細道の待ち伏せ
直轄地で泥をいじりはじめて、もうすぐ半年、つまり180日が経過しようとしていたころ。
まだ朝露の残る時間に、馬埃をあげて一騎が屋敷へ飛び込んできた。青銀の双鷲――宰相府の封蝋が揺れる。
「帝都からの急使です」
封筒を受け取ったクローディアが、さらりと目を通し、すぐこちらを見た。
「――ツチダ殿。父上が、直接お話をお望みです」
「え、俺、なんかしでかしましたかね」
思わず本音が漏れる。報告書は真面目に出しているつもりだ。
クローディアはくすっと笑って首を振った。
「ふふ、“しでかした”というより、“耕しすぎた”のでしょう。直轄の数字と報告が、宮廷の耳にも届きましたから。ご安心を、これは中間報告ですわ」
「中間報告に皇帝陛下は重くないですか」
「父上は、理と数字にはお強い方ですから、ご興味が湧いたのでしょう。――さ、早速準備をしましょう」
そういうわけで、俺はあっさりと帝都行きが決まった。
護衛をつけた馬車に乗る俺といろいろ報告書だったりの荷物、先頭を行くのはいつものように馬上のクローディアだ。
青銀の外套が朝の光を跳ね返している。
(俺も乗馬、できるようになったがいいのかな……)
道は丘陵を縫い、村と村のあいだでは人影が薄くなる。
昼を少し回ったころ、細い林間の道に差しかかった。両側から若い樹が枝を伸ばし、空は葉でまだらに切り取られている。
雨が流れたあとでもないのに、路肩の土が不自然に固く、ところどころえぐれている。
車輪の跡に混じって、妙に軽い足跡がいくつか――。
そのときだった。
ぐしゃ、と嫌な音がして、馬車が片側にがくんと沈む。
御者の叫び声、荷のきしみ、馬のいななき。
「ツチダ殿、降りてはいけません!」
クローディアの声が、いつもの柔らかさを失って鋭くなった。
同時に、彼女の周囲の魔素がざわりと揺れる。俺には色までは見えないが、空気の密度が一段変わったのはわかった。
前方の道の先、左右の茂みから、黒い外套がぬっと浮かび上がる。
数は――五。前に二人、左右に三人。弓弦と弩の音が、風より先に耳に届いた。
「名を名乗れ!」
クローディアが宣言した瞬間、返事の代わりに弦が鳴る。
二条のボルトが、一直線に馬車へ――。
金属がはじける音。クローディアの剣が一本を払い、もう一本を、彼女の右手から半歩前に浮かんだ“光の剣”が受け止めた。青白い刃が一瞬、空気を裂く。
(あれがクローディアの……魔力剣!)
「御者は伏せて!ツチダ殿は荷の陰へ!」
俺は言われるまま荷の陰に身を潜めつつ、視線だけを前へ走らせた。
黒外套たちは、手慣れた挟撃の形で迫る。
前方の二人は小盾と短槍を構え、壁を作るように歩みを詰めてくる。
左右の三人は木立を盾に、短弩と刃でじりじり距離を詰める。
(素人じゃない。誰かが金と時間をかけて仕込んだ動きだ)
クローディアは一歩、馬車から前に出た。
土の柔らかい帯を足裏で確かめ、右手の剣をわずかに下段に構える。背中側には、魔力で形づくった剣――青銀の刃が、4本、彼女の肩越しにゆらりと浮かんだ。
「――来なさい」
静かな一言と同時に、先頭の槍が突き出される。
クローディアは刃を立てず、柄で槍の根元を叩き落とした。金属と木のぶつかる音。
そのまま踏み込んで、魔力剣で握っている拳の甲を斜めに打ち上げる。骨が鳴り、槍が落ちた。
落ちた槍を彼女は踏み返す。柄尻を土に固定し、二人目の膝に向けて押し出した。
鈍い音と悲鳴。前列が崩れる。
右の茂みから、短弩の連射。
矢の向きはわからない。だが、土の上に落ちる影の数で、おおよそ軌道は読める。
俺は荷の奥に手を伸ばし、いつも持ち歩いている木灰の袋を掴んだ。
(急がせない窯から出した、よく乾いた灰だ。――今だけは、急がせてもらう)
袋の口を歯で引きちぎり、風上に向けて全力で放る。
破れた袋から灰が噴き出し、白い霧の壁になって細道いっぱいに広がった。
「うっ……」「見えん!」
黒外套たちの動きが一瞬鈍る。
クローディアはその隙を逃さない。灰の向こうへ二歩滑り込み、柄打ちで顎、返した剣で手首。
切るというより“叩く”。血管と筋を外し、刃は浅く肉だけを撫でる。
もう一人は魔力剣で足首の外側をなぎ、土に転ばせた。
左側から、踏みしめる足音。灰の薄い帯を避けるように、路肩を回り込んでくる軽い足取りがひとつ。
