御前の一言
宮廷・評議の間。
金と青の垂幕の下で、いつもより空気がざらついていた。
列の先頭で、クロプシュトック伯爵が白手袋をきしませながら卓を叩く。
「恐れ多くも――皇女殿下に泥を踏ませ、膝を汚させるとは!何たる不敬、何たる背信!平民ごときと同じ畝に立たせるなど、帝室に対する辱めに他ならぬ!」
声が石壁に跳ね返り、左右に並んだ門閥貴族たちが一斉にうなずいた。
「まこと、聞き捨てならぬことにございますな」
「殿下の御身を泥にまみれさすとは、身のほど知らずにも程がある」
「ツチダとやら、即刻縛めて獄に下すべきでありましょう!」
「帝室を惑わす君側の奸、まさしくそれに相違ありませぬな」
「下賤の者が殿下の御名を利用し、権勢を得んとする……由々しき事態にござる」
「門の内に置いてはなりませぬ。外へ、外へ追い出すべきだ!」
リヒャルトは内心でだけため息をつき、表情は変えずに報告書を指で揃えた。
ディートリヒは眉一つ動かさず、地図棒を静かに握ったまま。
ナイトハルトは扇で口元を隠し、目だけで成り行きを追っている。
クロプシュトックはさらに身を乗り出した。
「加うるに!専売を侵す油搾り、家畜の芋を人の口に運ぶなど、悪しき前例にございますぞ。税の根を揺るがし、秩序を乱し、戦の気勢を削ぐ――帝国を蝕む毒麦であると申せましょう!」
別の伯爵がすかさず声を重ねる。
「左様、左様。農政改善室とやら、聞こえはよろしいが、実のところは皇女殿下を惑わす算段にございましょう」
「殿下の御権威を笠に着て、我ら貴族領に口出しをいたすなど、決して許されてはなりませぬ!」
ざわざわと、波のような同調のうなりが広間を満たしていく。
「皇女殿下はお優しすぎる。情にほだされ、奸臣に利用されておられるのだ」
「まこと。帝国を真にお守りできるのは、由緒ある貴族たる我らのみでありまする」
言葉が積み上がってゆく。
軽い言葉だが積み上がればそこそこの量になる。
そこへ、皇弟アウグストがわざとらしく咳払いをした。
椅子の肘掛けに身を預け、涼しい笑みを浮かべる。
「諸卿、静まられよ」
一拍置いて、よく通る声で続ける。
「余とて、姪の身を案じぬわけではない。土に膝をつくなど、皇女にふさわしからぬ姿――諸侯のその嘆き、しかと受け取った」
貴族たちの視線が、一斉にアウグストへ集まる。
「ゆえにこそ。帝室は、いたずらに民と“交わりすぎて”はなりますまい。距離こそ威であり、威こそ秩序の芯。もし、その芯を揺るがす平民がいるとすれば――早めに抜き取らねばなりますまいな?」
柔らかい口調のまま、言葉だけは鋭く締める。
クロプシュトックが満足げにうなずいた。
「さすがは皇弟殿下。お言葉の通りにございます。ツチダなる者、これ以上殿下の側に置けば、いずれ帝室の尊厳にも傷がつきましょう」
「平民が“帝国農政顧問”とは片腹痛い。顧問とは本来、由緒ある家柄の者が任ぜられる席でございます」
「そうですとも。剣も学も持たぬ農夫が、帝国の条に口を出すなど、聞いたこともありませぬ!」
言葉が重なり、音が高くなる。
リヒャルトは、胸の内でだけ短く数を数えた。
――一、二、三。
杖音がひとつ。
石の床に乾いた音が走り、広間の空気がぴたりと止まる。
上段から、皇帝エルンスト・フォン・アーネンエルベがゆっくりと口を開いた。
声は低く、怒号でも叱責でもなく、ただ秤に重りを置くような響きだった。
「……ツチダなる者を、呼べ」
ざわめきが、一瞬、戸惑いに変わる。
皇帝は淡々と続けた。
「実際に聞けばよい。余は知らぬ者に、知らぬまま判を押すつもりはない。能力があろうとも、帝国に害をなすならば、排除せねばならぬ。しかし――帝国に益をなすならば、尊重せねばならぬ」
静かな視線が、列を左右になぞっていく。
「余は、帝国の繁栄を望んでいる。“血筋”も“格式”も分かる。だがそれらは、帝国を養う”実”の上にこそ立つものだ」
その一言で、広間の空気が変わった。
貴族たちの顔から血の気が引き、官僚たちの筆先が一斉に走り出す。
書記が、ツチダ招致の手続き条文を読み上げ始めた。
クロプシュトックが、なお食い下がろうと口を開く。
「し、しかし陛下、秩序というものには前例が――」
皇帝は首を横にも振らず、ただ一語だけを足した。
「帝国の秩序は法だ。前例ではない。前例は目安に過ぎぬ」
それ以上の飾りはなかった。
けれど、その一言が、先ほどまでの貴族たちの言葉をすべて軽くしてしまうほどには、重かった。
リヒャルトが静かに頭を垂れる。
「拝命。直ちに南西直轄領より、コウヘイ・ツチダを招集いたします」
ディートリヒは、地図棒を置いて短く付け加えた。
「護衛と道中の糧は軍務にて手当ていたします。畑を荒らさぬ手順で」
ナイトハルトは扇を閉じ、隣の若い官僚に小声で囁く。
「秤が置かれたね。今度は重さで決まる番だよ」
評議は散じ、金青の垂幕が静かに揺れた。
帝都から南西へ向けて、一枚の呼び札が飛ぶ。
“誰が読んでも同じ意味”を畑に刻んできた男に、今度は帝国の言葉が向けられる。
血が騒ぐ都で、ようやく秤が目を開いた。




