土の顔、農の理
冬は畑を黙らせる――そう信じていた大人たちの前で、芽吹きは小さく舌を出した。
帝国の北端、国境沿いの村、ブランツ。
雪はまだ脛まであるのに、ツチダが並べさせた木枠の中では、麦の糸がうす緑に震えている。
「寒いなら、寒いなりのやり方があるんです」
そう言って彼は、火ではなく“理”で土を温める。
籾を起こし、芽を急がせ、家畜の息で囲いの中の空気を巡らせる。
猟兵たちは風除け柵を雪に噛ませ、子どもたちは指先を真っ赤にして藁を編む。
村長は手袋の上から掌を合わせた。
「冬に畑が笑う日が来るとはな」
クローディアは白息を吐き、目を細める。
「理は季節に負けません。季節のほうが、理に歩み寄るのです」
遠く、狼の遠吠え。
近く、芽の鼓動。
北の大地は無口だ。だが無口なものほど、約束をよく守る。
◇
南へ降りれば、土は粉をふき、風は塩のように頬を刺す。
リュステンの畑は、降らない雨を待つうちに裂け目を増やしていた。
ツチダは杭を打ち、紐を張り、子どもたちに言う。
「一本の紐が水の道になる。道が増えれば、畑は迷わない」
滴下灌漑――言葉は難しいが、しくみは簡単だ。
高低差でゆっくり落ちる水が、根の高さだけを濡らす。
バケツ一杯が、畝を一筋ずつ歩いていく。
「水は欲張らせないのがコツです」
クローディアは頷き、日差しの下で手帳を閉じた。
「帝国の法も、かくありたいものですね。一度に流さず、必要なところに、必要なだけ」
笑い声と、遠雷のような足音。
市場から戻るロバの蹄が乾いた地面を叩く。
畑の端で、初めての若葉が風に揺れたとき、誰かが小さく拍手をした。
南は乾いている。だからこそ、最初の一滴が祝祭になる。
◇
中央高原、アーベルの空は広い。
見渡す限り、畝は定規で引いたように揃い、風は背丈を揃えた麦の上を均等に歩く。
ここでは実験が“標準”になる。
ツチダ式の肥培表は壁にかけられ、種子の袋には播種日と土の癖が記されていた。
名もなき工夫は名を与えられ、名を得た工夫は、誰でも真似できる“理”へと降りてくる。
視察に来たナイトハルトが口笛を鳴らす。
「この整備、軍の補給路と同じだ。迷いがない」
ツチダは肩をすくめた。
「俺の故郷では、腹が減っては戦はできぬ、と言います」
風が地図をめくり、畑が応えるようにさざめいた。
ここから帝都までは一本道。
畝と畝の間に、帝国の未来が等間隔に並んでいる。
◇
帝都の議事堂は、大理石の冷たさを誇っている。
だが、その中央で声を発した少女――いや、もはや少女と呼ぶには責任を背負いすぎた女――クローディアの言葉は、温度を持っていた。
「民の食は、帝国の命脈です。理は誰のものでもなく、皆の明日のためにあります」
並ぶ貴族、学士、軍人。視線は重いが、彼女の背筋はそれより強い。
ツチダは列の端から見守りながら、思う。
現場で泥を踏み、子どもの背丈に膝をついて話してきた時間が、
今この場で“帝国語”になって響いているのだと。
皇帝が短く頷く。
「その理、帝国の基礎とせよ」
拍手は、最初は遠慮がちな雨。やがて天蓋を打つ驟雨になる。
豊穣の報告は、同時に前触れでもある。
収穫を狙う影は、いつだって倉と人心の近くに集まるものだ。
だが今は、まだ祝え。
理が声を得た夜に、人々は長く眠り、明日を信じる権利を取り戻したのだから。




