摂政が必要だ。誰にするか――それもまた、陛下の御心に問うべきであろう」
アウグストは席で目を伏せていた。
遠目にも、その視線が絵画ではなく、床の模様をさまよっているのが分かる。
リヒャルトは、正本の巻物を高く掲げた。
「帝国基本律に従う。審理も、公示も、食の供給も――すべて“今”からだ」
ツチダは、その背中を見つめる。
法の言葉で土台を固めようとする弟と、
たった一枚の紙で帝国を自分の側へ引き寄せようとした伯爵と。
遺言は二つ。だが、帝国は一つだ。
どちらの言葉が、明日の朝に人々の口の中で咀嚼されているか――
その答えは、もう宮廷の外の通りで、庶民たちの舌が決め始めているのだろうと、ツチダは思った。