狙いは――。
「……俺か」
思わず呟きながら、すぐそばに立てかけていたA字水準器を掴んだ。
木の三角枠に紐と重りが付いている、ただの測量道具だ。だが、材は意外と丈夫だ。
黒外套の影が荷の端から飛び込んでくる。斜め上からの斬り下ろし。
俺は右の脚を引き、三角枠の片脚で刃を受けた。木が悲鳴を上げる。
同時に、もう片脚を喉元に差し込むように押し上げる。
ぐ、と息が詰まった音。男の動きが一瞬止まる。
その一瞬に、横から青銀の外套が飛び込んだ。
クローディアの剣の柄が、男のこめかみを横から打ち抜く。
黒外套が崩れ落ちた。
「ご無事ですか、ツチダ殿」
「……はい。手は震えてますけど、生きてます」
正直に言うと、膝も少し笑っていた。
クローディアは短くうなずき、視線をすばやく周囲へ走らせる。
「人数が合わない……?」
倒れているのは四つ。
俺は息を整えながら、土を見た。
灰の下、路肩の土が一箇所だけ不自然に“重い”。足跡も影も見えないのに、そこだけ土の沈み方が違う。
(ここだけ、土の呼吸が詰まってる……)
俺の“農の理”が、そこを指さしているような感覚があった。
俺は残っていた小さな灰袋をひとつ手に取り、その“重い”一点に向かって投げつけた。
「そこだ!」
袋が何か硬いものに当たる感触。ぱん、と弾けて灰が舞う。
空中に、ありえない“形”で灰が留まった。人ひとり分の輪郭――。
魔力剣が風を切り、その灰の輪郭を水平になでる。
隠蔽の魔法が破れ、黒外套が姿を現した。手には細身の短剣、もう一方の手には、小さなガラスの瓶。
「え?」
男が驚く間もなく、クローディアは踏み込んだ。
まず足の甲を一閃。重心を崩し、次に肘を柄で打ち折る。瓶が飛び、土に落ちて砕ける。
最後に、喉元ぎりぎりで剣を止めた。
「隠れたつもりなら、土の上を選ぶべきではありませんわね……お名前を伺ってもよろしいかしら」
「……誰が、言うかよ」
荒い息の合間に、男は絞り出すように吐き捨てた。
「帝室を惑わす、君側の奸を掃え――それだけだ」
言葉の端々が、どこかで聞いた煽動そのままだ。
クローディアは短く目を細め、黒外套の袖をめくる。
そこには、白手袋を象った小さな刺青。
「やはり……」
彼女は深く息を吐き、剣を納めた。
「殺しはしません。ですが、帝都で“誰が命じたか”はきっちりと伺います。――ツチダ殿、拘束をお手伝いいただけますか」
「はい。縄の結び方なら、牧柵で慣れてます」
俺たちは倒れた刺客たちの武器を遠ざけ、布で目と口を覆い、縄で手足を縛った。
御者は予備のピンを取り出し、外されていた車輪を黙々と元に戻していく。
車軸の割りピンは、刃物の跡がくっきり残るほど綺麗に切られていた。
「出立前に細工をされましたわね。道中での足止め、その隙に待ち伏せ。……手間のかかった悪意です」
「灰を急がせてよかったですね」
俺が言うと、クローディアはようやく口元をゆるめた。
「順序が、命を救うこともありますわ。灰は目に、私は手に。――そしてあなたは、生きて帝都へ行く」
彼女は懐から封蝋と紙を取り出し、簡潔な文を走らせる。
『道中、襲撃を受く。捕縛五名。隠密魔法使用。袖に白手袋の刺青。宰相府において、詳細調査を要す』
封をして、護衛の一人に託す。
「先行の伝令として帝都へ。私たちは予定通り向かいます」
馬車が、きしみながら再び動き出す。
細道を抜ければ、やがて大路。そこから先は、帝都まで見知った道のはずだ。
俺は胸の顧問証牌を指先で軽く叩き、深く息を吸った。
(秤の前に立つまで――まず、生きて辿り着く。それが今の順番だ)
振り返れば、白い灰がまだ林間にうっすら残っている。
やがて雨が降れば、あれも土に混じり、ただの栄養になるだろう。
前を向くと、遠くに帝都の塔が白く伸びていた。
御前の呼び声は、まだその先にある。だが、誰かの刃は、もうこちらまで届いている。
クローディアは愛剣の柄に手を添え、空を一度だけ見上げた。
「――行きましょう、ツチダ殿」
「はい。畑の泥を、帝都にも少し持ち込んできます」
青銀の外套と土色の上着が並び、細道を抜けていく。
林の影から、大路のひかりへ。
畑で育った言葉と、帝都の秤が出会う場所へ向かって。




